私の名前は立花隆史、62歳になります。妻に先立たれ、一人暮らしを始めて数年が経ちました。退職後に畑を借りて始めた家庭菜園が唯一の趣味となり、静かな日々を過ごしていましたが、心の中にはどこか満たされない寂しさがありました。
そんなとき、息子の智司から電話がありました。「父さん、俺たちとそっちに帰ってい一緒に暮らしてもいいか?」最初は耳を疑いました。この田舎では、若い人が満足して暮らすのは難しいだろうと思ったのです。しかし、智司の嫁である恵美も、3歳になる孫の葵も、一緒に暮らしたいと言っているというのです。そして決定打は、電話の向こうで聞こえた葵の「じいじの家に行ってもいーい?」という無邪気な声でした。その声に心が揺れ、私は彼らを家に迎え入れることにしました。
智司たちが引っ越してきた日は、家が一気に賑やかになりました。恵美は明るく、よく気のつく女性で、家事も完璧にこなします。そして葵は元気いっぱいで、家中を駆け回っていました。そんな葵が家庭菜園に興味を持ち、「じいじ、これなーに?」と聞いてくると、私も自然と笑顔になりました。
葵の小さな手で土を触りながら苗を植える姿は、とても愛らしくて、胸が温かくなりました。恵美も一緒に手伝ってくれ、家庭菜園の時間が一層楽しいものになりました。
そんな幸せな日々が、私の心を満たしてくれました。家庭菜園で採れた野菜を囲んでの夕食は、家族の絆を深める時間でした。智司と恵美が笑いながら話す姿、葵が保育園での出来事を一生懸命話してくれる声。それらが私にとって、何よりの幸せでした。
しかし、その平穏な日々は突然終わりを迎えました。
ある日、智司が病気で倒れて救急搬送されたのです。医師から告げられたのは「残念ながら…」という言葉でした。息子が心筋梗塞でこの世を去ったのです。
私はその場で膝から崩れ落ちました。息子がいない生活など、考えたこともありませんでした。葵を抱きしめながら、「じいじ、どうしてパパ来ないの?」という彼女の言葉に何と答えていいかわからず、ただ涙を流すことしかできませんでした。
その後の日々は、霧の中をさまようようなものでした。私は家庭菜園に足を運ぶ気力すら失い、家の中でぼんやりと過ごすことが増えました。一方、恵美は葵のために懸命に家事をこなしてくれましたが、夜になると一人で泣いている姿を何度か目にしました。その姿に胸が締め付けられる思いでした。
春が訪れたある日、恵美がふかしてある小さなサツマイモを私に差し出しました。
「お義父さん、これ、一つだけ出来ていたんです…」
彼女の目の下には濃いクマがありました。無理をしているのは明らかでした。そのお芋を口に入れると、ホクホクと甘くて智司の記憶が押し寄せてきて、つい涙に溢てしまいました。
「ありがとう、恵美ちゃん。」涙を隠すように、彼女は窓を少し開けました。外からは冷たい空気が入り込み、冬の気配を感じました。
「そろそろ雪が降る季節だなあ。」
「そうですね。」
彼女はそう言って庭に出て、洗濯物を取り込み始めました。彼女の健気な姿を見ながら、私は何もしていない自分が情けなくなり、このままではいけないと思いました。
久しぶりに畑へ出てみると菜園はきっちりと管理されており、私が畑に来ていない間も、恵美が世話を続けてくれていたことを知りました。彼女の献身に感謝すると同時に、自分がもっとしっかりしなければならないと強く思いました。
家族が支え合うことで、少しずつ私たちは前に進むことができました。そしてその支えが、恵美の大きな決断につながることを、私はまだ知らなかったのです。
それから数週間後、恵美が静かな表情で私に話しかけてきました。
「お義父さん、少しお話があります。」彼女の言葉には覚悟のようなものが感じられました。私は縁側に座りながら「もちろんだよ」と答えました。すると、彼女は真っ直ぐ私を見て話し始めました。
「私、地元の神戸に引っ越そうと思います。葵の将来のためにも、もっと良い環境を整えたいんです。そして…智司さんがいない分、私が頑張らなきゃいけないと思って…」その言葉を聞いた瞬間、胸がギュッと締め付けられるような気がしました。智司の代わりに家族を守らなければならないと思っていた矢先に、恵美がその覚悟を決めていたのです。
「神戸か…それが一番いいと思うなら、私は応援するよ。私のことは気にしなくていいし、いつでも戻っておいで。」
本当は寂しい気持ちでいっぱいでしたが、私はそう言うしかありませんでした。彼女の目には確固たる決意が見えましたが、その奥に小さな迷いも感じました。私に迷いを打ち明けることで、少しでも気持ちが軽くなればいいと思いました。
引っ越しの準備が進む中、葵が「じいじは来てくれないの?」と言うたびに、私は「じいじはこのお家を守らないといけないんだ。葵はママを守ってくれるかい?」と笑顔で返しました。しかし、心の中では、孫と過ごせなくなる寂しさで胸がいっぱいでした。
引っ越しの前夜、恵美が私の部屋をノックしました。
「お義父さん、少しお話ししてもいいですか?」
「どうした?」と返すと、彼女は部屋に入ってきて私の隣に座りました。
「お義父さん、今まで本当にありがとうございました。この家で過ごした時間は、私にとって宝物です。」
彼女の言葉に、私は何も返すことができませんでした。ただ、彼女の手を軽く握り「こちらこそ、ありがとう」とだけ言いました。その手は、少し震えていました。
翌朝、いよいよ引っ越しの日がやってきました。車に荷物を積み込み、私たちは玄関先で立ち止まりました。
「お義父さん、またすぐに会いに来ますね。」
「うん、楽しみにしてるよ。気をつけてな。」
葵が小さな手を振りながら「じいじ、大好き!」と叫び、車がゆっくりと発進していきました。私はその場に立ち尽くし、二人の姿が見えなくなるまで見送りました。
その後、私は再び一人になった家で静かな生活を送り始めました。智司の思い出とともに、恵美と葵が頑張っていることを励みに、家庭菜園に力を入れる日々を送りました。菜園で採れた野菜を送ることで、彼らとのつながりを感じていました。
あれから恵美は神戸で頑張っています。葵ももう小学生に入りました。息子がいなくなっても、恵美さんは休みの度に葵を連れてきてくれます。息子のいない喪失感は消えませんが、彼の存在が次の世代に受け継がれていると感じています。
これからも、もっと頑張って葵が成人するまでは、野菜を送り続けたいと思います。恵美と葵が健やかに育つことを祈りながら、私もまた日々一生懸命生きています。