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なかなか機会が無くて

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「こんな日が来るなんて、夢にも思わなかったの…ずっとこうなりたかったけど…」自分でも驚くほど、私のかすれた声が、暗がりの中に溶けた。彼の指先が、そっと私の頬に触れる。熱を持った掌が、震える肩を優しく包み込む。まるで壊れ物を扱うような、丁寧な動きだった。私の心も、体も、今、彼に預けられている。怖かったのももちろんある。でも、それ以上に幸せな気持ちになった。

私は、三十八歳になるまで一度も男性に体を触れられたことがなかった。他人には隠してきたこの秘密。

大したことはないと思うかもしれないが、重たくて、苦しくて、誰にも打ち明けられなかった。それを、彼だけは知っている。

「大丈夫だよ。」耳元で、優しい声がささやいた。その声すら私は敏感なほどに反応してしまう。私は小さくうなずく。

きっと、もう後戻りはできない。なぜ彼は、私を選んだのだろう?どうして、こんな私に、こんなにも優しくしてくれるのだろう?

三カ月前。

春の終わりで、少し肌寒い雨の日だった。傘も持たず、駅前で立ちすくんでいた私。仕事が忙しくて天気予報も見ずに家を出た。駅は無人駅なので、近くにコンビニもなく傘を売っている店なんてなかった。仕方がない。ずぶ濡れ覚悟で走るか。そう思って走り出そうとしたタイミングで、ふいに一本の傘が差し出された。

「大丈夫ですか?」顔を上げると、そこにいたのは、優しそうな男の人だった。年齢は、私より少し若いくらいかもしれない。

スーツ姿に黒縁の眼鏡。どこか、几帳面そうな印象を受けた。

「あ……はい。傘、忘れちゃって」情けないほどの声しか出なかった。頭にカバンを被っていた私は恥ずかしくて顔を伏せた。

すると、彼はにこりと笑って、言った。

「近くの高校で教師をしてるんです。よろしければそこまで、一緒にどうですか?」

教師。

どうやら彼は出張だったらしいが明日の授業の準備のため、こんな時間から学校に行かなければならないらしい。

その言葉に、私は少し身構えた。だけど、その柔らかな笑顔と、押しつけがましくない口調に、自然と心がほどけていった。

「す、すみません。じゃあお言葉に甘えて。私、岸本あかりと申します。」震える声で名乗った私に、彼は穏やかにうなずいた。それが、私と隼人さんの出会いだった。

あの日から、私たちはたびたび顔を合わせるようになった。偶然を装って、でもきっと、お互い意識していたのだと思う。缶コーヒーを一緒に飲んだり、たまたま同じ映画を観たり。そんな小さな「偶然」が、積み重なっていった。ある日、カフェで彼がポツリと言った。

「俺、こんなふうに女性と話すの、すごく久しぶりなんです。仕事柄、生徒や同僚とは話すけど、プライベートでは……なかなか」

彼は、笑ったけれど、どこか寂しそうだった。私も、そうだった。友達も少なく、仕事と家を往復するだけの日々。

誰かと、こんなふうに、肩肘張らずに話すことなんて、何年ぶりだっただろう。

「……私も、似たようなものです」そう答えたとき、隼人さんは、静かに私を見つめた。その目に、嘘がないことが分かった。

それからは、自然だった。彼と過ごす時間が、どんどん当たり前になっていった。駅までの道を一緒に歩いたり、たまに食事に行ったり。

それだけで、胸が満たされた。私たちの間に、恋人同士のような甘い雰囲気はなかった。けれど、ふとした瞬間、彼の指が私の髪に触れたり、エスカレーターで、すれ違う手の甲がかすめ合ったりすると、心臓が止まりそうになる。これが恋愛という感覚なのだろうか。

するとタイムリーな質問が彼から飛んできた。

「……あかりさんは、恋愛に興味ないんですか?」ある夜、カフェでそんなことを聞かれた。カップの中で冷めかけたコーヒーを見つめながら私は、嘘をつかなかった。いや隼人さんだったからこそ嘘をつけなかったのかもしれない。

「……怖いんですよね。人を好きになるのも、好きになられるのも」でも恋愛経験がない…そのことだけは、恥ずかしくて言えなかった。

でも、彼はすべてを察したかのように、微笑んだ。

「そうなんですね。まあ自然が成り行きが一番ですよね」彼のその言葉が、胸に沁みた。優しいのに、押しつけがましくない。

だから私は、初めて、自分から彼に「次も会いたい」と言えた。そして、少しずつ。ほんの少しずつ、私は彼に心を開いていった。

彼といると私も安心できた。一緒にいたいという気持ちは日に日に強くなっているように思う。でもまだ知らなかったんです。この穏やかな日々の中に、彼の「秘密」が隠されていることを…。

夏が近づくころ、彼はふいにこんなことを言ってきた。

「今度、うちに来ませんか?」突然の誘いに、心臓が止まりかけた。それまで、私たちはずっと公共の場所でしか会わなかった。

二人きりの空間それが、意味するもの。もしかしたら私もついに触れる機会が出てくるのかもしれない。

「……私なんかが、お邪魔してもいいんですか?」戸惑いながらも、そう答えた私に、隼人さんは微笑んだ。

「俺が、来てほしいんです」その一言に、私は逆らえなかった。迎えた当日。色々と準備をして彼の家へ向かった。

隼人さんの部屋は、意外にも質素だった。きれいに整えられていて、無駄なものがない。壁際の本棚には、教育関連の本や、少し古い文学作品が並んでいた。さすがは教師と言うべきか。ソファに座りながら、私は落ち着かない手つきでカップを持った。さっきから、彼の視線を感じる。優しく、でもどこか熱を帯びた目で、じっと私を見つめている。

私は胸がドキドキして苦しくなるほどだった。 何度もこうして二人きりでいても、彼は決して無理に触れてきたりはしなかった。

 でも、今日は違う。 空気が明らかに、違っていた。言い表しにくいが、気まずいものに近い空気だった…

「あかりさん…」彼の指が、そっと私の手に触れた。あまりにも優しい手つきなのに、私は反射的に体を強張らせた。

その反応を見て隼人さんは、すぐに手を引っ込めた。悲しそうな目をして、つぶやいた。

「ごめん…」その声を聞いた瞬間、私はすごく申し訳ない気持ちになった。

どうして、こんなにも臆病なんだろう。どうして、彼の好意を疑うようなことをしてしまうのだろう。

私は、震える手で、今度は自分からもう一度彼の手に触れた。

「あかりさん…?」

「……怖いんです。でも、あなたが嫌なわけじゃないんです。それだけはわかってほしくて…」精一杯、彼の手に触れながら言葉にした。

隼人さんは、静かにうなずいた。そして、そっと私を抱き寄せた。胸の奥で、何かが軋んだ。こんなに人を求めたのは、生まれて初めてだったし、それと同時にどこか、得体の知れない不安が胸をよぎったていた。

数日後、私は偶然、知ってしまった。たまたま私の先輩が隼人さんと同じ職場に勤めていた。最近隼人さんと一緒にいることを話したところ、彼女は神妙な面持ちで隼人さんについて語った。

隼人さんは、以前勤めていた学校を「ある問題」で辞めたこと。詳しいことは分からない。

 ただ、「女生徒との噂があったらしい」と、そんな声が耳に飛び込んできた。胸が締めつけられた。彼が、何か隠していることは、薄々感じていた。でもまさか、そんなことが。私は、混乱していた。優しい彼のことは信じたい。でも、怖かった。

もし、私も、彼にとって「遊び」にすぎなかったら?駅前のカフェに行けば、いつものように彼は笑顔で迎えてくれる。その優しさに、心が揺れる。もちろん信じたい気持ちはある。でも、もしかしたら裏切られるかもしれない…その二つの感情が、私の中でせめぎ合っていた。

それでも、やっぱり彼のもとへ行ってしまう。彼の温もりが欲しい。心のどこかで、もう戻れないことを、分かっていながら。

たとえ、すべてが壊れる結末だったとしても彼が好きだったから…。

その日私はまた隼人さんのもとを訪れた。

部屋の明かりは落とされ、カーテンの隙間から街灯の光だけが、淡く差し込んでいた。隼人さんは私を見て特に何も言わず部屋の中へ通してくれた。ソファに並んで座る私たちは、もう何も言葉を交わさなかった。言葉にしなくても、互いの気持ちは痛いほど伝わっていた。

隼人さんが、そっと私の髪に指を滑らせた。 細い指先が、耳の後ろをなぞる。

 一瞬、身をすくめた私の肩を、彼は優しく抱き寄せた。

「……嫌じゃないですか?」耳元でささやかれた声に、私は小さく首を振った。

体中が、熱くて、震えていた。怖い。だけど、それ以上に、触って欲しいという気持ちが湧いてくる。

そして隼人さんの手が、私の頬に触れた。指先が震えているのが分かった。彼も、きっと怖かったのだろう。

ゆっくりと、彼の顔が近づいてくる。まぶたを閉じた瞬間、柔らかいものが、そっと私の唇に触れた。最初は、本当にかすかに、触れるだけだった。でも次第に、隼人さんの腕が強く私を抱きしめた。私は、その腕の中で、ただ身を委ねた。

ソファの上、互いに探るように、何度も何度も唇を重ねた。 指先で、背中を撫でられるたび、声にならない吐息が漏れる。

 手が、そっと私の腰に回り、さらに深く抱き寄せられた。

「……あかりさん」名前を呼ばれるたびに、胸が締めつけられる。こんなにも、誰かに愛されたことは、今までなかった。

隼人さんは、私の肩にそっと口づけた。次第に、その唇は鎖骨へ、そして腕へ。こんなに触れられたことなど今まで一度もない。

だから緊張や不安はあった。でも隼人さんになら…と思い、彼にすべてを任せた。

隼人さんはまるで大切なものを確かめるように、丁寧に、肌に触れていく。私は、そっと彼のシャツの裾に指をかけた。

触れてはいけないような気がして、震えていた指先。それでも、彼は微笑んで、私の手を取った。

「大丈夫ですよ、俺たちは、もう……」その続きは、言葉にされなかった。しかし、互いに分かっていたのだと思う。

ゆっくりと、服の上から体を撫で合う。まるで、時間が溶けるようだった。どこに触れられても、どこに触れても、全身が熱を持って、とろけそうになる。彼の手が、私の背中に回る。

ぎゅっと引き寄せられた瞬間、心も体も、すべて預ける覚悟ができていた。

そっと、ベッドへ導かれる。ためらいがちに交わした視線。 その中に、確かな愛情と、欲望が入り混じっていた。やがて私たちは、ひとつになった。不器用で、ぎこちない私なのに、隼人さんは誰よりも優しい愛し方をしてくれた。

夜の静寂に、私たちの吐息だけが響く。何度も、何度も、名前を呼び合いながら。壊れてしまいそうなほど強く、抱きしめ合いながら。

私は、心の奥底から確信していた。 もう、二度とこの人を手放せない。

それが、たとえ彼が生徒と関係を持っていたことが事実としても、私は彼を愛し抜くと決めたのだ。

翌朝。

私は先輩に隼人さんと付き合うことを伝えた。

彼女は心配して付き合うのはやめた方が良いと言ってくれていたのだが、私はもう覚悟を決めた。

メッセージで隼人さんと交際すると報告したのだ。

そしてその後隼人さんが目を覚ますより先に、私はそっとベッドを降りた。冷えた床の感触が、現実を突きつけてくる。

服を拾い集め、静かに着替える。できるだけ音を立てないように眠っている隼人さんを起こさないようにしようと思っていた時、

ドアノブに手をかけると、不意に声が背中から届いた。

「……どこに行くんですか?」振り返ると、隼人さんがこちらを見つめていた。まだ眠たそうな瞳だった。

「どこにも行かないですよ。ちょっとパンを買いに」

そしてその後私たちは朝食を食べ、カップルらしい生活を送っていた。デートを重ねては関係性を深めていった。

でも関係が深くなればなるほど、生徒と関係を持ったのかもしれないということが頭の中に浮かんで離れなくなった。

そんなことを考えていたある夜のこと。

隼人さんから突然

「…ごめん。俺達終わりにしよう」隼人さんは、こぶしを握りしめながら必死に言った。

「終わり」私の初めてを奪っておいてそんなこと、受け入れられるわけがない。理由も知りたい。

突然どうして…

そんな思いが込み上げ隼人さんに気持ちをぶつけた。すると彼はその理由を語った。

すると先日先輩が隼人さんの元を訪ねてきたらしく、私のことを傷つけないであげてほしいと言われたらしい。

「いろいろ聞いたんでしょう?軽蔑したでしょう?それならもう俺達は…」

「お願い、もう、やめて……」涙があふれた。 必死で堪えようとしたけれど、止まらなかった。

「私は…過去にあなたがどうだったかは関係ない。私は今のあなたが好きなの…」隼人さんは涙を流した。

そこで初めてあの噂話の真相を聞いたのだ。どうやら隼人さんを好きな女子生徒がいたのだが、彼は教師という立場上優しく断った。

だがそれを逆恨みした生徒が、関係を持ったという噂を流したのだ。

事態を収拾するには隼人さんが辞めるしか無かった。誰も自分の言葉を信じてくれなかったそうだ。

そしてその学校を去った。

それ以来噂は広がってしまい、人が怖くなり、人間関係に距離を置くようになったし、自然と女性を話す機会もなくなったそうだ。

 私は、悲痛な顔で話す隼人さんの前まで歩み寄り、そして、そっと抱きしめた。

「私は、隼人さんの言葉を信じますよ……」耳元で囁かれたその言葉に、隼人さんは堪えきれなくなったのか、涙を流していた

季節は、冬へと向かっていた。吐く息が白く染まる朝、私は隼人さんと並んで歩いていた。

手を繋ぐでもなく、肩を寄せるでもなく。けれど、その距離はどんなものよりも、温かかった。

あれから、私たちは少しずつ日常を積み重ねている。

お互いに過去を知った上で、それでもそばにいることを選んだ。噂なんて、所詮噂でしかない。

関係ない。私はこの手で、彼の温もりを、真実を、確かめたのだから。あれから隼人さんは変わった。

前よりも、少しだけ甘えてくれるようになった。無理に強がったり、距離を取ろうとしたりしなくなった。

 そんな彼を見るたび、私は胸がいっぱいになる。

「ねえ、隼人さん」 ふと、私は声をかけた。

「これからも、たくさん一緒に思い出、作ろうね」彼は驚いたように私を見つめた後、ゆっくりと微笑んだ。

「うん。どんなことがあっても一緒にいて欲しい」その言葉が、冬の冷たい空気の中に、ぽうっと温かな灯りを灯した。

 まるで、二人だけの世界が、そこにあるみたいだった。

小さなカフェに入って、コーヒーを飲みながら、他愛もない話をする。

未来のことも、これからの夢も、まだ具体的には何も決まっていない。

 だけど、不安はなかった。

「大丈夫。私たちなら、きっと大丈夫だよ。」私は彼の手を握り返しながらそう呟いた。

たとえどんな噂が流れようと、どんな困難が待っていようと。

この人の隣で、私は生きていくと決めたのだから…

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