
土手に吹く風が、湿った夏の匂いを運んできた。俺は、あの夜を思い出すたび、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。叔母の、あの柔らかな肌。吐息。指先。すべてが、俺だけのものになった夜。
「だめよ……こんなこと……」 震える声でそう言いながらも、叔母は俺を拒まなかった。月明かりに照らされた畳の上で、ふたりはそっと重なり合った。俺と叔母は、許されない一線を越えた。だけど、なぜ彼女はあのとき涙をこぼしたのか。そして、あの夜を境に、俺たちの関係はさらに深まっていった。すべては夏の帰省から始まったんだ…
俺の名前は陽大。上京してそのまま就職した。それから現在は大学で助教をしている、30歳だ。
今年も、田植えの時期に合わせて、久しぶりに故郷へ帰ってきた。親父の実家は、広大な田畑を代々守ってきた農家だ。小さい頃から、田植えの手伝いは“家族総出”の恒例行事だった。そして、そこには俺の憧れの人がいた。叔母の佳澄さんだ。
父親の弟、つまり叔父の奥さんだ。佳澄さんは、14年前にこの家に嫁いできた。
当時まだ16歳だった俺の目には、都会からやってきた彼女が、まるで別世界の女神のように見えた。落ち着いた物腰、優しい笑顔、ふわりと香る石鹸の匂い。歳の差は10歳もあったけれど、俺はずっと、佳純さんに淡い憧れを抱いていた。
そんな想いを胸に秘めたまま、年月は流れた。俺は大学へ進学し、家を出た。佳澄さんとは、年に数回、帰省のときに顔を合わせるだけだった。だから、まさかこの夏のたった数日間の帰省で、あんなことが起こるなんて…
俺と佳澄さんの間に、決して元には戻れないものが生まれるなんて思っていなかったんだ。そんなこと、想像すらしていなかった。
今日はそんな帰省での出来事について話そうと思う。
実家に着いたのは、午後を少し回った頃だった。畦道の向こうに、懐かしい瓦屋根が見えた瞬間、ふっと心が軽くなる。
「……ああ、やっぱりここは落ち着くな」車を降り、重たい荷物を抱えながら玄関へ向かう。
引き戸を開けた途端、ふわりと漂ってきたのは、甘い花の香り。思わず鼻をくすぐられて立ち止まった俺に、明るい声が飛んできた。
「陽大くん!? おかえり!」振り返ると、そこにいたのは佳澄さんだった。エプロン姿で、手にタオルを持ったまま、こちらへ駆け寄ってくる。変わらない笑顔と見た目に少し安心したように思う。ただ以前と違う点もある。どこか以前よりも色っぽさを増している気がした。
「ただいま、佳純さん。お世話になります」
ぎこちなく頭を下げる俺に、佳純さんはくすっと笑った。
彼女が笑うと、昔と同じように、胸の奥がひどくざわめいた。
「そんな、よそよそしいこと言わないで。家族なんだから!」
ぱたぱたとタオルで俺の額の汗を拭きながら、佳純さんは優しく言った。
至近距離で見る彼女の顔は、やわらかくて、あたたかかった。
「ほんと、すっかり大人になったね。昔は、まだまだ子供っぽかったのに」
「そんなこと、ありましたっけ……?」
「ふふ、覚えてない? もじもじして全然しゃべってくれなかったじゃない?」冗談めかして笑う彼女に、耳まで熱くなる。
あのころの思春期真っただ中とは違う感情が、今の俺にはある。
それを、佳純さんに悟られたくなくて、慌てて話題をそらした。
「それより、田植え、明日からですよね?」
「ああ、うん。でも、無理しないで。出来る範囲でいいのよ?」
「いえ、体動かしたいんです。こっちじゃ都会と違って、空気もうまいし」そう言うと、佳純さんはまた嬉しそうに笑った。
まるで、太陽の下のひまわりのような笑顔だった。その晩は、家族揃っての食事だった。
祖父母、父母、叔父、佳純さんそして俺。久しぶりに囲む大きなちゃぶ台は、賑やかで、どこか懐かしい匂いがした。
「陽大、東京はどうだ? 結婚はまだしないのか?」酒が入った叔父の無遠慮な質問に、場がどっと沸く。
俺は苦笑いしながら、首を振った。
「いや……仕事ばっかりしてるよ。大学の研究室も忙しいし」
「生徒にはモテるだろ?おまえは昔から結構もててたじゃないか」佳澄さんも、目を細めて俺を見た。
まるで、親戚の少年を見守るような、優しい眼差しで。だけど、俺は知っている。
佳澄さんのそういう無自覚な仕草が、どれだけ揺さぶられるか。夜が更け、皆が寝静まった頃。俺は一人、縁側に腰を下ろしていた。
耳をすませば蛙の声と、遠くで風に揺れる竹林のざわめきだけが聞こえる。
「……陽大くん、起きてたの?」背後から、そっと声をかけられた。振り返ると、寝間着姿の佳澄さんが、月明かりを背に立っていた。
「眠れなくて……佳澄さんも?」
「うん。……久しぶりに賑やかで、なんだか興奮しちゃって」そう言って、佳純さんは俺の隣にそっと腰を下ろした。
すそが風に揺れて、白いふとももがちらりと見えた。ドキリとする。
昔、憧れていた佳澄さんは、遠い存在だった。でも今、こうして隣にいて、同じ夜空を見上げている。
「陽大くん、大学、楽しい?」ぽつりと問われて、俺は空を見たまま答えた。
「楽しいですよ。……でも、時々、無性に田舎が恋しくなります」
「そうなんだ。それは嬉しいな~」佳澄さんは、微笑みながらそう言った。その笑みを見てまた俺も照れてしまった。
以前のように佳澄さんを見ることはできなくなっていたのだ。このまま帰省中に何もないことを祈るばかりだった。
翌朝。
田んぼの泥に足を取られながら、俺は必死で苗を植えていた。
「ほら、腰をもっと落として。そう、上手上手!」佳澄さんが、後ろから手を添えて教えてくれる。
それはいいのだが…柔らかな手が、俺の腰にそっと触れた瞬間、思わず心臓が止まりそうになる。
「ご、ごめんなさい。なんか、変な体勢で……」
「いいのよ、最初は誰だってそうだもん」佳澄さんは、にこりと微笑む。
彼女の手が触れてしまい俺は変に意識してしまっていた。彼女の顔が、汗に濡れてきらきらと光っていた。
うなじから滴る汗が、鎖骨をつたって胸元に流れていく。俺は、慌てて目を逸らした。こんな感情、抱いちゃいけない。
佳澄さんは、叔父さんの奥さんだ。家族だ。でも血は繋がっていない。そういう対象として見てはいけない。頭の中ではそうわかっていた。
だけど、理性ではわかっていても、目が彼女を追いかけてしまう。
午後になり、作業が一段落すると、佳純さんがタオルと麦茶を持ってきてくれた。
「はい、お疲れさま。ちゃんと水分とってね」渡されたコップに手を伸ばしたとき、ふいに指先が触れた。
たったそれだけで、電流のような感覚が走る。
彼女も、小さく息をのんだ。 一瞬、目が合う。 しかしすぐに、彼女はふわりと笑ってその場をやり過ごした。
気のせいか…?佳澄さんも何か焦ったように見えたのだが…
胸の奥がざわついたまま、俺は麦茶を一気に飲み干した。
夜。また縁側に座っていると、今夜も佳澄さんがやってきた。昨日よりも薄手の寝間着姿。無防備なほど柔らかい表情で、隣に腰を下ろす。
「今日は、すっかり手伝ってもらっちゃったね」
「いえ、楽しかったです」たわいもない会話が続く。でも、どこかぎこちない。お互い、気づいているのだ。
空気の中に、名前をつけられない感情が漂っていることを。佳澄さんが、ぽつりとつぶやいた。
「もうおじさんに近い年齢になっちゃったね……」
「……佳澄さん?」
「ううん、なんでもない。……でも、こうして隣にいると、なんだかドキドキするなぁ」
冗談めかして笑う。だけど、目は、笑っていなかった。月明かりに照らされた横顔は、どこか寂しげで俺は、衝動的に手を伸ばしていた。
そっと、彼女の手を握る。驚いた顔をしたが、すぐに、ふるふると小さく首を振った。
「だめ…だよ、陽大くん…」消え入りそうな声だった。
でも、俺の手を振りほどこうとはしなかった。
「……わかってるけど…俺だって…」それでも、佳純さんに触れたかった。
ずっと憧れていた彼女の温もりを、確かめたかった。ゆっくりと、佳澄さんの手を両手で包み込む。
体中が熱くなり、呼吸さえ苦しくなる。
「陽大くん……駄目だよ……」震える声で、彼女は言った。
けれど、その声には、明らかな「拒絶」では無かった。そっと、指先で彼女の髪に触れる。
柔らかい感触が、胸に甘く突き刺さる。もう、戻れない。理性の警告を、耳の奥でかすかに聞きながら、それでも俺は、佳純さんの頬に手を添えた。彼女は目を閉じる。その一瞬の沈黙のあと、俺と佳澄さんの間にはもはや男女の空気が流れていた。
俺は、もう一度、問いかけるように彼女を見つめた。心の中では、最後の理性が叫んでいる。
─今なら、まだ引き返せる、と。だけど、佳純さんがそっと自分から顔を傾けてきた。
意志を持った、小さな動きだった。もう、迷う理由はなかった。そっと、唇を重ねる。
最初は触れるだけの、ためらいがちなキス。だけど、佳純さんの体が小さく震えたのを感じた瞬間、すべての感情が溢れ出した。
彼女が、かすかに吐息をもらす。その彼女の声が、俺の全身に火をつけた。ぎゅっと、彼女を胸に抱きしめる。
細くて、壊れそうな体だった。ずっと、こうしたかった……俺はやはり佳澄さんを求めていたんだと思う。
胸の奥から湧き上がる想いを、もう押さえられなかった。佳澄さんも、俺の背中にそっと手を回してくる。
指先が震えていた。俺たちは、ぎこちなくも、お互いを求め合うように、手探りで触れ合った。
首筋に唇を落とすと、佳純さんは小さく体を震わせた。
「陽大くん……」名前を呼ぶ声が、切なかった。それは、抗うことを諦めた、大人の女の声だった。
俺は、彼女をそっと押し倒す。畳の上に彼女の細い体が沈む。月明かりが、彼女の濡れた瞳を照らしていた。
部屋には、虫の音と、俺たちの荒い呼吸音だけが満ちている。手探りで、佳純さんの指に、自分の指を絡めた。
重ねた手の温もりに、互いの想いが滲み出す。彼女の体に、優しく、しかし確かに触れていく。
うなじに唇の跡をつけ、肩先に手を滑らせる。薄い部屋着越しに伝わる体温に、息が詰まった。
「陽大くん、本当に大丈夫かな……?もしバレたら…」佳澄さんが、か細い声でつぶやく。 俺は、彼女の手を強く握り返した。
「俺が、守るよ……絶対に」そんな約束をしても、この関係が許されないことはわかっている。これは不倫だ。
家族だからといって許されることはない。わかっている。だけど今は誰にも邪魔されたくない。
いまこの瞬間だけは、すべてを忘れたかったんだ。佳澄さんは、そっと目を閉じた。
俺達はそのまま自然と重なり合った。
叔母と甥の関係。それは禁じられた関係だ。だが同時に、誰よりも強く、純粋な想いがあった。
俺たちは互いの存在を確かめるように、優しく、深く、俺たちは、息を押し殺してひとつになった。
翌朝。
まだ夜明け前の、薄暗い客室の中で、俺は目を覚ました。隣にいる佳澄さんの寝顔を、そっと見つめる。
かすかに動くまつ毛。整った横顔。
そして、昨夜、俺を受け入れてくれたときのぬくもりが、まだ手のひらに残っている。
しかし胸の奥に広がっていくのは、言いようのない罪悪感だった。俺は、なんてことをしてしまったんだ…
佳澄さんは、俺の父の弟──つまり叔父さんの、れっきとした妻だ。
誰よりも近しい、家族に等しい存在だった。そんな人に、俺は……。
自分を責める思いが、喉元までせり上がってくる。昨晩は後悔なんてしないと思っていた。
でも朝になると頭が冷静になっているからか、ありとあらゆることを考えてしまった。
だがそれでも、腕の中の佳澄さんを放したくなかった。ふいに、佳純さんが目を覚ます。
そして、俺と目が合った。
「……陽大くん」かすかに震える声だった。
次の瞬間、佳純さんはすっと体を起こし、布団を握りしめた。その背中は、小さく震えていた。
「昨日のことは……夢だったのよ」佳澄さんが、俯きながらぽつりとつぶやいた。それは、俺の胸を鋭くえぐった。
「でも、俺は……」
「お願い。……それ以上言うと全部壊れちゃうから…」懸命に絞り出したような声だった。
彼女の肩が、悔しそうに、小刻みに揺れていた。わかっている。
わかっているのに──俺は佳澄さんの手を掴んでしまった。
「俺……もう無理だよ、失いたくない」
「……ダメよ」佳澄さんは、そっと俺の手を振り払った。
その手は、ひどく冷たく、震えていた。どうしようもない現実が、二人を引き裂こうとしていた。
このまま続ければ、すべてを壊してしまう。だけど、彼女を失うのが、怖かった。
静かな田舎の朝に、鳥の声が聞こえてくる。そのいつも聞こえてくる鳥の声が、俺たちの罪を余計に際立たせた。
それから、俺と佳澄さんは、何事もなかったかのように振る舞った。田植えの手伝いをしながら、親戚たちに笑顔を向け、普通の甥と叔母に戻ったふりをした。しかし心のどこかでは、ずっと彼女を探していた。視線を交わせば、すぐにわかってしまう。
それは佳澄さんも、同じだった。
俺と佳澄さんはあれ以来二人だけの空間に一緒にいることはなかった。
俺はその機会を探っていたのだが、佳純さんがそれを避けているようだった。
迎えた最終日。
帰りのバスに乗る前、俺は家の裏手、あの夜二人きりになった離れの部屋の前に立っていた。
「陽大くん」背後から、そっと呼ばれた。
振り向くと、佳純さんが立っていた。手には、小さな紙袋。中には手作りのお守りが入っていた。
「これ、持っていって」そう言って、俺にそれを差し出す。指先が、触れた。
「佳澄さん…俺、また、必ず会いに来るから」俺は、決意を込めて言った。
わかっている。このまま二人だけの関係を作れるわけないってことは…
やはり叔父さんや家族のことを考えると、気持ちだけで行動に移すことは躊躇ってしまう。だからこれで今は良いんだ。
すると佳澄さんは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「待ってるね…」その言葉に、涙がこぼれそうになるのをこらえた。誰にも言えない秘密。
家族ですら知らない、ふたりだけの絆。道は険しいかもしれない。
けれど、あの夜、俺たちが確かめ合った想いは、本物だった。
この先、何度傷つこうとも、何度迷おうとも、俺は絶対に、佳純さんを迎えに来る。
バスの窓から、遠ざかっていく家並みを見つめながら、俺は胸に誓った。
ただ今度来るときはそれなりの覚悟を固めて来なければならない。
きっと佳澄さんが待っていると言ったのは、俺が次来る時に気持ちが冷めていると思っているのかもしれない。
そんなこと、俺はないのに。
次もきっと俺は、佳純さんのことを好きという気持ちを持ったままやって来るだろう…