「多田野さん、私、一歩を踏み出すのが怖いんです。」
畑を吹き抜ける夕方の風が、彼女の髪を揺らした。夕陽に照らされた横顔はどこか寂しげで、それでも美しかった。恵美香さんがこんなことを言うなんて――予想もしていなかった僕は、しばらく言葉を失った。
「何があったんですか?」ようやく絞り出した声が、自分でも驚くほど震えていた。彼女は手にしていた土をそっと落とし、視線を地面に向けたまま、少しだけ苦笑いを浮かべた。
「……翔が幼稚園に入る前に、夫がいなくなったんです。何も言わずに、私たちを置いて。ずっと一緒に頑張れると思っていたのに……信じた分だけ、裏切られるのが怖くなったんです。」言葉を紡ぐたびに、彼女の声はかすかに震えていった。
「それでも、翔がいるから私は笑っていられる。でも……いつもいろいろと悪い方向に考えてしまうんで…」彼女の声が、今にも消えてしまいそうだった。胸が締め付けられるような思いがした。
「そんなこと、ないですよ!」考えるよりも早く、言葉が口をついて出た。自分を責め続けてきた彼女に、そんな必要はどこにもないのだと、僕は伝えたかった。
「まっすぐ育ってるじゃないですか。元気で明るくて立派な夢を持っているのは、恵美香さんが一生懸命に育ててきたからです。自分を責める必要なんて、まったく無いですよ。」彼女は顔を上げた。その目は驚きに見開かれ、次の瞬間、頬を涙が一筋伝った。夕陽に照らされたその涙は、宝石のように輝いて見えた。
僕の名前は多田野 博司。代々農家を営む我が家。僕自身はサラリーマンをしながら合間合間で父を支えていた。そんなある時、父が腰を痛めて農作業が出来なくなったのだ。さすがにあの広大な土地をサラリーマンを続けながら父の代わりに僕一人で続けることは出来ない。仕事を辞めるかどうかずっと悩んでいたのだが、中々踏ん切りがつかないのにも理由があった。僕自身がそこまで農業に思い入れが湧かなかったのだ。そんな気持ちで月日だけが経っていく。案の定、日に日に畑の管理が追い付かなくなってきていた。
そんなある日、職場での休憩中に彼女の何気ない一言が、ここまで僕たちの運命を変えてくれることになるとは思わなかった。
「多田野さん、最近何かあったんですか??」
彼女がふいにそんな質問をしてきたのは、昼休みのことだった。彼女は同期の同僚でシングルマザーで頑張り屋さんの女性だ。普段から何かと僕を気にかけてくれる女性だ。
「父が腰を痛めてしまって、仕事を辞めて畑を継ぐか悩んでて…」
「え?良かったら私手伝いますよ!翔も農業をしてみたいってずっと言ってたんです…」息子の翔くんに自然と触れる体験をさせたい、と恵美香さんは話してくれた。
「ええ!本当ですか?正直言って、体力いるし、泥だらけになるし、虫だらけだし…大変ですよ?」
そんな返事をしたのだが、彼女の真剣な眼差しに押されて、結局、休みの日に二人を畑に誘うことになった。
翔くんが畑に足を踏み入れると、その瞬間に目を輝かせた。
「うわあ、広い! すごい!」その声はまるで、土の匂いに喜んでいるようだった。翔くんはすぐに夢中になって作業を始めたが、まだ体も小さく、力も足りない。土の中にしっかり埋まった大根を抜こうとするたびに、「よいしょ!」「んんっ!」と声を上げて奮闘する姿がなんとも微笑ましかった。
「翔くん、手伝おうか?」と声をかけると、翔くんは少しだけ頬を膨らませた。
「ううん、一人でやりたいんだ!」翔くんの小さな手が大根をしっかり握る。けれど、びくともしない大根に、ついに翔くんは僕の方を振り返った。
「やっぱり、おじさん助けて!」僕は少し笑いながら彼の隣にしゃがみ込んだ。
「よし、じゃあ一緒にやるか。」すると、恵美香さんも「私もやる!」と袖をまくって加わることに。三人で「せーの!」と声を合わせ、力いっぱい大根を引っ張った。その瞬間、大根はスポッと勢いよく抜けた。
……が、予想以上の勢いで、三人とも後ろに転がり、尻もちをついてしまった。
「痛たたた……」一瞬の静寂の後、翔くんが「やったー! 抜けた!」と大きな大根を振り回しながら大笑い。私も恵美香さんも、それにつられて声を上げて笑った。
「あははっ、私まで転んじゃった……」と恵美香さんが息を切らしながら笑っている姿が、妙に愛おしく感じられた。
「僕の夢はね、農業で有名になりたいんだ」翔くんが夢を語る。聞くと小学生ながらにずっと農業をしたいと思っていたんだそうだ。そんなこと恵美香さんも知らずに驚いていた。
「日本の農作物ってすごいんだよ」と無邪気に彼は説明している。翔くんの話に二人で感心していると、翔くんがふと、私と恵美香さんを交互に見て言った。
「ママ、なんでおじさんとこんなに仲いいの?」
その言葉に、一瞬二人の笑みが止まった。
「翔!!おじさんじゃなくて……お兄さんでしょ?」と恵美香さんが慌てて注意したが、彼女の頬がほんのり赤く染まっているのを見逃さなかった。
「そっか、お兄さんか! ねえ、ママ、お兄さんのこと好きなの?」翔くんの無邪気な一言に、恵美香さんの顔がさらに赤くなり、「ちょ、翔!」と必死に彼を止めようとしていた。私も、言葉が出ずに、ただ恥ずかしさをごまかすように笑うしかなかった。けれど、その場の空気の温かさに、私の心も少しだけ緩んでいた。
それからというもの、翔くんと恵美香さんは毎週畑に通うようになった。二人が作業を楽しむ姿を見ているうちに、いつの間にか僕自身の心にも変化が訪れていた。ある小雨の日、翔君は祖父母と遊ぶことになり来られなくなった。僕は「今週は来なくていいよ」と伝えたのだが、恵美香さんは一人でやってきた。
「……こんなときまで来なくてもいいのに。」
「大丈夫です。畑にいると、落ち着くんです。翔がいないと寂しいですけど……でも、ここに来ると、心が軽くなるんです。」
雨に濡れた髪をかき上げながら話す彼女の姿は、どこか悲しげで、それでも芯の強さを感じさせた。
「でも……怖いんです。翔はあんなに元気なのに、私はちゃんとこの子を守れているのか……。また、誰かを信じて裏切られたらどうしようって……」
彼女の声が雨音にかき消されそうになったその瞬間、私は思わずその手を握りしめた。
「僕がいます。翔くんのことも、恵美香さんのことも、どんなときも支えます。だから、一人で抱え込まないでください。」
その言葉が本心だと気づいたのは、彼女の温かい手の感触が伝わった瞬間だった。数日後、僕は会社を辞める決意をし、彼女に伝えた。
「もうこのまま終わらせてもいいかなと思っていたこの畑を、恵美香さんと翔くんと一緒に守りたいと初めて思ったんです。一緒に未来を作っていけたら、こんなに幸せなことはありません。」
「僕と結婚してください!!」いきなりの僕の告白に彼女は涙ぐみながら微笑み、そっと私の手を握り返してくれた。僕は彼女のその手を引き寄せ、彼女を強く抱きしめた。夕焼けに染まる畑で、翔くんと彼女とともに、私は新しい一歩を踏み出した。