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兄の嫁

いつまでも若く純愛背徳

ビルの谷間をすり抜ける冷たい風が、裕二のスーツの裾を揺らしていた。その日、彼は通勤ラッシュの人波の中で足を止めた。行き交う人々の顔はどれも無表情。スマートフォンに目を落とし、ひたすら同じ方向へ流れる様子は、まるで大きな機械の歯車の一部のようだった。裕二もまた、その歯車の一部でしかなかった。IT企業での忙しい日々……意味のないグダグダと責められるだけの会議、満員電車で押しつぶされる毎日、家に帰ればただ眠るだけの夜。働けば働くほど、充実感どころか、心の中の空虚さは深まるばかりだった。

そんなある日、ふと足を止めて見上げたビル群の隙間に、澄んだ冬空が小さく覗いていた。それを眺めると、不思議と心の中にぽっかりとした穴が開いた気がした。「このままで俺はいいのか…?」そんな疑問が初めて湧いた瞬間だった。その夜、実家から一通の電話が届いた。「美奈子さんが倒れたんだ」。その知らせは、裕二にとって最後の歯車を止めるきっかけとなった。義姉の美奈子が過労で倒れたとの連絡を受け、裕二は自分の中に眠っていた思いに気づいた。「この機会に田舎に帰るか‥‥」。そう決断し、会社を辞めて田舎の実家に戻る決心を固めた。
実家は明治時代から代々続く漬物屋を営んでいた。本来なら、5年前に亡くなった兄貴が店を継ぐはずだった。しかし、兄が心筋梗塞で倒れ、義姉の美奈子が女社長として店を支え続けてきた。けれども、その美奈子が心労で倒れた今、漬物屋は存続の危機に立たされていた。
「裕二、あんたが手伝ってくれると助かるよ」と、母が電話口で静かに告げた言葉が胸に響いた。「美奈子さんが頑張りすぎて倒れちゃって……あの子に任せきりだった私たちが悪いの」
裕二は、その言葉に答えを出すまでに時間はかからなかった。「俺が手伝ってやるしかない……」。都会で失った「何か」を探すために、自分の未来を初めて自分の手で選ぶことを決意した。
田舎の駅に降り立った瞬間、裕二は久しぶりに吸い込んだ空気の冷たさと土の匂いに懐かしさを覚えた。駅前の風景は昔とほとんど変わっていない。けれども、実家に戻ると目の前に広がる光景は記憶とまるで違っていた。売り場には閑古鳥が鳴き、漬物の仕込み場にはどこか寂しげな雰囲気が漂っている。母は美奈子の看病に追われ、残された父が高齢に鞭を打ちながら手探りで店を切り盛りしている状態だった。
「都会での経験を活かして、何とか立て直そう」。裕二はそう心に誓ったが、子供の頃から知っていたとはいえ漬物作りは想像以上に奥が深く、甘い覚悟では到底乗り越えられないものだった。
「ぬか床は生き物なんだよ」と父が教える。温度や湿度、微生物の働き……一つの工程を間違えれば、全てが台無しになる。「それでも面倒臭がらず、丁寧に世話をすれば、必ず応えてくれるんだ」と、父の手はぬか床の表面を優しく撫でるように動いた。母からは味付けの微妙な調整を学びながら、裕二は試行錯誤を重ねていった。しかし、両親よりも厳しく、そして優しい先生は義姉の美奈子だった。美奈子は、無理をしない程度に現場に出てきて裕二へ指導しようとしてきた。一度倒れたとはいえ、彼女の漬物作りへの妥協を許さない情熱を持ち続けていた。
「美奈子さん、無理しないで休んでいてくださいね」と裕二が声をかけるたび、彼女は笑って首を振った。
「ううん私には休んでる暇なんてないの。この店は、家族みんなで守らないとダメなんだから」
その真剣な表情に、裕二は胸を締め付けられるような思いを感じることがあった。それが単なる尊敬なのか、それ以上の感情なのか……裕二にはまだわからなかった。

ある日、美奈子が「ぬか床を混ぜる作業」を教えてくれることになった。店の裏手にある仕込み場で、二人で大きなぬか床を囲む。
「もっとこう…力を込めて、でも優しく混ぜるの」と、美奈子が言いながら裕二の背後に立ち、彼の腕にそっと手を添えた。
「力を込めすぎると、漬物が硬くなっちゃうの。ぬか床は撫でるように扱わないとダメよ」
彼女の声は柔らかく、耳元で囁かれるたびに裕二の体は緊張でこわばった。近づきすぎた彼女の体温が背中越しに伝わり、甘く香るぬか床の匂いに混じり、美奈子の香りが鼻をかすめる。心臓がバクバクと音を立て、どうにか冷静を保とうと手元に集中するが、耳まで赤くなっているのが自分でもわかった。
「裕二くん、どうしたの?ちゃんと集中してる?」
「あ、いや、大丈夫です…」
裕二はぎこちなく答えたが、どう見ても大丈夫ではなかった。その真剣な姿勢に、裕二はただ美しさだけでなく、美奈子の芯の強さに改めて惹かれていく自分を感じていた。
その後裕二はIT企業で培った知識を活かし、オンラインショップを立ち上げた。これまで地元中心だった販路は全国規模へと広がり、SNSを活用した宣伝も功を奏して売上は着実に回復していった。
そんなある日、両親が裕二と美奈子を呼び出し、こう切り出した。
「いきなりこんなこと言って悪いんだけどね。裕二、美奈子さんと結婚しなさい。この店を一緒に支えていけるのはあなたたちだけなのよ」
突然の言葉に二人は目を見合わせ、同時に顔を真っ赤にしてうつむいた。
その夜、美奈子は漬物の仕込みを一心不乱に続けていた。裕二が何度止めてももうちょっとで終わるからと辞めようとしない。
それどころか裕二の声が聞こえないほど集中している。
「美奈子さん!もう良いんです!」そう言いながら裕二は美奈子を後ろから抱きしめた。
ビックリした美奈子はようやく我に返る。「ごめんなさい…」
「美奈子さん、もう無理はしなくて良いんだよ。俺もいるんだから一人で背負わないで」
裕二のその言葉に美奈子は涙ぐみながら
「……裕二くんが戻ってきてくれて、本当に助かってる。正直、一人では限界だったの…」
「そんなことないですよ。美奈子さんがこの店を守ってくれたから、今があるんです」
裕二がそう言うと、美奈子は照れたように笑いながらも、どこかホッとした表情を見せようやく一息ついた。
「…裕二くん、これからもこの店を一緒に守ってくれる?」
「あっ、待ってください!僕から言わせて!」と遮り、裕二は息を吸い込むと、言葉を震わせながらも続けた。
「お洒落なことは言えないし、兄さんみたいにスマートじゃない。でも、僕に美奈子さんを幸せにさせてください」
その言葉に美奈子は目を丸くした後、赤くなった頬をぬか床に向けながらそっと頷いた。

二人の手で蘇った漬物屋は、今もぬか床の香りで満たされている。その熟成の深まりとともに、裕二と美奈子の絆も静かに、しかし確かに深まっていった。平凡ながらも笑い合える毎日……それは、都会では決して味わうことのできなかった、豊かな幸せの形だった。

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