「啓介君?」
背後から聞こえたその声に、俺は足が止まった。いや、止まるというよりも、何かに捕まえられたように動けなくなったのだ。振り返ると、そこに立っていたのは兄の妻……真里菜さんだった。5年前、突然の脳梗塞で兄を亡くして以来、一度も会うことのなかった彼女が、こんな形で、こんな場所で現れるなんて……。俺は彼女の顔を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。目の前にいるのが信じられなかった。言葉を発しようとしたが、何を言えばいいのかわからない。ただ胸の奥がざわざわして、口の中が乾くばかりだった。
「え? 真里菜さん……? お久しぶりです。」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど情けなかった。でも彼女はそんな俺を気にも留めず、柔らかく微笑んでくれた。その笑顔……懐かしい笑顔の中に、何とも言えない寂しさと、何かを堪えているような張り詰めたものが混ざっていた。
「啓介君がここにいるなんてね。久しぶりね。元気にしてた?」
「はい、まあ……なんとか。」
「そう……私もね……まあ、なんとかぼちぼちやってるわ。」
真里菜さんの声は穏やかだったが、その奥には静かに積もり積もった疲労が漂っているように感じられた。目尻にはうっすらと疲れの影が浮かんでいる。その影が、彼女の5年間を物語っているようで、俺はなんだか胸が少し締め付けられる思いがした。でも、どう声をかけたらいいのかわからない。ただ目の前の再会を、運命的に感じている自分がいた。
俺は大手菓子メーカーで営業をしている。地方への転勤が多い仕事で、今回の異動で四度目の引っ越しだ。正直、慣れたとは言いがたく、新しい土地での生活はいつも不安が付きまとった。そんな中で、真里菜さんと再会できたのは、俺にとって驚きであると同時に、妙な救いでもあった。ただ、その救いは長く続かなかった。引っ越し先の住居が不動産会社の手違いで入居できないことがわかったのだ。数日間はホテルでなんとかやり過ごしていたが、それも長くは続かない。途方に暮れていた俺に、再び真里菜さんが手を差し伸べてくれた。
「だったら、うちに来ればいいじゃない。」
「えっ……でも……」
「そんなの気にしないで。あなたの兄の家でもあるんだし、広すぎて私ひとりじゃ持て余してるくらいなんだから。」
彼女の提案は、思いもよらないものだった。俺は一瞬、言葉を失った。兄が生前建てた家だ。俺も何度か訪れたことがある家。そこに住むなんて……いや、そこに住まわせてもらうなんて、どこかおかしな気がしてならなかった。けれど、彼女の言葉は続いた。
「遠慮しなくていいのよ。豪君も、啓介君ならきっと歓迎してくれると思うわ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かがほろほろと崩れた気がした。兄が今もこの家で、俺を見守ってくれているような気がしたのだ。俺は覚悟を決めたように、頭を下げた。
「じゃあ……しばらく、お世話になります。よろしくお願いします。」
久しぶりに訪れた兄の家は、やはり広く、立派だった。そして、広くて立派であるがゆえに、その空間に漂う寂しさが否応なく伝わってきた。庭には兄が趣味でしていた家庭菜園がそのまま残っている。雑草が少し伸びているものの、ちゃんと手入れされているのがわかった。きっと真里菜さんが、兄の代わりに世話をしているのだろう。
真里菜さんは、家庭菜園の小さなトマトの苗に手を伸ばしながら言った。
「この菜園ね、豪君が始めたのよ。休みの日に、せっせと土を耕してたわ。私、最初は全然興味なかったけど……いなくなってからは私がしてるんだけどね…」
その言葉に、彼女の孤独がどれほど深いものなのかを感じた。俺は何も言えなかった。ただ、彼女のためにできることを探したいと思った。
「啓介君も、少し手伝ってくれる?」
「もちろんです!」
それ以外にも、掃除や料理、買い物など、少しずつ彼女を手伝うようになった。最初はぎこちなく、手伝いというよりも邪魔をしているような気さえしていたが、それでも彼女は嫌な顔ひとつせず、嬉しそうに笑ってくれた。その笑顔を見るたびに、俺はもっと役に立ちたいと思うようになっていった。
ある日、仕事帰りにお礼として小さなケーキを買って帰ったとき、彼女が少し驚いた顔をして笑った。
「啓介君はほんとに豪君にそっくりね。あの人も、なんかあるとすぐにケーキを買ってきてくれたのよ。」
その言葉を聞いたとき、俺の胸が少しだけ痛んだ。真里菜さんの中で、兄は今も大きな存在として生き続けている。その事実を、俺は否応なく突きつけられたのだ。
そんなある日の夜、夕食を取りながら、彼女がぽつりと呟いた。
「夜の静けさって…なんだか嫌になるのよね。」
その言葉は、俺の胸を深く刺した。彼女がひとりで、この広い家で、どれだけの孤独に耐えてきたのかを考えると、俺は言葉を失った。彼女の寂しさを、少しでも埋められる存在になりたい。そんな思いが胸の奥で膨らんでいくのを感じた。
その週末、真里菜さんに誘われて、俺たちは近くの夏祭りに出かけた。久しぶりに浴衣を着たという彼女は、普段よりも少しだけ明るい笑顔を見せてくれた。屋台で焼きそばを買い、射的をして、金魚すくいをする……どれもただのありふれた時間だったはずなのに、俺にはそのひとつひとつがかけがえのないものに思えた。花火が夜空を彩る中、彼女がぽつりと呟いた。
「啓介君が来てくれてよかった…」その言葉に、俺の胸は温かく満たされた。そしてその帰り道、彼女が立ち止まり、俺に向き直った。
「啓介君、これからも……私と一緒にいてくれない?」
彼女の言葉に、俺は胸の奥から何かが湧き上がるのを感じた。同時に、兄への申し訳なさが胸を締め付けた。けれど、彼女の瞳はそれ以上の覚悟と優しさを宿していた。
「……俺は、真里菜さんのことが好きです。でも……兄さんのことを思うと……。」俺の言葉を聞き、彼女は首を横に振った。
「いいのよ。啓介君は啓介君でしょ。それで十分だから。」
彼女の言葉に、俺は胸の奥から何かが溢れ出すのを感じた。兄への申し訳なさ、真里菜さんへの想い……それらが胸の中でせめぎ合い、俺は言葉にならない声を漏らした。
「真里菜さん……」気づけば、俺は彼女を抱きしめていた。その肩は驚くほど小さく、けれどどこか頼りがいがあった。
「啓介君……」
彼女の声が震えた。やがて、俺の胸に小さな温かい涙がこぼれるのがわかった。その涙は、彼女が5年間抱え込んでいた孤独と、それを少しずつ手放していく覚悟のようだった。
「……俺でいいんですか?」
「いいのよ。啓介君がいてくれるなら、それだけで。」言葉を失った俺は、彼女を少し強く抱きしめた。その夜、俺たちは静かに新しい一歩を踏み出した。
それから数ヶ月後、俺は兄の家を出て一人で近くのアパートに引っ越した。兄を超えて彼女に一人の男として見てもらうために。
その部屋には兄が残した家庭菜園の端っこで作っていた小さなサボテン飾っていた。このサボテンを眺めるたびに兄への敬意と、彼女と共に歩む未来への希望が交差する。
「啓介君、これからもよろしくね。」
「もちろんです。俺が必ず幸せにします。」
兄の記憶を胸に抱きながら、俺たちは新しい一歩を踏み出した。