最近、本社に戻ってきたばかりの俺、大川慎吾は、少し落ち着かない日々を過ごしている。本社の張り詰めた空気にまだ馴染みきれていない。それに加えて、雑用のような仕事が多く、正直なところ少し不満もあった。そんなある日、編集長に突然呼び出された。
「大川、ちょっと来い。」編集部の奥にある編集長室で、俺は少し緊張しながら椅子に座った。何かまずいことでもしたかと内心ヒヤヒヤしていた。
「お前、川上ゆうって覚えてるか?」わがままだとかクセが強いとか、そんなことを聞いていたが俺は全然そんなことは感じかったのを記憶している。
「もちろん、覚えていますよ。」そう答えると、編集長は苦笑いしながら腕を組んだ。
「まあ、覚えてりゃいい。それでだ、彼女から新しい小説を書のに取材に行く必要があるらしいんだが、問題があってな。」
「湯村温泉に取材に行きたいんだとさ。それだけならいいんだが、誰も担当したがらねえ。」編集長の言葉に俺は目を見開いた。
「だから、お前行ってくれ。」俺は返事に詰まったが、編集長はそれ以上説明する気はなさそうだった。俺が言葉を探していると、付け加えるように言われた。
「それにな、大川……彼女がお前をご指名なんだよ。」「えっ、俺を?」「そうだ。『大川くんじゃなきゃ嫌』ってな。まあ、お姫様の対応頼むよ。」まさか、そんな理由で俺に回ってきたとは……。
「……わかりました。やります。」結局、俺はその一言で全てを引き受ける形になった。編集長が「楽しくやってこいよ。あと怒らせるなよ。」と軽く言ったのが、妙に気に障ったが、それ以上は何も言えなかった。
こうして、俺とゆうさんとの湯村温泉取材旅行が始まることになった。取材旅行当日、俺は指定された時間に伊丹空港のロビーでゆうさんを待っていた。正直、どんな顔をして会えばいいのかわからず、落ち着かない気分で周囲を見回していた。
「大川くん、おひさ。」声に振り向くと、彼女がゆったりとしたワンピース姿で立っていた。派手ではないが、どこか品のある服装で、大きなサングラスをかけている。以前会った時よりも少し落ち着いた雰囲気に見えたが、その微笑みは相変わらずだった。
「お久しぶりです、ゆうさん。」「お久しぶりね。元気そうで何より。」俺が軽く頭を下げると、彼女は柔らかい微笑みは眩しかった。ここからは車での移動だ。助手席に座った彼女は、リラックスした様子で車内を見回している。「大川くん、運転うまいの?。」
「うーん…でも、せっかくですから、ゆっくり楽しみましょう。」俺がそう言うと、彼女は満足そうに微笑んだ。移動中、俺たちは軽い世間話をしながら時間を過ごした。彼女は時折、ドラマや昔の小説の話題を出してきたが、どれも自然に流れるような会話だった。しかし、途中で彼女がふと思い出したように話し始めた。
「私ね、ずっとこの湯村温泉に来たかったのよ。」
「そうなんですね。昔のドラマで有名ですし素敵なとこですよね。」俺がそう答えると、彼女は窓の外を見つめながら小さな声で続けた。
「うん……私、ここで自分をリセットしたいなって思ってさ…」その言葉に、どう返事をしていいかわからず、ただ運転に集中するふりをした。
彼女は少しずつ、過去の話を始めた。毒親だった父親に性的虐待を受けていたこと、中学を卒業してすぐに家を出て、夜の仕事をしてなんとか生きてきたこと。そして、今こうして作家として活動している自分が、どれほど遠回りをしてきたかを淡々と語った。
「祖父母の家が当時湯村にあってね。当時祖父母に預けられる機会があったの。あの時拒否せず祖父母と一緒に暮らしてたらこんな人生にならなかったのになとずっと思っててね…だから、今回ここへ来てやり直せないかなと思ってね…」彼女の声には寂しさと少しの希望が混じっていた。その言葉に、俺は改めて彼女がこの旅行にかける思いを知った気がした。
温泉街に近づくと、彼女は少しずつ明るさを取り戻し、「ねえ、途中でソフトクリーム買おうよ!」と軽い調子で話し始めた。俺もそれに合わせて笑いながら応じた。
旅館に到着すると、歴史を感じさせる趣のある建物が目の前に現れた。彼女は目を輝かせながら「ここ、本当に泊まりたかったの!」と嬉しそうに言った。フロントでチェックインを済ませ、案内された部屋は和室の一室。
「えっ、ここ……一部屋だけなんですか?」「そうよ。でも、次の間があるから、別々に寝れるから大丈夫でしょ?」彼女は何でもないことのように言う。
「いやいやいや、え?大丈夫ですか?」俺が焦って言うと、彼女は肩をすくめて微笑んだ。
「もう、取材なんだからいいじゃない。そんなに気にしないでよ。」確かに次の間があるなら、俺がそこを使えば問題ないのかもしれない。俺は困惑しながらも、自分を納得させようと部屋を見渡した。部屋についている露天風呂を見た彼女は、嬉しそうに声を弾ませた。「ねえ、大川くん、このお風呂、すごくない?これだけでも価値があるわね。」
「確かに、贅沢ですね。」俺は軽く笑って応じたが、内心では少し落ち着かない。この狭い空間で、彼女と二人きりという状況に、どうしても緊張が拭えなかった。
「じゃあ、私先に入るわね。」彼女はタオルを手に、あっという間に浴衣を脱いで露天風呂に向かった。ガラス越しに見える湯気の中、彼女の姿が動いているのがわかる。俺はどうしたらいいのかわからず、部屋でお茶を淹れたり、荷物を整理したりして気を紛らわせた。しばらくして、露天風呂から彼女が戻ってきた。タオルを体に巻きつけ、濡れた髪を手で軽く払っている。頬がほんのり赤く染まり、湯気の残る彼女の姿に、俺は目のやり場に困った。
「ねえ、一緒に入らない?」彼女がふいに言った。
「えっ……いや、それはちょっと……。」「どうして?タオルを巻いていれば大丈夫でしょ?そう取材よ!インスピレーションの為よ。」彼女はそう言って、軽く首を傾けた。
俺は戸惑いながらも、彼女に負けてしまった。「……じゃあ、少しだけですよ。」
浴衣を脱ぎ、タオルを巻いて露天風呂へ向かうと、彼女は湯船の中でリラックスした様子で外の景色を眺めていた。ライトアップされた庭が湯気の向こうに浮かび上がり、幻想的な雰囲気だった。彼女がそう言うので、俺も湯船に体を沈めた。だが、緊張で体が硬くなってしまい、彼女の方を直視することができない。
「ねえ、大川くんこっち見て!」
「見てますよ。」と答えたものの、視線を泳がせる俺に、「早く見て!」彼女は少し拗ねたように言った。
「えっ、それは……。」俺が返事に困っていると、彼女は不意にタオルをめくったのだ。その瞬間、タオルの隙間から見えた彼女の白い肌に、俺は息を飲んだ。ただそれ以上に衝撃だったのは、彼女の体に残る火傷や古い傷跡だった。
「…こんなことされたの…」彼女は俯きながらぽつりと呟いた。俺は言葉を失いながら、ただその痕跡を見つめていた。「…ひどい…」気づいたら、そう呟いていた。
彼女は俺の表情を見て、小さく笑った。「ありがとう、怒ってくれて。」その言葉には覚悟と諦めのようなものが混ざっていたが、俺には彼女がどれほどの思いを抱えてきたのか、想像もつかなかった。ただ一つ、彼女の過去に向き合うその強さを感じた。
湯気の中で静かに続く時間に、俺は彼女に対する気持ちが、ただの仕事関係ではないことをぼんやりと自覚し始めていた。
夜が更ける頃、俺は布団に入ってようやく落ち着きを取り戻していた。温泉での出来事や彼女の話が頭の中を巡り、なかなか寝つけそうにない。その時だった。隣の布団がかすかに揺れ、気配を感じたと思ったら、彼女が俺の布団をそっと持ち上げて潜り込んできた。
「ちょっ……!ゆうさん。何してるんですか!」思わず声を上げると、彼女は俺の胸に抱きつきながら顔を埋めた。
「少しだけ…」彼女の声はかすかに震えていた。俺は戸惑いながらも、その震えに気づき、反論することができなかった。湯冷めしたのか、彼女の体は少しひんやりしていて、その感触が俺の胸に伝わる。
「辛かったんですね。」俺はそっと彼女の背中に手を回し、優しく撫でた。「大丈夫ですよ。俺がそばにいますから。」そう伝えると、彼女は小さく頷き、俺の胸にさらに顔を埋めた。「ありがとう……。」その声は、とても小さくて儚かった。
しばらくすると、彼女は安心したのか静かな寝息を立て始めた。俺は動くこともできず、ただ彼女の髪を撫でながら、その温もりを感じていた。だが、俺自身は全く眠れなかった。彼女の柔らかさや温もりが、どうしようもなく俺の心を揺さぶり続けた。夜が明ける頃には、目の下に隈ができるほど寝不足になっていた。
翌朝、彼女が先に目を覚まし、布団から起き上がった。俺がぼんやりと布団から顔を出すと、彼女は明るい声で言った。
「おはよ、あらら、目の下に隈ができてるわね。」「……そりゃ、寝れるわけないですよ。」俺がため息混じりに答えると、彼女は楽しそうに笑った。
「私のために我慢してくれたんだね。偉い、偉い。」そう言いながら、彼女は俺の頭をポンポンと撫でた。「もう、勘弁してくださいよ……。」俺は苦笑いしながら言ったが、彼女は急に俺の顔をぐっと引き寄せて、不意にキスをしてきた。「今日の夜はご褒美あげるから許してね。」彼女の瞳が優しく揺れているのを見て、俺は何も言えなかった。ただ、心の底で彼女の言葉が響いているのを感じていた。その後、俺たちは取材という名目で、湯村温泉の名所を巡り、地元の名物を食べ歩き、まるで恋人同士のように過ごす時間が続いた。そして俺は、この旅が終わる頃には、彼女の隣でこれからも支え続ける決意を固めていた。
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