
僕は仲居浩一、38歳。弁護士事務所で事務職をしている。弁護士じゃないけど、受付や相談者の対応をすることも多い。仕事柄、浮気や離婚の相談を受けることも珍しくないが、まさか自分の身にこんな形で降りかかるとは思わなかった。
結婚して7年になる妻の明美はキャビンアテンダント(CA)をしている為、職業柄世界中を飛び回っている。おかげで夫婦の生活リズムはまるで噛み合わない。一週間顔を合わせないどころか、まともに話さないなんてこともざらだ。結婚当初は、そんなすれ違いも「お互いに自由があるからこそ楽しい」と思えていた。けれど、今となってはほとんど接点がない夫婦生活に、何の意味があるのか分からなくなっている。子供はいない。家庭には夫婦それぞれが15万円ずつ入れるルールで、あとは自由に使う。生活費や家計の管理も淡々と分担されていて、冷え切った関係を象徴しているようだ。明美が浮気している可能性を、心のどこかで薄々感じていたこともある。頻繁な外出や、携帯を手放さない習慣。帰宅しても会話がないどころか、目も合わせようとしない態度。だけど、それを確認する勇気はなかった。下手に突き詰めて、関係が完全に壊れてしまうのが怖かったのだ。
そんな僕が、ある日、仕事中に一人の女性と出会った。彼女の名前は田村涼子。事務所に離婚の相談で訪れた彼女は、最初に僕を見て「弁護士さんではなく、あなたとお話がしたいんです」と言った。最初は驚いた。なぜ僕なんだろう、と。だけど、目の前にいる彼女の表情を見て、僕はすぐに言葉を失った。涼子さんは背筋を伸ばし、毅然とした態度で立っていた。その美しさは息を呑むほどで、どこか近寄りがたい雰囲気さえ漂っていた。けれど、その鋭い眼差しの奥には、何かを必死で抑え込もうとしているかのような、不安や迷いの色がちらりと見えた。
「夫の浮気調査をお願いして、調査報告書を受け取ったんです。どうしても見てもらいたくて……」
そう言って、涼子さんは鞄から一冊のファイルを取り出した。その手がかすかに震えているのを見て、僕の胸は妙な緊張感に包まれた。
「これが、調査の結果です」彼女が静かに差し出したそのファイルを、僕は恐る恐る受け取った。中を開いた瞬間、目の前の光景がぐにゃりと歪むような感覚に襲われた。写真に映っていたのは、涼子さんの夫と……僕の妻、明美だった。二人がホテルに入っていく姿が鮮明に映し出されていた。写真には日時と場所が記され、逃れようのない現実を突きつけていた。
「……明美が……」思わず名前を呟く僕を、涼子さんはじっと見つめていた。その視線が痛いほど刺さる。僕の頭の中では、彼女が話す内容が響いていた。涼子さんの夫は機長で、明美とは1年前から不倫をしているらしい。二人は勤務希望を調整し合い、海外で誰にも邪魔されずに時間を過ごしているそうだ。その事実を淡々と語る涼子さんの声は穏やかだったが、その分だけ僕の動揺は大きかった。
「……ごめんなさい。突然こんな話をしてしまって。でも、あなたにも知って欲しかったんです」涼子さんはそう言って、小さく息をついた。その時、彼女の目に浮かぶ悲しみの色に、僕の胸が締め付けられるようだった。彼女の冷静さと、どこか張り詰めた様子が交錯し、僕はどう反応すればいいのか分からなかった。
「……あなたは、どうしますか?」涼子さんが静かにそう問いかけてきた時、僕は何も答えられなかった。ただ、握りしめたファイルが震える音が微かに聞こえるだけだった。
涼子さんに「どうしますか?」と問われた時、僕はしばらく答えられなかった。彼女が差し出した浮気の証拠を握りしめたまま、心の中で何度も言葉を探していたが、どれも空回りしていた。
「……すぐには答えられそうにありません」ようやくそれだけを口にすると、涼子さんは小さく頷いた。その表情には、僕以上に苦しみを抱えているような影が見えた。
「そうですよね。私も、最初はそうでしたから…」彼女の言葉に救われた気がした。その後、僕たちは事務的なやり取りを終えただけで、涼子さんは静かに事務所を後にした。
それから数日、僕は何も行動を起こせずにいた。明美の浮気を知りながらも、彼女にそのことを問い詰める勇気が持てなかった。普段通りの生活を装いながらも、彼女の一挙手一投足が気になって仕方がない。
そんな中、涼子さんと話す中で、慰謝料を請求する計画が持ち上がった。涼子さんの提案は、浮気相手たちに「会社に不倫を報告しない代わりに慰謝料を支払うこと」を条件にするというものだった。僕はその提案に同意し、先輩の弁護士を介して交渉を進めることになった。
慰謝料の交渉は、思っていた以上に難航した。最初の話し合いで、明美はあからさまに不機嫌な態度を見せた。「私たちの問題を会社に持ち込むなんて、卑怯だと思わないの?」明美は挑発的な口調で僕に言い放った。僕は冷静を装いながらも、内心では怒りが沸き上がっていた。
「不倫をしてるのはそっちだろ?僕は事実を伝えるだけだ。それを避けたいなら、責任を果たすべきじゃないのか?」
一方、涼子さんも夫である田村さんとの話し合いで、同様に苦しんでいたらしい。涼子さんが後で語ったところによると、田村さんは会社に知られるのを恐れつつも、最初は金額を大幅に引き下げようと交渉してきたという。
「300万なんて高すぎだろ?ありえない!」田村さんの冷静な態度に隠れた焦りを見抜いた涼子さんは、毅然とした態度で交渉を続けた。
「それは無理でしょ。あなたたちの裏切りによって生活が崩れたのだから、それに見合った責任を取ってもらいます」その後、弁護士を交えた粘り強い交渉が続き、最終的に僕も涼子さんも、それぞれ300万円ずつを受け取ることで合意した。
明美との離婚が成立したのは、それから数ヶ月後だった。最後の話し合いで、明美はどこか吹っ切れたような表情をしていた。
「……これで終わりね」明美の声は平静を装っていたが、その裏にはどこか寂しさが感じられた。僕も彼女に対して複雑な感情を抱えていたが、それを言葉にすることはなかった。
涼子さんとの関係は、離婚が成立した後も続いていた。お互いに支え合う中で、自然と愛を育むようになっていった。最初は、傷ついたもの同士が寄り添うだけだった。仕事の愚痴や不安を語り合い、励まし合う中で、いつしかお互いにとって欠かせない存在になっていたのだ。
1年が経つ頃、僕たちは一緒に住むことを決めた。慰謝料を元手にマンションを購入し、そこを新しい生活の拠点にすることにした。住む場所を探している間も、涼子さんと二人で家具を見たり、インテリアを話し合ったりする時間がとても楽しかった。
引っ越しが終わった初めての朝、涼子さんがキッチンから「行ってきます」と笑顔で言った。その瞬間、僕は自然に彼女の頬にキスをした。
「これからも、よろしくお願いします」そう言った僕に、涼子さんは少し照れながらも優しく微笑んだ。その笑顔は、僕のこれまでの苦しみをすべて忘れさせてくれるような温かさだった。僕たちは互いに浮気をしないこと、そしてどんなに忙しくてもお互いを大切にすることを約束し、新しい生活を歩み始めた。元妻たちは結局別れることなく再婚し、今では子どもまで授かったという話が風の噂で聞こえてきた。考えてみれば、僕たちの関係はただ「夫婦が入れ替わった」だけのようにも思える。それを滑稽だと笑い飛ばせる自分がいる一方で、あの600万円という大金と、今こうして涼子さんと共に過ごせている日々を思うと、これが僕たちにとって最良の結果だったのかもしれない。
涼子さんの笑顔は、まさに僕の光だ。その笑顔を守りたいと思う気持ちが、これからの僕を前に進ませてくれる。いくつもの壁を越え、ようやく僕たちは本当の幸せを見つけたのだと、今はそう信じている。
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