
バスを降りると、冷たい風が頬を撫でた。
懐かしい。この町に来るのは、大学を卒業して以来だからもう15年ぶりだ。
見慣れたはずの景色が、どこか違って見えるのは、時間が経ったせいなのか、それとも俺の心境が変わったせいなのか。
足を向けるのは、かつて大学生活を送った下宿先。
大学時代、俺が生活費を切り詰めながら生活していた場所。ここがなければ、俺は大学を卒業できなかったかもしれない。そんな大切な場所だった。でも、今回はただ懐かしさを感じるために来たわけじゃない。
俺の背を押したのは、一本の電話だった。
「……啓介さん?お久しぶりです」聞き覚えのある声。けれど、そこにあったのは、俺の記憶に残るあの少女の声ではなく、落ち着いた大人の女性の声だった。
「……綾香ちゃんか?」
「はい、お久しぶりです。突然なんですが…お母さんが……亡くなりました」一瞬、何を言われたのか分からなかった。
祥子さんが? あの祥子さんが?
言葉を出すことが出来ず、言葉がすぐに出てこなかった。
「葬儀は家族だけで先に済ませたんですけど、近所の人がお別れ会みたいなものをしてくれと言うので。もし、時間があれば……うちに寄ってもらえますか?」
「……ああ、わかった。行くよ」それしか言えなかった。
平沢祥子さん。俺にとっては、第二の母のような存在だった人。いや、そんなことを言ったら、「誰が母親よ」と怒られるかもしれない。祥子さんは、そんな人だった。最初に出会ったときも、怒られた。
俺が下宿を始めたばかりの頃。
「おばちゃん、これってどこに置いたらいいですか?」何気なく言ったつもりだった。でも、次の瞬間、祥子さんの表情がピクリと変わった。
「……ちょっと、今なんて言ったの?」
「え? えっと……おばちゃん……?」
「誰がおばちゃんよ!!」思い切り怒鳴られた。いや、怒るというより、顔を真っ赤にして本気で拗ねていた。
「すみません…悪気はなくて…」
「晩ごはん、抜きね」
「えぇっ!? ちょ、待ってくださいよ!」結局ちゃんと用意はしてくれたが、その日の夕飯は、味噌汁とたくあんだけだった。
他の下宿生にも「お前、謝れよ……」と呆れられ、俺は仕方なく祥子さんのところへ行った。
「ごめんなさい……」祥子さんは、ふっとため息をついて、「私も大人げなかったね」と笑った。
あのころの祥子さんは、まだ40歳手前だったはず。俺には女性経験の無い俺は彼女のことをちゃんと女性としては意識していた。それくらい若く見えたし綺麗なお姉さんって感じだった。でも、娘もいるしつい出てしまった言葉だった。でも今の俺が37歳になってみると、彼女がどれだけ若かったかが分かる。
あのとき、何気なく「おばちゃん」と呼んでしまった自分を思い出すと、なんだか申し訳なくなる。怒られた思い出なら、他にもたくさんある。大学入ってすぐに、俺はバイトを始めた。自由になる金を手にすると、少しずつ遊びが増えていった。新しくできた友達と飲みに行くようになり、夜中に帰ることも増えた。
ある日、とうとう下宿先に友達を連れ込み、夜遅くまで騒いでしまった。
次の日の朝。
「啓介くん、ちょっと」祥子さんに呼ばれ、廊下で説教を受けた。
「あなた、何のために東京に来たの?」
「……いや、それは……」
「遊ぶため?」
「違います……」
「なら、昨日の騒ぎは何? 近所から苦情が来たんだけど」
「……すみません」
「勉強する気がないなら、ご両親に電話してここを出て行ってもらうからね」金槌で頭を殴られたような気分だった。
「そんな……!」
「私はご両親に頼まれて、あなたを預かってるのよ。どんな気持ちで私にお願いしたか分かってる? それを無駄にするの?」
その場では何も言えなかった。でも、その言葉が突き刺さって、それからの俺は遊びは適度にし、勉強にも集中するようになった。
そのおかげで俺は大学生中に税理士の資格を取り、卒業後は税理士事務所に就職できたのだ。
今の俺があるのは、あのとき祥子さんが叱ってくれたおかげだった。
そんな祥子さんが、もういない。信じたくなかった。あの人ほど元気な人が、あっさりといなくなるなんて。
下宿先に着いた。玄関の前に立つと、一瞬だけ躊躇した。扉を開けたら、本当に祥子さんがいないという現実を突きつけられるような気がしたからだ。でも、そんなことを考えていても仕方がない。
俺は、ゆっくりとドアを開いた。居間まで入るとそこにいたのは、綾香だった。
「……啓介さん」懐かしい顔。でも、そこにいるのは、もう中学生のころの綾香ではなかった。
28歳になった彼女は、昔よりもずっと落ち着いた雰囲気をまとっていた。
でも、どこか祥子さんの面影も残している。
「来てくれて、ありがとう」静かに微笑む綾香を見て、俺はゆっくりと頷いた。
この家に戻ってきたことが、ようやく現実として胸に落ちてきた。家の中に足を踏み入れると、ほんのりとした懐かしい匂いが鼻をかすめた。
この下宿の木の香り、畳のにおい。祥子さんがよく焚いていたお香の残り香……どれもこれも、昔と変わらない。だけど、違う。
祥子さんがいない。それだけで、ここがまるで別の場所のように感じられた。
「こっちへどうぞ」綾香に案内され、仏壇の前に座る。
遺影の中の祥子さんは、相変わらずのハツラツとした笑顔だった。
「なんで、こんなに元気そうな顔してるんだよ……」ぽつりと、独り言のように呟く。
「お母さんらしいでしょ?」綾香が小さく笑う。
「最後まで、母は母でした」
「……何があったんだ?」
「倒れてるのを見つけたときは、もう……」綾香の声がかすれた。
「すぐに救急車を呼んだけど……間に合いませんでした。くも膜下出血だったって」綾香の手が、ギュッと膝の上で握りしめられる。
「もっと早く気づいてあげられたら……」
「綾香ちゃんのせいじゃないよ」言いながら、俺は手を合わせる。
「ごめんな、もっと早く会いに来るべきだったな」祥子さんの笑顔を見つめながら、心の中でそう呟いた。
この日は歴代の下宿生が何人も集まっていた。
「祥子さんには、本当にお世話になったからなぁ」
「怒られたけど、なんだかんだで面倒見がよかったよな」
「いろいろ厳しかったけど、あれがあったから今の俺があるって感じ」みんな、口をそろえてそう言っていた。
俺だけじゃない。ここにいた人たちはみんな、祥子さんの厳しさに救われたんだ。
お別れ会の最中、何度も思っていた。
「本当に、もういないのか?」そんなはずないだろ、と。
この家のどこかから、「ちょっと、そこの置きっぱなしにしない!」とか、「早く起きなさい!」とか、ズバズバした声が聞こえてきそうなのに。でも、現実は変わらない。
その日、お別れ会が終わると、綾香が俺に話しかけてきた。
「啓介さんあとで少し、お話いいですか?」
「……ああ」家の中に入る。リビングのテーブルに向かい合って座ると、綾香はふっとため息をついた。
「……私、この下宿を畳もうと思ってるんです」
「え?」思ってもいない言葉に、俺は目を瞬いた。
「というか、もう下宿生がいないんです。みんな新しくて良いマンションが近くに出来てますから」
「だからここを更地にして、新しく税理士事務所を建てようと思うんです」
「……税理士事務所?」
「はい」綾香は頷く。
「実は……私、税理士になったんです」
「……マジか?」意外すぎて、思わず素っ頓狂な声が出た。
「はい。母がずっと言ってましたよ? 『あんた、勉強を教えてもらってたんだから、啓介くんみたいになりなさい』って」
「……そうだったのか」
「それに……私自身も、啓介さんみたいになりたかったから。まあ受かるまでに8年もかかっちゃいましたけど」そう言って、綾香は少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「私が税理士を目指したのは、啓介さんがいたからなんです」俺は、じっと綾香を見つめた。冗談を言ってるわけじゃない。本気の目をしていた。
「それで……」綾香は、少し言葉を選ぶようにしてから、ゆっくりと口を開いた。
「もしよかったら……啓介さん、うちの事務所の所長として働いてくれませんか?」
「え?」
「ずっと、啓介さんと働きたかったんです」綾香の言葉が、静かに胸に響く。
「……ずっと?」
「ええ。最初は憧れでした。でも……今でも、ずっと初恋を忘れられなくて……」言葉の端が、少し震えている。
「……一緒にいてください」俺は、何も言えなかった。
この15年、綾香はずっと俺のことを考えてくれていたのか?
4年間妹のような感覚でただの勉強を教えてあげただけなのに?
「……ずっと俺のこと……?」綾香は、小さく頷いた。
「最初は、本当に憧れだったんです。でも、気づいたら、ずっと心の中にいたんです」
そう言いながら、綾香はテーブルの上でそっと手を握る。
「……ずっと、そばにいてほしいの」指先が少し震えていた。
俺は、そっとその手を握り返した。
「……分かったよ」綾香の瞳が、少し潤んだ。
「本当に……?」
「本当に」
「じゃあ……もう少し、そっちに寄ってもいいですか?」俺は、無言で綾香を引き寄せた。
ふんわりと、シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐる。
「啓介さん…」囁くような声が、耳元で響く。
綾香がこちらを見ている。目をそらすことが出来なかった。その距離を埋めた。唇が触れた瞬間、頭の中が真っ白になった。
俺は何をしてるんだ? いや、これは……何なんだ?綾香の手は、小さく震えていた。でも、逃げる様子はない。むしろ、そっと俺の背中に手を回してきた。
「……俺、もうおじさんだよ?良いのか?」
「後悔するわけないです」綾香は、俺の胸に顔をうずめるようにして、小さく笑った。
「15年も待ったんですから」もう、俺に迷いはなかった。この気持ちを押し殺して、何になる?
「……じゃあ、えっと…よろしく」
俺がそう言うと、綾香は少し驚いた顔をして、次の瞬間、クスッと笑った。
「啓介さんらしいですね」その夜、俺たちは昔のことをたくさん話した。
祥子さんのこと。大学時代のこと。そして、お互いの15年間について。
「本当は、税理士になった時に連絡しようと思ってたんです」綾香が、グラスを揺らしながら言った。
「でも、なかなか受からなくて……」
「そうか……」
「やっと受かって、税理士事務所に転職も出来た矢先に母が亡くなって、一人になってしまって…」
グラスの氷がカランと鳴る。
「でもね、すぐに思ったんです。啓介さんなら、きっと来てくれるって」
「……もし俺が結婚してたらどうしたの?」
「ううん、啓介さんは絶対一人だと思ってた」
「おいおい…当たってるけど…」綾香は、少しだけ頬を染めて俺を見た。
「だから、こうして来てくれて、本当に嬉しいです」
静かな夜。部屋の灯りだけが、ぼんやりと俺たちを照らしていた。この瞬間、俺ははっきりと理解した。俺は、綾香が好きだ。
昔のように、ただの妹みたいに可愛いと思っていたわけじゃない。今、目の前にいる大人の女性として、綾香と一緒にいたい……そう思っている。
翌朝、俺たちは改めて事務所のことを話し合った。
「ここを建て直して、新しい事務所にする。それでいいのか?」
「啓介さんとなら、やっていける気がするから」俺は、小さく息をついた。
「じゃあ、やるか」
「……本当に?」
「俺もそろそろ独立したいと思ってたからな。だから資金は俺が出す」そういうと綾香の目が潤んだ。
それから半年後。
新しい税理士事務所が完成した。
「祥子税理士事務所」看板を見上げながら、俺は綾香の横顔を盗み見る。
「感慨深いな」
「ですね……」
「祥子さんが見たら、なんて言うかな」綾香は少し考えてから、笑顔で答えた。
「きっと、『税理士なんて地味な仕事、二人でやって楽しいの?』って言いますよ」
「はは……言いそう」俺たちは並んで、事務所の前に立った。
「これからも、よろしくお願いします」綾香が手を差し出す。
俺は、その手をしっかりと握った。
「……ああ。こっちこそ、よろしくな」
その瞬間、ふと風が吹いて、どこかから祥子さんの笑い声が聞こえたような気がした——。