僕が経営する小さなデザイン会社に、彼女は面接にやって来た。面接室のドアが開いた瞬間、僕は時間が巻き戻るような感覚に襲われていた。40歳と履歴書にあったその女性が、僕の幼い頃の初恋の「お姉さん」に似ていたからだ。彼女の名前は田中恵子さん。40歳で離婚歴あり、6歳の娘がいるという履歴書の内容だけでは分からない柔らかな雰囲気と凛とした姿に、僕は一瞬にして記憶の中の彼女と結びつけてしまった。
恵子さんは、僕が小さいときに住んでいた近所のお姉さんだった。いつも気品があって、優しくて、いつも遊んでくれたお姉さん。僕が幼いながらに「結婚する」と何度も言っていた相手だ。でも急に引っ越してお別れも出来なかったからずっと心に残っていた。彼女があの恵子さんであることに確信は持てなかったけれど、心のどこかでそうであってほしいと思った。
面接は至って普通に進んだ。事務経験も豊富で、礼儀正しい受け答えに加えて、どこか控えめな微笑みが僕の心を掴んだ。採用を即決したのは、会社に必要な人材であるという理由ももちろんあるけれど、たぶん、それだけじゃなかった。
入社してからの彼女は仕事に真面目で、会社の空気を和らげる存在だった。僕は彼女との会話を楽しみにするようになった。ある日、ふとしたきっかけで、彼女が6歳の娘、美咲ちゃんの話をしてくれた。
「美咲は、女の子なのに元気すぎて困っちゃうくらいです。たまに『お母さん、もっと遊んで!』って怒られるくらいで。」
彼女が笑いながら話す姿に、僕はどこか温かい気持ちになった。それと同時に、彼女が一人で子育てを頑張っている姿を想像すると、僕の中に彼女を支えたいという思いが少しずつ芽生えていった。
彼女が働き出して数カ月が経った頃、お昼休憩中に彼女が急にクスっと笑ったのだ。
「え?僕、何かしましたか?」
「いえ、すみません。ちょっと昔のことを思い出しちゃって」と、彼女が子供の頃の話をしてくれたのだ。
「昔、近所の男の子に毎日のように『結婚しよう!』って言われてんです。社長のスプーンの持ち方がその子にそっくりで」その言葉を聞いた瞬間、僕は胸が高鳴るのを感じた。まさか――いや、きっとそうだ。「それ、僕です。」彼女が驚いて僕を見つめる。「……え?たっくん?たっくんなの?」
「はい。いつもお姉さんに憧れて、『結婚する』ってしつこく言ってたの…僕ですね…」彼女は思わず笑い出した。
「あの小さかったたっくんが、こんなに立派になってるなんてね……。」僕も少し照れくさくなりながら、過去の記憶が蘇るのを感じていた。子どもの頃に憧れた彼女が、こうして目の前にいる。それだけで胸がいっぱいになるような感覚だった。
それから、彼女との会話はますます増えた。僕が会社の経営に悩んでいる話をすると、彼女は的確なアドバイスをくれるようになり、仕事でも心強い存在だった。
ある日、彼女の娘である美咲ちゃんと初めて会う機会が訪れた。
「お兄ちゃん、ママのこと虐めないでね!」美咲ちゃんは、恵子さんによく似た明るい笑顔を見せて、僕に手を振ってくれた。
「もちろんだよ。」僕はそう答えながら、美咲ちゃんの無邪気な様子に癒されていた。
僕は次第に、恵子さんと美咲ちゃんのことをもっと知りたいと思うようになっていった。特に、恵子さんが時折見せる寂しげな表情には、心が締め付けられるような思いだった。
「全部ひとりでやらなきゃって思うけど、やっぱり子育ては大変で……」ある日、彼女がポツリと漏らした言葉に、僕は思わず声をかけた。
「僕でよければ、何か手伝いますよ。」
「ありがとう。」そう言って微笑む彼女の顔は、どこか儚げで、それでも強く生きようとしている姿があった。僕は、もっと彼女の力になりたいと強く思うようになった。
その穏やかな日々が、ある出来事を境に大きく変わった。
ある日、彼女が早退したいと申し出た。「実は、元夫が家の近くに来ているみたいで……娘が心配なんです。」「元夫が?」僕の胸に嫌な予感が広がる。
彼女が会社を出てしばらくしてから、僕はなんとなく落ち着かなくて彼女の家の近くまで車を走らせた。そして、その場で彼女と元夫が口論している姿を目にした。
「頼むよ!少しでいいんだ!金が必要なんだ!」元夫が声を荒らげる。
「もう関係ないでしょ。あなたには支えるべき相手がいるじゃない!」彼女も声を張り上げるが、元夫は聞く耳を持たない様子だった。
僕は迷わず車を降り、二人の間に割って入った。「もうやめてください!」
元夫が僕を睨みつける。「ああ?なんだお前は?」
「僕は彼女の味方です。そしてもう、これ以上彼女を困らせるのはやめてください。」
「味方だ?ただの若造が、何を偉そうに!」元夫は苛立ちを隠せない様子だった。
「若造?見た目おっさんで中身若造のアンタとは違いますよ。僕は彼女と美咲ちゃんを守れますから。」僕の声は以外にも凛としており震えていなかった。それだけ彼女を守りたいという気持ちが強かったのだと思う。彼は逆上し何か喚いていたが、ひるまずに彼を見下ろす僕に対し気後れしたのか、舌打ちし僕に肩をぶつけるようにしてその場を去っていった。
「大丈夫ですか?」彼女は小さく頷いたが、涙を堪えるように視線を逸らしていた。「……ありがとう。でも、巻き込んでごめんなさい。」
「巻き込むとかじゃないですよ。僕が勝手にしたことです。」
彼女は僕の言葉にかすかに笑みを浮かべたものの、その目はどこか遠くを見ているようで、疲れているようにも見えた。僕はそれ以上追及できなかった。
美咲ちゃんは両親に預けているとのことだったので、僕は思い切って彼女を食事に誘った。背伸びをしていつもとは違う、少し洒落たレストランを選んだ。
「本当に、ありがとう。でも、元夫のことで迷惑をかけてしまって……」彼女がワインを片手に小さな声で言う。
「迷惑なんて思ってません。むしろ、守れることが嬉しいんです。」その言葉に、彼女は目を伏せたまま微笑みを浮かべた。
「……そう言ってもらえると救われるけど、私は……もう誰かに頼るのが怖いの。」
「それでも、僕は頼ってほしいです。ずっと一人で頑張ってきたんですよね。でも、今は僕がいます。恵子さんと美咲ちゃんを、守らせてください。」
彼女はしばらく俯いたままだったが、やがて顔を上げた。その目には微かに涙が浮かんでいて、揺れる声で言った。「……こんな私でもいいの?」
「結婚するって約束したじゃないですか。あの時も結構本気だったんですよ」その瞬間、彼女の目に涙を浮かべながら、小さな声で「ありがとう……」と呟いた。そして僕たちはその日、大人の関係になった。
その日を境に、僕と彼女の関係は大きく変わった。仕事が終われば彼女と美咲ちゃんと過ごす時間が増え、休日には三人で過ごすことも当たり前になっていった。美咲ちゃんはすぐに僕を「お兄ちゃん」と呼ぶようになり、僕にも懐いてくれた。「お兄ちゃん、ずっとママと一緒にいてね!」と言われるたびに、僕の胸は温かさで満たされた。
そして半年後、僕は彼女と美咲ちゃんを前にしてプロポーズをした。
「僕と家族になってください。三人で暮らそう。」
彼女は驚きながらも、涙を流して頷いた。「……よろしくお願いします。」
美咲ちゃんも飛び跳ねて「やったー!」と大喜びしてくれた。
そして僕はかつて憧れていたあのお姉さんと美咲ちゃんを迎え入れた。「ここが、僕たちの新しい家だよ。」「え?ここって…」そう、この家はかつて恵子さんが住んでいた家だった。
彼女の家は、そのまま空き家だったたため秘密裏に買取ってリフォームしたのだ。恵子さんは門を見上げて懐かしそうに微笑み、そして僕に向き直った。
「……まさか、またここに戻って来られるなんて。」僕は彼女を引き寄せ、抱きしめた。
「僕が守りますから。」恥ずかしそうに見ている美咲ちゃんも引き寄せ、三人で抱きしめ合った。
美咲ちゃんの笑い声が家中に響き渡る。恵子さんが僕の隣で微笑む姿を見ながら、ふと「これからどんな日々が待っているのだろう」と思った。暖かな陽光に包まれたこの場所で、僕たち三人の物語が静かに幕を開けた。
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