「高田正人です、よろしくお願いします。」
その声がリビングに響いた瞬間、まるで何かが壊れたかのように、母の顔が変わった。正人の挨拶が穏やかに響いているにもかかわらず、母の目が驚きと戸惑い、いや、それ以上の感情でいっぱいになった。彼女の表情がみるみるうちに崩れていくのが分かる。何かを恐れているような、でも懐かしさと悲しみが混じったような、言葉にできない表情だった。家の中に、これまで一度も感じたことのない異様な静けさが降りてきた気がした。
正人は一瞬戸惑いを見せながらも、その場に立ち尽くしたまま、私たちを見つめているだけだった。何が起きているのか分からない私も、ただ母の変化に気づくだけで、声をかけることすらできなかった。
母の目には次第に涙が浮かび、それが重力に従うように頬を伝って落ちた。まるで堰を切ったかのように、その涙は止まることなく流れ続ける。私の胸に不安が広がっていく。なんで、母はこんなにも取り乱しているの?何が起きているの?言葉を出したいのに、喉が詰まって、何も言えない。ただ、「母さん、大丈夫?」と震えた声で絞り出すことしかできなかった。自分の声がやけに小さく響いて、心細さが募る。
母は震える手で顔を覆い、必死に涙をこらえようとするが、その努力はすぐに無駄になり、肩を小刻みに震わせながら泣き続けた。母の泣き声がリビングに響き、その温かく包み込むはずの家の空気が、一瞬で冷たく重いものに変わってしまったのが分かる。リビングはまるで別世界のようだった。正人も戸惑いを隠せない表情のまま、どうしていいのか分からず立ち尽くしている。
私は何も言えないまま、ただ母の様子を見守るしかなかった。心の中では何かをしたい、何かを言いたいという思いが渦巻いていたけれど、実際には何もできない自分がもどかしく、ただ立ち尽くしているしかなかった。母が涙を拭うのをじっと待つしかない、そんな無力感に押し潰されそうだった。
やっと、母は震えながらも深く息をついて、涙の痕を手で乱雑に拭い始めた。泣き顔のまま、正人に向き直った。
「本当にごめんなさい、正人くん。驚かせちゃったわよね。」母の声はまだ震えていたけれど、なんとか微笑もうとしているのが分かった。でも、その微笑みはどこか遠く、まるで昔の記憶を思い出しているような、少し哀しげなものだった。涙の跡が残る顔は、微笑んでいるのに、それでもどこか切なく、痛々しく見えた。
正人はその表情に困惑しながらも、なんとか礼儀正しく「いえ、大丈夫です」と応えたが、彼の目の奥にも混乱と不安が渦巻いているのが見て取れた。彼も何が起きているのか、さっぱり分からないだろう。私も同じ気持ちだった。
母は何かを言いたそうに口を開いたが、その言葉が喉で詰まったように一瞬黙り込んだ。そして、震えた声でゆっくりと「正人くん、ご両親は…?」と尋ねた。尋ねたというよりも、掠れた声でぽつりと漏らしたようだった。
正人はしばらく考え込んだ後、静かに「父は、昨年亡くなりました」と答えた。その言葉がリビングに重く響いた瞬間、母の目が再び涙で潤んだ。そして、今度は涙を止めようともせず、彼女は小さく肩を震わせながら話し始めた。
「実はね、正人くん…。あなたのお父さんとは、私、昔…お付き合いしていたのよ。結婚の約束までしていたの。」
その言葉が私たちの間に落ちて、空気が変わった。息を呑む音が聞こえたのは、たぶん私だったと思う。正人も私も、ただ黙って母の言葉を聞くしかなかった。その重さに、何も言えなくなってしまった。母がそんな過去を持っていたなんて、一度も聞いたことがなかった。まさか、私たちの家族と正人が、そんな形で繋がっていたなんて、想像すらしていなかった。
母は遠くを見つめるように話を続けた。「でもね、ご両親に反対されて、私たちは無理やり別れさせられたの。彼も、私も、とても苦しかったわ。」
母の声は時折震え、彼女の胸の奥に残っていた過去の痛みが、今再び言葉とともに蘇ってきているのが分かった。言葉を紡ぎ出す度に、母の目にまた涙が浮かんでいた。正人は何も言わず、ただ黙って母の話を聞いていた。その顔には、驚きと困惑、そして少しの哀しみが滲んでいた。
「正人くん、あなたのお父さんに本当にそっくりだったから、顔を見た瞬間、時間が巻き戻されたみたいで、どうしても涙が止められなかったの。ごめんなさいね。」
私はその時、初めて正人をじっくりと見た。確かに、母の言う通り、どこか懐かしい顔立ちだった。きっと母が見ているのは、目の前の正人ではなく、その背後にある彼のお父さんの面影なのだろう。過去の記憶が今に繋がって、母の心に深い衝撃を与えているのだ。
母は再び静かに話し出した。「そしてね、あなたたちは一度、小さい頃に会っているのよ。覚えてないかもしれないけど、昔、デパートの屋上で…。」
そう言って、母はゆっくりと立ち上がり、棚から古びたアルバムを取り出してきた。彼女は手で丁寧にページをめくり、ある一枚の写真を私たちに見せた。それは、都内のデパートの屋上で撮られた写真で、そこには幼い私と正人が、まだ若かった母と正人のお父さんと一緒に写っていた。
「この時、私たちは偶然再会したの。風のうわさでお互いが結婚していることを知っていたけど、昔のように笑い合いながら話をしたわ。そしてね、『もしこの子たちが将来出会ったら、それもまた運命ね』なんて、冗談半分で言っていたのよ。」
母の声は、まるで遠い昔の記憶に語りかけるように静かで優しかった。写真を見つめる彼女の目には、また涙が浮かんでいた。「まさか、本当にそんな日が来るなんてね…。」
正人はその写真をじっと見つめたまま、言葉を探しているようだった。写真の中の幼い自分と、目の前にいる自分を重ね合わせることに戸惑いながらも、ようやく小さく呟いた。「運命って、本当に不思議ですね…。」
母は優しい笑顔を浮かべながら、涙を拭き取ってこう言った。「正人くん、もしよかったら…お父さんのお墓参りをさせてもらえないかしら?。」
正人は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに静かに頷いた。「もちろんです。母にも、ぜひ会ってほしいです。」
数日後、私たちは正人の実家へ向かうことになった。車の中、母はずっと無言だったけれど、その表情はどこか安らぎを取り戻したように見えた。正人の母も、私たちを温かく迎えてくれた。お墓の前で、母は手を合わせ、長い時間をかけて祈っていた。その姿を見ているうちに、私もまた胸の奥に押し込んでいた何かが溶けていくような気がした。母は、過去の全てをその場所に置いていくように、静かに、そしてゆっくりと祈り続けていた。そして祈りが終わった後、彼女は穏やかに微笑みながら「やっと、ちゃんとお別れができたわ」と静かに呟いた。その後、母と正人の母は昔話を交えながら、長年心の中にわだかまっていたものを少しずつ解きほぐしていった。お互いに過去を悔やみながらも、今は私と正人が出会い、結ばれたことを、まるで奇跡のように感じているのが伝わってきた。「本当に、運命が導いたみたいね」と母は静かに微笑んだ。その笑顔には、過去の痛みを乗り越えた者だけが持つ、深い安らぎがあった。
正人は私の手をそっと握りしめ、目を見つめながら「すごいね。本当に運命なんだね」と静かに言った。その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。私は彼の手をしっかり握り返しながら「うん、これからは二人で。そして、私たちの家族も一緒にね」と答えた。
過去に翻弄されていた母たちが、今、私たちの未来を静かに祝福してくれている。それが、これからの私たちの道を照らしてくれるような、そんな心強さを感じた。