浩一が妻・麻美を病気で失ったあの日、彼の世界は色を失った。娘の結衣はまだ4歳で、目の前にいる小さな存在が、彼を現実に繋ぎ止める唯一の理由だった。麻美のいない日々がどれほど深く重苦しいものか、彼には計り知れなかったが、娘だけは守らなければならない。胸に空いた大きな穴は、その責任感でかろうじて埋めようとしていた。
「パパ、ママはどこ?」何度も問われるたびに、浩一の心は締め付けられた。麻美のいない現実を娘にどう伝えればいいのか、何度考えても答えは出なかった。そんな日々の中で、彼は泣くことすらできなかった。泣けば、自分が崩れてしまう気がしたからだ。
両親もすでに亡くなっていた浩一には、頼れる家族が義両親しかいなかった。保育所のお迎えから浩一が帰宅するまでの間、義母が毎日預かってくれた。義母は「無理しないでね」と優しい言葉をかけてくれたが、家に戻った後の孤独は、夜ごとに深く彼を襲った。空っぽのダイニングテーブルを見つめ、麻美のいた温かな日常がどれほど貴重だったかを痛感する。すべてが麻美に依存していた――彼は、何をどうすればいいのかさえわからなかった。
毎朝5時に起きて、ぎこちない手つきで弁当を作る。しかし冷凍食品ばかりで、味気ない。手際が悪い自分に苛立ち、娘に申し訳なさを感じながら、それでもやるしかなかった。会社では「残業しない人」として疎まれ、「自己中心的だ」と陰口を叩かれることもあったが、会社で何を言われようがそんなことはどうでもよかった。定時で帰宅し、結衣と一緒に食卓を囲む時間だけが、彼の支えだった。娘の小さな手が自分の腕に絡みつく瞬間、その一瞬だけが、孤独を埋めるかけがえのない時間だった。
その生活に慣れるまでには、想像以上の時間がかかった。結衣の世話をしながら会社に通う日々は、決して簡単なものではなかった。孤独と責任感が入り混じり、時には逃げ出したい衝動に駆られることもあったが、そんなときふと見る娘の寝顔が、いつも彼を踏みとどまらせた。
結衣が成長するにつれ、浩一も少しずつ父親として成長していった。中学生になると、結衣は自ら進んで家事を手伝うようになり、彼女が作る料理が家族の味となっていった。ある日、結衣が「パパの分も作ったよ」と差し出した弁当を見て、浩一は言葉にならない感謝を感じ不覚にも泣いてしまった。「もう~。パパ泣かないで」と結衣は笑っていた。だが、その裏には複雑な感情もあった。自分が娘に頼りすぎていないか、彼女の負担になっていないかと。娘が立派に成長していくことに喜びを感じつつも、同時に父親としての自分の不甲斐なさが、どこか心に影を落とした。
そして、そんな生活を二人は続け、結衣は高校を無事に卒業し大学生になった。結衣の大学の入学式が訪れ、新しいスーツに身を包んだ結衣と門を通る瞬間は、浩一は胸が熱くなった。成長した娘の姿を目の当たりにし、何とかここまでやってこれたのだという安堵感が押し寄せる。それと同時に、麻美がいないことの寂しさも静かに胸を刺した。もし彼女がここにいたら、どんなに嬉しかっただろう――そんな思いが、心の奥で渦巻いていた。
入学式が終わり、結衣が大学のキャンパスを案内してくれる中、ふと彼女が立ち止まり「ママ……」とつぶやいた。浩一も不意に足を止めた。振り返ると、そこには――麻美がいた。どうみても麻美がそこに立っていた。彼女の姿を見た瞬間、浩一の心臓は強く鼓動を打った。風に揺れる長い髪、柔らかい瞳の奥にどこか優しさを感じさせる表情――まるで麻美が生き返ったかのように思えた。
「麻美……」思わず声をかけたが、その女性は振り向くことなく、そのまま通り過ぎていった。何が起こったのか理解できず、呆然と立ち尽くす浩一の横で、結衣が震えた声で言った。
「本当にママみたいだったね……びっくりしたぁ」
「あ、あぁそうだな……でも、よくママの顔を覚えていたな」
「うん……そりゃ家中にママの写真があるもん。忘れられるわけないよ」
そう言って笑う結衣の瞳には、かすかに母への憧れと寂しさが混じっていた。
それから数か月後、結衣が友達を家に連れてきたいと言い出し、「もちろん、いいよ」と浩一は快く了承した。
「びっくりするよ」と結衣が不敵に笑う。そして迎えたその日、玄関のドアを開けた瞬間、浩一は息を飲んで固まってしまった。そこに立っていたのは――再び、麻美にそっくりな女性だった。
「七海です。初めまして、よろしくお願いします!」
「あ、あぁ。浩一です。初めまして」
思わず自分の名前を名乗ってしまった。
「もうお父さん!何言ってるのよ」
そう言いながら結衣は笑っている。
七海と明るく挨拶をし、結衣と笑い合っている。その仕草、その笑顔――麻美の面影が、はっきりと七海の中に重なった。結衣は「私と同じ学部だったの」と言って、楽しそうに話していた。七海は部屋の中を興味深そうに見渡し、写真を見つけると「本当に私にそっくりですね」と驚いたように言った。
「ママー」と、結衣が冗談めかして言うと、七海も「もしかして私、麻美さんの生まれ変わりなのかなぁ」と、茶目っ気たっぷりに笑った。
その言葉を聞いた瞬間、浩一の胸に微妙な感覚が走った。七海の冗談だとわかっていても、その姿はどうしても麻美と重なって見えてしまう。七海がテーブルの端をそっと撫でる仕草が、かつて麻美がよくしていた動作と重なった瞬間、浩一は思わず息を呑んだ。まるで麻美が彼の目の前にいるようだった。
「なんだか、この家すごく落ち着くんです」と七海が言ったその言葉に、浩一は妙に心が温かくなった。そして、ふと気づく。もしかすると、これからは七海が結衣のそばで支えてくれるのかもしれない。そう思うと、長い間感じていた重圧が、少しずつ和らいでいくのを感じた。
七海が冗談めかして「じゃあ、私が結衣ちゃんのママの代わりになるね。ずっと一緒にいるよ!」と言うと、結衣と七海は楽しそうに笑い合った。その笑い声が家中に響き渡る中、浩一はそっと立ち上がり、二人にケーキを出した後、自分の部屋に戻った。
窓の外を見ると、柔らかな風がふわりと吹き込んできた。それはまるで、麻美がそっと彼の肩を叩くかのような、優しい風だった。ふと「お疲れ様」と誰かが囁いたような気がして、浩一は目を閉じた。
その風の中で、彼はこれまでの年月を思い返した。麻美がいなくなってから、ただ必死に生きてきた日々。結衣と共に歩んできた苦しくも愛おしい時間。どこか心が軽くなったような感覚に包まれながら、彼は微笑みながらつぶやいた。
「ありがとう、麻美……」