春がすぐそこまで来ているはずの季節に、空から舞い降りてくるのは冷たい雪。冬がその存在を忘れられたくないとでも言うように、峠道を白く覆い尽くしていた。高橋啓介は、いつもの帰り道を慎重に運転しながら、季節外れの寒波に苛立っていた。車のワイパーが忙しなく動いているが、吹き付ける雪が視界を遮る。道はすでに凍りつき、タイヤが空回りしそうになる感覚がたびたび伝わってくる。それでも、峠を越えなければ家には帰れない。啓介は、ハンドルを握る手に力を込めながら、慎重にアクセルを踏んだ。峠の途中、ふとライトの先に不自然な影が映った。近づいてみると、溝にタイヤを落として止まっている軽自動車が見えた。誰も乗っていないようだったが、雪に埋もれたその光景が、妙に不気味に見えた。
「こんなところで事故るなんて…。」啓介は小さく呟きながらも、車をそのまま通り過ぎた。しかし、数百メートル進んだところで、雪の中を歩いている人影が見えた。小柄な女性が薄いコートを羽織り、肩を縮めながら歩いている。降りしきる雪の中で、その姿はどこか非現実的に見えた。車を近づけ、窓を少しだけ開けて声をかける。「大丈夫ですか?こんなところで歩いてたら危ないですよ!」女性は足を止め、ゆっくりと振り向いた。その顔を見た瞬間、啓介は息を呑んだ。濡れた髪が顔に張り付き、頬は青白く、目には冷たい光が宿っている。その姿は、どこかこの世のものではないように見えた。
「…助けていただけますか?」女性は小さな声で震えながら答えた。その一言に、啓介の中の迷いは消えた。「乗ってください。とにかく寒いでしょう。」そう言ってドアを開けると、彼女は小さく頷き、助手席に滑り込んだ。
事情を聞くと、溝にタイヤを落として動けなくなり、レッカーが来れないということで助けを求めて歩いていたそう。さらに車内には4歳の息子が眠っているという。啓介はすぐに彼女を車まで連れて行き、後部座席に丸くなって眠る少年を見つけた。
「翔」と声をかける彼女の声は優しく、啓介はその母親らしい一面に少し安堵した。しかし、少年は反応せず、彼女の顔には心配の色が浮かんでいた。
「メモを残して車はここに置いておきましょう。啓介がそう提案すると、彼女は小さく頷いた。震える手でメモ用紙に状況を書き、車内に置くと、啓介は少年を抱き上げ、自分の車へと移した。
「とりあえず、この子を温かい場所に連れて行きましょう。」その言葉に彼女は「お願いします」と小さく答えたが、その声はどこか弱々しく、啓介は彼女の疲れた表情が気になった。再び車を走らせると、啓介は助手席で震える彼女を見て、「ちょっと待っててください。」そう言うと、近くの自販機を探してホットコーヒーとホットレモンティーを買った。車に戻り、彼女にレモンティーを手渡す。「これで少し温まってください。」
「ありがとうございます…」と受け取る彼女の手に触れた瞬間、啓介は驚いた。手が異常なほど冷たかった。雪に長く触れていたせいだろうか。だが、車内の暖房が効き始めても、彼女の冷たさが完全には消えないのが気になった。
「まだ寒いですか?大丈夫ですか?」彼女は少し微笑み、「冷え性で、手はいつもこんな感じなんです」と静かに答えた。その言葉に啓介は少し不安を覚えたが、それ以上は何も聞けなかった。
車内の空気は暖房の熱で温まってきたが、彼女の存在がどこか不自然な冷たさを漂わせているように感じられた。
「旦那さんはこれないんですか?」と啓介が尋ねると、彼女は「夫はいないんです…翔が熱を出したんで実家に預かってもらおうと実家に戻る予定だったんです」と答えた。しかし、彼女の言葉はどこか曖昧で、啓介は何か事情があるのではないかと感じた。峠を下りながら、ふと後部座席を見ると、翔くんが痙攣をしだした。「翔!」と彼女が叫ぶ!「病院に行きましょう」とすぐに行き先を病院に変更し急いで向かった。
病院に着くと、翔くんの体温は40度を超えていた。医師は「あと少し遅れていたら危険でしたよ」と啓介に告げた。美咲は涙を浮かべながら「本当にありがとうございました」と何度も頭を下げた。処置が終わるまで待ち、啓介は翔くんと美咲を彼女の実家まで送り届けた。吹雪の中、車のヘッドライトが照らす細い道を慎重に進む。途中、啓介が「家に着いたらまた連絡してください」と言うと、美咲はかすかに微笑んで頷いた。
「助けてもらってばかりで…何もお返しできなくて申し訳ないです。」
「気にしないでください。困っている時はお互い様ですよ。」その言葉に美咲は少し考えるような表情を見せたが、何も言わなかった。
数日後、美咲から連絡が入った。「翔も元気になり、車も無事レッカーで戻りました。本当にありがとうございました。もしよろしければ、今度お礼をさせてください。」その言葉に、啓介は迷うことなく了承した。彼女の実家を訪れると、翔くんが元気な姿で出迎えてくれた。「おじさん!」と嬉しそうに手を振る翔くんに、啓介は自然と笑みを浮かべた。美咲も少し緊張した様子だったが、穏やかな微笑みで迎え入れてくれた。
「どうぞ、上がってください。」居間には美咲の手料理が並び、翔くんが「これね、ママが作ったんだよ!」と得意げに説明してくれる。その無邪気な姿に、啓介は胸が温かくなるのを感じた。
「翔くん、よかったね。元気になって。」啓介が声をかけると、翔くんは少し照れたように笑い、「ありがとう」と小さな声で答えた。その姿があまりに愛らしく、啓介は自然と彼らとの距離を縮めたいと思うようになった。改めて彼女と話す中で、少しずつ彼女のことを知っていった。離婚してから一人で子育てをしてきたこと。実家に頼ることに後ろめたさを感じていること。そして、都会での生活に疲れた心が、どこか凍りついているような感覚があること。
それから、啓介は何度も美咲と翔くんに会うようになった。最初は実家でお茶を飲みながら話をしたり、翔くんと一緒に絵本を読んだりしていたが、次第に公園や動物園にも出かけるようになった。ある休日の午後、公園で翔くんと遊びながら、啓介はふと美咲の視線に気づいた。少し離れたベンチから二人を見守る美咲の顔には、これまで見せたことのない穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「啓介さん、本当にありがとうございました。」美咲がぽつりと言った。
「いえいえ、翔君は本当に可愛いですね、僕も元気がもらえます。」啓介がそう答えると、美咲は少し目を伏せた。
そんな関係が続く中で、啓介の中に一つの想いが芽生え始めていた。彼女を支えたい。翔くんを守りたい。そして、この二人ともっと一緒にいたいという気持ちだった。
それが確信に変わったのは、美咲が体調を崩した日だった。啓介は急いで駆けつけ、ソファに横たわる美咲と、不安そうに寄り添う翔くんの姿を見て、自然と二人を抱きしめた。
「大丈夫だよ。僕がいるから。」その言葉に、美咲は涙を浮かべながら目を閉じた。
「ずっと一緒にいてください。」啓介はその言葉に答えるように彼女を抱きしめた。その体はいつものように少し冷たかったが、それ以上に温かさを感じられた。それは、彼女が少しずつ心を開き、二人の距離が縮まった証だった。
外を見ると、夜空には名残雪が舞っていた。それは、啓介と美咲を引き合わせた季節外れの雪が、二人の新たな未来を静かに祝福しているかのようだった。
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