啓介は、その日、高校時代の唯一の友人、栄治から久しぶりにメッセージを受け取った。内容はたった一言だけ。
「お前の分のタイムカプセルが出てきたから、郵送で送っといたよ」
スマホを見つめたまま、啓介は息を呑んだ。タイムカプセル?そんなもの、全く覚えがない。というか、卒業もしていない。高校三年の秋には転校してしまっていたから、あの頃のイベントに参加した記憶など当然なかったのだ。一体どういうことだ?心の中に疑問が膨らんでいく。少し戸惑いながらも、啓介はすぐに栄治に電話をかけた。
「タイムカプセルなんて入れたっけ?っていうか、もうその時俺、転校してたよな?」
栄治は答えに困ったように少し口ごもる。「あ、ああ、そういやそうだったな。お前、卒業前に転校してたんだっけ。なんで出てきたんだろうな?まあ、もう郵送しちゃったから、届いたら中身確認してくれよ」と軽く笑いながら答えた。「中身が何だったか、あとで教えてくれよな」と栄治が言い残し、啓介は不思議な気持ちを抱えたまま荷物を待つことにした。
数日後、届いたのは小さな段ボール箱。中には一通の手紙が入ったカプセルだけだった。啓介はさほど期待していなかったが、箱を開けた瞬間、思わず息を詰めた。封筒の裏には、見覚えのある名前が書かれていた。
「真矢…」
啓介の心臓が一瞬止まる。高校時代のクラスメイト、真矢ちゃん。彼女は控えめで、あまり目立つ存在ではなかったが、啓介にとっては特別な存在だった。水泳部のマネージャーとしていつも一生懸命で、笑顔が可愛らしい。けれど、啓介は彼女と一対一で話す機会はほとんどなかった。それでも、彼女のことはずっと忘れられなかった。
「私のこと、覚えていますか?」
手紙の冒頭にその一文が記されていた。啓介の胸に、あの日の記憶が少し蘇る。彼女との微妙な距離感、部活の延長で皆で出かけた思い出、そして最後に伝えられなかった気持ち。真矢ちゃんは、啓介にとって特別な存在だった。
でも、結局、啓介は逃げてしまった。転校が決まった時に、思い切ってデートに誘ったものの、彼女は何も言わずにただ俯いたまま。どれくらい時間が経ったのだろう。あの時、彼女が何も言わずもじもじとする姿を見て、啓介はすっかり自分が振られたのだと思い込んだ。
彼女はどうしてもその場で返事をする勇気がなかったのだろう。けれど、啓介にはそれが分からなかった。沈黙が長く感じられ、心がズキズキと痛みだした。「ごめんね、迷惑かけたね。忘れてくれ」と言って、その場から逃げ出したのだ。それが、二人の最後だった。
あの日から、ずっと後悔していた。あれは、啓介にとって人生の中で最も勇気を振り絞った瞬間だった。しかし、彼女が黙ったままで何も言ってくれないことが、啓介の心をズタズタにした。拒絶されたと感じた彼は、もう向き合うことができなくなり、そのまま転校という逃げ場に身を委ねた。後から考えれば、彼女が何を感じていたのか、もう少し考えるべきだったのかもしれない。あの時も転校までに数日あり、話すチャンスはあったのに…。振られたと思い込んでいた自分は、もう彼女の顔を見たくなかった。それがどれほど彼女を傷つけたのか、気づかぬまま。
真矢ちゃんはどうだったのだろうか?もしかしたら、あの時の彼女も、何か伝えたかったのかもしれない。そんなことを考えるようになったのは、もっと大人になってからだ。けれど、もう手遅れだと思っていた。
啓介は、手が震えるのを感じながら、手紙の続きを読み進めた。
「あの時、勇気がなくて、啓介君に返事ができなかったことを、ずっと後悔しています。何を言ったらいいのか分からなくて、緊張して言葉が出なくて…。何度もあの瞬間を思い返して、その度に胸が痛くなります。どうしてあの時、ただ『待って』と一言言えなかったのか。あなたの背中が遠ざかっていくのを見て、私の心は崩れ落ちました。私にとってどれほど辛かったか…今も忘れられません。今なら答えられます。10月20日あの場所で待ってます。」
彼女も、同じように後悔していたのか。その言葉が、まるで心の奥深くに届いたような感覚が啓介の胸を締めつけた。あの日、真矢は自分と同じくらい、いや、それ以上に傷ついていたのかもしれない。
だが、10年だ。10年も経っている。彼女がこんな手紙をなぜタイムカプセルに入れていたのだろうか?それに、本当に彼女は待っているのか?そんな疑念が次々と頭を巡る。
手紙の最後には「10月20日」という日付が記されていた。それは、10年前に彼が真矢ちゃんを遊園地に行こうと誘った日だった。
10月20日が近づくにつれ、啓介の心はざわつき始めた。
「まさか、今さら待っているわけないよな…」
啓介はそう何度も自分に言い聞かせた。10年という時間は長い。彼女もきっと別の人生を歩んでいるだろう。自分も同じだ。仕事や日常に追われ、あの頃の自分とは変わってしまっている。真矢ちゃんも、あの時の彼女ではないだろう。でも、どうしても手紙の内容が頭から離れなかった。もしかして、彼女もあの日からずっと同じ思いを抱えていたのだろうか。そんなことを考えるたびに、啓介の胸には不安と期待が入り混じった。
「行っても意味はない。でも、もし彼女がそこにいたら…」その思いが、彼の心にいつまでも響き続けた。
そして、10月20日。当日を迎えた。気がつくと、啓介は車を走らせていた。心の中で何度も問いかける。「本当に行くのか?今さら遅すぎるだろう…」そう思って、何度も引き返そうとしたが、なぜかアクセルを緩めることはできなかった。途中からぽたぽたと雨が降ってきた。窓に当たる雨音が、まるで過去の記憶を呼び起こすかのように響く。
10年前、彼は逃げた。自分の気持ちに向き合えず、ただ彼女の前から消えてしまった。そして今、また同じ場所へ向かっている。今度こそ、逃げずに向き合うべきなのだろうか。遊園地の入り口に着いた。啓介は車を降りた。雨は次第に激しくなり、まるで10年前の記憶を再現するかのように啓介を濡らしていく。傘も持っていなかった啓介は構わず、その場所へと足を進めた。
「まさか待っているわけがない。10年も経っているんだ…」
何度も自分にそう言い聞かせながらも、心臓が早鐘を打ち、鼓動が激しく響いていた。目の前の景色がぼやける中、ふと足を止めた。視界の先に、雨宿りしている人影が見えた。
そこには閉鎖した遊園地の入り口の軒下で雨宿りをしている女性の姿があった。近くにいくと真矢ちゃんだった。10年の月日が経っても全然変わっていなかった。それどころか大人の魅力が増し、ますます美人に磨きがかかっていた。
「真矢ちゃん…?」声が震えた。信じられない気持ちで彼女に呼びかける。
彼女はゆっくりと振り向き、少し驚いたように目を見開いたが、その表情はすぐに優しい笑顔に変わった。
「啓介君…本当に来てくれたんだね」
その一言が、啓介の胸に溜まっていたものを一気に溶かした。10年分の思いが、彼女の一言で全て解放された。彼は彼女に近づき、そっとその手を握った。その手は少し冷たかったが、啓介の心の中に確かな温もりが広がっていく。
「真矢ちゃん…」声にならない言葉が、胸の中で渦巻いた。
彼女もまた、10年間抱えていた想いをようやく言葉に乗せた。「あの日、何度もあなたに伝えたかった。でも、どうしても言葉が出なくて…。返事遅くなっちゃったけど今からでも良いかな。私はずっと…あなたが好きでした。」
その言葉に、啓介は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。彼は何も言えず、ただ彼女をそっと抱きしめた。ずっと言えなかった思いが、雨音とともに静かに溶けていく。しばらくして、啓介はふと思い出した。
「そういえば、どうしてあの手紙がタイムカプセルに入っていたんだ?」
真矢ちゃんは、少し照れくさそうに笑った。
「栄治君にお願いしたの。どうしても啓介君にこの手紙を届けたくて…。迷惑かけちゃったけど…ごめんね」
その言葉に、啓介は驚いた。栄治は、あえて何も言わずに彼にその手紙を届けてくれたのだ。彼女が待っていることを、あいつはずっと知っていたのだろうか。啓介は笑った。胸の中が、温かさで満たされていく。雨はまだ降り続いていたが、二人の心の中には確かな晴れ間が広がり始めていた。これからどうするかなんてわからない。でも、もう過去には戻らない。俺たちは、これから一緒に歩いていくんだ。啓介は彼女の手を強く握りしめた。10年という長い時間が、ようやく解き放たれたのだ。