「店長なら、良いなと思うんです。」その一言が私の口から飛び出した瞬間、時間が止まったような気がした。車内の薄暗い光の中、田中店長が驚いたように私を見つめる。トンネルの外では雨音が激しく響き続け、土砂崩れで塞がれた道の先に光は見えない。それでも、私ははっきりと自分の意思を伝えた。
「今…なんて?」彼の声が静かに響く。私は恥ずかしくて目を伏せた。恥ずかしさや罪悪感が混ざり合い、胸が締め付けられるようだった。それでも私は震える声で続けた。
「店長のことが好きなんです。こんな気持ちになるなんて、自分でも驚いていて…でも、どうしても止められなくて…。」
自分の気持ちを言葉にするのは初めてのことだった。親に決められた人生、夫の指示に従うだけの日々、そんな中で、私が初めて「自分で考えて」伝えた言葉だった。
田中店長はしばらく沈黙した後、優しく微笑んだ。その笑顔が、かえって私の胸を痛めた。
私の人生はずっと、誰かの「いいなり」で生きてきた。子供の頃から、自分で決めたことなんてほとんどなかった。母は厳格な人で、「女はこうあるべき」といつも私に言い聞かせる人だった。習い事も友達づきあいも、すべて母の望む通りに選ばされ、私は「考えなくてもいい」子供だった。母に褒められることが私の喜びであり、生きる意味だった。
大人になってからも、私の生き方は変わることはなかった。結婚でさえも、親が決めたお見合いだった。夫の圭一さんは真面目な人で、家族のために一生懸命働いてくれる。それはありがたいことだと分かっている。けれど、私は彼に恋愛感情を抱いたことはなかった。親から「こういう人と結婚すれば幸せになれる」と言われたから、ただ従っただけだった。子供が生まれると、私の生活はさらに「いいなり」で固められていった。圭一さんの指示に従い、家事をこなし、育児をし、家計を管理する。圭一さんが言うなら、それが正しいのだと思い込んでいた。
「そろそろパートに出てくれないか。」子供が小学校に上がった頃、圭一さんがそう提案してきた。理由は教育費を貯めるため。私は少し迷ったが、結局その言葉に従うことにした。仕事を探し始めた私は、近くのスーパーで面接を受けることになった。
初めてスーパーの田中店長に会ったとき、私はその穏やかな笑顔と最後まで話を聞く姿勢に少し驚いた。面接では家庭のことや、シフトの都合について丁寧に教えてくれ、最後に彼がこう言った。
「無理せず、ご自身のペースでやってくださいね。」
その言葉に、私は息を呑んだ。「無理せず」という言葉を、こんなにも自然に言われたのは初めてだった。私はこれまで、自分が無理をしているのかどうかすら考えたことがなかったのだ。
仕事を始めて数週間が経ち、私は少しずつ職場に慣れていった。田中店長は忙しい中でも、常に私を気にかけてくれた。
「晴美さん、そろそろ慣れましたか?無理しないでくださいね。」
「困ったことがあったら、すぐ言ってください。」その一言一言が、私には新鮮だった。これまでの人生で、私は「こうしろ」「ああしろ」と言われることには慣れていた。でも、田中店長の言葉には私を尊重してくれる温かさがあった。彼の存在が、私の中に小さな変化をもたらしていた。
働き出して数カ月たったある日、あの雨の日のことは特に忘れられない。台風が接近していたその日、バスが運行を停止してしまい、どうやって帰るべきか困っていた。そんな私を見て、田中店長が車で送ると言ってくれた。最初はためらったものの、その優しい笑顔に誘われるように車に乗り込んだ。
帰り道、山道を抜けるトンネルで突然の土砂崩れに遭遇し、車が立ち往生してしまった。暗いトンネルの中、外では雨が激しく降り続け、車内は緊張感に包まれていた。
「このまま助けが来なかったら、どうしよう…」不安が抑えきれず、私は思わず呟いた。そのとき、田中店長がそっと私の手を握りしめてくれた。
「大丈夫ですよ。必ず助けが来ますから。」その手の温かさが、私の心の奥深くまで届いた。これまで誰かにこんな風に寄り添ってもらったことがあっただろうか。夫の圭一さんに対してすら、こんな感情を抱いたことはなかった。
トンネルの中での静かな時間、私は思い切って彼に聞いた。
「田中さんは、もし生まれ変わったら、どんな人生を送りたいですか?」彼は少し考えてから答えた。
「冒険家になりたいですかね。まあ今でも自由に生きてますけど。」そう言って笑う彼のその言葉に、私の胸が強く揺さぶられていた。私の人生は、すべて他人の指示通りだった。でも、田中店長は自分の意思で生きている。そしてそれを楽しんでいるのだ。私は気持ちを抑えられなくなり、店長のことばかり考えていた。これが不倫や浮気だと分かっている。それでも、彼への想いを止めることはできなかった。
「店長、好きです。」
土砂崩れで立ち往生した車内で、私は自分の気持ちを伝えた。初めて「いいなり」ではない自分の言葉で、自分の意思を相手にぶつけた瞬間だった。
田中店長はしばらく沈黙していた。そして、少し悲しそうな顔で私を見つめた。
「晴美さん、その気持ちは嬉しいです。でも、今はこういう状況だからそう思うだけなんですよ。」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられた。悲しくて、恥ずかしくて、涙が止まらなかった。それでも、店長は私の手を離さなかった。
「この場じゃなくても、同じ気持ちならまたお話ししましょう」
その後すぐに、道路は通行できるようになり、私たちは足止めから解放された。
翌日からも、私はいつものようにスーパーで働いたけれど、田中店長との距離は変わらないままだった。⭐️彼に断られた悲しみと恥ずかしさは消えなかったけれど、それでも私は気づいていた。自分の意思で何かを伝えるという行為が、こんなにも自分を変えてくれるものだと。そしてあの時の状況は終わったけど、今のこの状況でも好きなんだなとはっきりと思っていた。
娘がある日、いきなり「お母さん、最近なんだか変わったね。」
その言葉に、私は小さく微笑んだ。あの日の私の行動は無駄ではなかった。たとえ田中店長と結ばれなくても、私は初めて「自分の意思」で生きることができたのだから。
これからの人生、私は少しずつ、自分の足で歩いていきたい。誰かの「いいなり」ではなく、私自身の意思で選んだ道を。
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