俺は田中正幸、40歳。高校の数学教師をしている。この歳になって一度も女性と付き合ったことがないと言うと、驚かれることも多いが、仕方ない。事実なのだ。だが、今まで一度も好きな人ができなかったわけじゃないと言い訳したい気持ちがないわけではない。学生時代は、ごく普通に恋愛にも興味があったし、何度か本気で好きになった女性もいた。友人たちと合コンにも参加して、ちょっとしたデートもした。それなりに恋愛の機会もあったのに、何がどうしてこんなことになってしまったのか、自分でもわからない。
思い返してみると、すべてが狂い始めたのは、あの子、池田由真が俺の教え子になってからだった。彼女が初めて教室に入ってきたとき、俺はまさに「心を奪われた」という表現がぴったりな状態だった。16歳の彼女は、無邪気で、まっすぐで、その目には純粋な輝きがあった。教壇の上から見つめるその横顔が、俺の目には眩しすぎるくらい美しかった。
だが、俺は教師で、彼女は生徒。いくら心を動かされても、それを表に出すわけにはいかなかった。いや、それどころか、自分の心が「教え子」に惹かれていること自体が、嫌悪感を引き起こした。教師としての立場を裏切っているようで、毎晩枕元で後悔ばかりが積もっていった。
そのうちに、俺は他の女性が目に入らなくなっていた。友人に誘われても、飲み会で同僚と話しても、女性との会話はどこか空虚で上の空だった。心の中では由真がずっと笑っている。彼女が自分にとっての「最後の恋」になるかもしれないと気づいたとき、もう俺は、他の誰かを好きになることも、恋愛に踏み出すこともできなくなっていた。
それでも、もちろん、彼女に想いを伝えることなんてできない。「教師が生徒に恋をする」なんて、許されるはずがない。それがきっかけで職を失うことが怖いのではない。自分が彼女を穢してしまうような気がして、それがどうしようもなく怖かった。だから俺は、想いをひたすら胸の奥にしまい込み、「好きだ」と口にすることも、「振られる」という一歩を踏み出すこともできないまま、ただただ日々が過ぎていった。
そんな拗らせた想いを抱えたまま、彼女も卒業していった。自分の中で彼女への想いはいつしか薄れていき、生活は安定したものになったかに見えたが、ふとした瞬間に彼女のことを思い出すたび、胸が締めつけられた。
だから、由真が同僚としてわが校に赴任してきて再び俺の目の前に現れたとき、心の中の古い傷が一気に裂けるのを感じた。彼女が教師になっているのは知っていた。十数年ぶりにの彼女との再会。俺は一体、どうしたらいいのか分からなかった。
由真が職員室に入ってきた瞬間、俺は言葉を失っていた。時間が過ぎたというのに、由真はまるで昔のままの笑顔を浮かべていた。でも、その笑顔の奥に大人の女性の魅力が加わり、さらに目を離せなくなっていた。まさか教え子だった由真が、教師として同じ学校に赴任してくるなんて……それも、俺の目の前で「先生」として立っているなんて、信じられない思いだった。
「せんせっ、久しぶりです。これからよろしくお願いします」
そういう彼女の笑顔に、俺は急速に昔の気持ちが蘇ってきていた。
でも、それから間もなく、彼女の周囲に不穏な影がさし始めた。最初は「最近、無言電話が増えてて…」と言っていただけだったが、その顔には確かな不安が浮かんでいた。次第にそれは、学校へのFAXでの中傷文や、見知らぬ誰かからの尾行の気配という形で、彼女の日常を侵し始めた。
「何か問題を起こしてるんじゃないか?」教頭が彼女に冷たく問い詰める姿を見たとき、俺は思わず彼の前に立ちはだかってしまった。「教頭先生、それはおかしいですよ!彼女が何をしたって言うんですか!」
しかし、教頭は鼻で笑い、「とにかく、揉め事は起こさないでくださいよ」とだけ言い残して去っていった。彼の去り際の表情には、何か得体の知れないものが潜んでいるように見えたが、そのときはそこまで気に留めなかった。
しかし、それからも由真への嫌がらせは止むことがなく、ある日ついに彼女は、俺に相談に来た。
「先生、実は最近、毎日誰かに尾行されている気がするんです……」
そう言って俯く彼女の声は震えていた。彼女の様子が痛々しくて、俺の胸が締め付けられた。あの純粋だった彼女が、こんなふうに怯えているなんて。教師として、いや、一人の人間として、彼女を守りたいという気持ちが込み上げてきた。
「……もしよかったら、俺の家に泊まるか?部屋も余ってるし」
俺がそう提案すると、由真は驚いたように顔を上げたが、次の瞬間、ほっとしたように微笑んでくれた。
「良いんですか?先生と一緒なら、安心ですね!」
その言葉を聞いたとき、胸が張り裂けるような思いと同時に、心の奥底に秘めていた恋が再び炎を灯すのを感じた。そうして、由真との同居生活が始まった。
最初の頃は、ぎこちない距離感があった。彼女はリビングの端に座り、俺は反対側に腰掛けて、妙に距離を保ちながら会話を交わしていた。でも、だんだんとお互いに慣れていくうちに、日常の中にふとした親しみが生まれ始めた。朝、彼女がさりげなく淹れてくれるコーヒーの香り。疲れた顔をして帰ってきたとき、彼女が「あ、おかえりなさい」と微笑んでくれること。それが俺の日常を、少しずつ温かいものに変えていった。
そして俺は、もう一度彼女に恋をしていた。だが、今度こそ自分の気持ちを隠すつもりはなかった。
だが、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。ある夜、由真は残業で遅くなっていた。そんな時由真から突然電話がかかってきた。「先生、助けて!」彼女の声は今にも泣き出しそうで、走っている音が聞こえる。明らかにただならぬ緊迫感が漂っていた。
俺は一瞬の迷いもなく家を飛び出し、学校へ向けて走りだした。暗い路地の奥で、由真が怯えた表情で立ち尽くしているのが見えた。その隣には、不審な男が彼女に迫っていた。咄嗟に俺はその男に飛びかかり、なんとか取り押さえた。もみ合う中で男のバッグが地面に落ち、中からカメラやトランシーバーのようなものが転がり出た。
男の顔を確認したとき、俺は息を飲んだ。それは、教頭だったのだ。
「やめろ!俺だ、話してくれ!」教頭は開き直ったように言い放ったが、その目には恐怖と怒りが混じっていた。俺は逆に強く押さえつけ、ただ無言で彼を見下ろしていた。すぐに駆けつけてくれた近隣住民が警察を呼んでくれた。警察がその場でカメラを確認すると、由真の写真や自宅などが映っていた。さらにトランシーバーのようなものは盗聴器用のものだった。そこから彼女へのストーカー行為が明らかにり、教頭は警察に連れていかれた。
俺は教頭への怒りと、由真を守れた安堵とが入り混じった複雑な感情の中にいた。
家に戻っても、由真は震えていた。俺はそっと彼女の肩に手を置き、「もう大丈夫だよ」と声をかけると、彼女は「怖かった……」と、震える声で俺にしがみついてきた。そのとき、俺は強く、彼女を守りたいと思った。
どれくらいそうしていただろうか。ようやく彼女が涙を拭って顔を上げ、俺の目を見つめてこう言った。
「先生……信じてました。先生なら絶対に助けてくれるって」
その言葉に、胸が熱くなった。長い間自分を責めてきた過去が、少しだけ許された気がした。「君のことは、絶対に守るよ」と俺が言うと、彼女はふっと微笑んで、静かにこう告げた。
「……先生、私、もうこの家出て行かないといけないですか?」
その言葉に、俺は息が止まるような思いだった。
「いや、俺は由真が好きだ。だからずっと一緒に居て欲しい」
長年抱えてきた想いを、ようやく吐き出すことができた。
「嬉しい…私、先生に会いたくてずっと移動願いを出してたんだよ」
そいういうと彼女は俺の胸に飛び込んできた。
彼女の涙がようやく止まり、静かな夜が訪れた。長い間自分を責めてきた過去が、ようやく許され、報われた気がしてならなかった。俺は心の中で静かに彼女の存在をかみしめていた。
由真もまた、俺の腕の中で小さく安堵の息をつき、微笑みを浮かべた。いつものあの無邪気な笑顔が、今は俺だけのために向けられている。それを感じたとき、自分が初めて「誰かに愛されている」と思えた。
翌朝、職員室に向かう廊下を、由真と並んで歩いた。長い間、拗らせていた俺が、ようやく何かから解放されたような気がする。
隣で笑う彼女の姿が、まぶしくて仕方がなかった。もう俺は、一人じゃない。これからも彼女と一緒に、新しい日々を歩んでいく。ふと、胸の奥に感じる温かなものが、俺を包み込んでいた。