
店の暖簾を片付けようとしたとき、入り口の戸が開いた。
「すみません、もう終わりですか?」静かな声だった。
顔を上げると、外からこちらを覗き込む女性がいた。夜の街灯に照らされて、わずかに疲れた顔が浮かんでいた。
ラストオーダーはとっくに過ぎていたが、時間を確認すると、まだ完全な閉店時間ではない。
「もうじき閉めるとこだけど、蕎麦くらいなら出せるよ」
「あ……じゃあ、お願いします」小さく頭を下げて入ってきたその女性は、どこか遠慮がちだった。
店内は、もう客の姿もなく、片付けの途中だったが、急いで席を片付け、温かい蕎麦を作った。
「お待たせしました」出した蕎麦を前に、彼女はほっとしたように笑った。
「いただきます」箸を持つ手が、どこか慎重に見えた。口をつけると、ゆっくりと噛みしめるように味わっている。
「……おいしいです」小さな声だったが、心からの言葉だった。
俺は「そりゃよかった」とだけ答え、片付けを続けた。
食べ終わると、彼女は丼をそっと置き、深く頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さま」もう帰るのかと思ったが、彼女は何かを迷っているように見えた。
「……あの、良ければ、ここでアルバイトさせてもらえませんか?」唐突な言葉に、俺は思わず手を止めた。
「え?」
「ずっと気になってたお店なんです。それと……ただの直感です。ここで働きたいなって思って」不思議なことを言う。
俺は彼女をじっと見た。年齢は三十代半ばくらいだろうか。派手な雰囲気はないが、落ち着いた雰囲気のある女性だった。
「急にそんなこと言われてもな……」
「すみません、でも本気です」真剣な顔だった。
「じゃあ、面接してみよか」こうして、俺は彼女の話を聞くことになった。
彼女の名前は池田優香、34歳。
夫がいたが、仕事もせず遊び歩いてばかりで、生活費もほとんど入れてくれないらしい。
そのせいで、彼女はアルバイトを探していた。
「すぐにでも働きたいんです」そう言われて、俺は少し考えたが、店が忙しくなってきていたこともあり、彼女を雇うことに決めた。
「じゃあ、二日後から来てくれる?」
「ありがとうございます!」彼女は嬉しそうに頭を下げた。その顔を見て、悪い気はしなかった。
二日後、彼女は予定通り店にやってきた。
「よろしくお願いします」
「まあ、無理せずやってみてくれ」基本的に接客をしてもらうことにしたが、彼女は以前、飲食店で働いた経験があるらしく、仕事はスムーズだった。
エプロンをつけ、髪をバンダナでまとめた姿を見た瞬間、思わず「うわっ」と心の中で声が漏れた。
可愛い。
面接のときよりも、きちんと化粧をしているせいか、印象が違う。俺は咳払いをし、ごまかすように厨房へ戻った。
仕事を始めて三日目、昼時に客が集中し、店は大忙しだった。俺もつい、焦ってしまい、彼女に少し強い口調で指示を出してしまった。
閉店後、申し訳なくなり、「さっきは悪かったな」と謝ると、彼女はきょとんとした顔をした。
「え? 何がですか?」まるで、本当に気にしていないようだった。
「ちょっときつい言い方しただろ」
「ああ、そんなことですか? 全然気にしてませんよ」本当にケロッとしている。
「そうか……」その素直な反応に、俺は少し安堵した。
お詫びのつもりで、まかないを少し豪華にした。
「うわー、おいしそう! これ食べていいんですか?」目を輝かせる彼女の顔を見て、俺は「食べて食べて」と笑った。
それ以来、仕事が楽しくなった。彼女と一緒に働くのが、妙に心地よかった。
閉店後、一緒にまかないを食べるのが日課になり、彼女が帰るのは深夜近くになることもあった。
「ご主人、怒らないのか?」一度、そう聞いたことがあった。
「滅多に帰ってこないので」彼女はそう言って、寂しそうに笑った。
ある日、彼女がふと聞いてきた。
「康弘さんは、どうして奥さんと離婚したんですか?」
「仕事が忙しかったからだよ」
「それだけですか?」じっと見つめる優香の瞳に、俺は少し言葉を詰まらせた。
「……ちょと体の相性が良くなかったからかな」言ってから、しまったと思ったが、彼女は特に驚いた様子もなく、ただ小さく頷いた。
「そうですか……」何を考えているのか、彼女の表情は読めなかった。
それから、まかないを食べるときに、ビールを飲んだり晩酌をすることが増えた。
ある夜、酔った勢いで、彼女はぽつりと呟いた。
「夫とはもう長いこと何もないんです」
「そうなのか」
「もし迫られても、もう無理かな。愛情はないし」
「……そうか」沈黙が流れた後、彼女はふっと笑い、ぽつりとつぶやいた。
「旦那が康弘さんだったらよかったのに」
「からかわないでくれよ」
「からかってませんよ」そう言いながら、彼女は俺の手を掴み、自分の胸に押し当てた。
「ドキドキしてるでしょ?」彼女の心臓が、確かに早く打っていた。
俺は、もう我慢できなくなり、彼女を抱きしめた。
「……いいのか?」優香は、潤んだ瞳で頷いた。
彼女の唇にそっと触れると、優香は目を閉じて、ゆっくりと身を預けてきた。柔らかな唇が、熱を帯びていく。
俺は彼女を抱き寄せたまま、ゆっくりと畳の上へと導いた。蕎麦屋の座敷——昼間ならば客が賑わうこの場所で、俺たちは静かに交わった。
「……康弘さん……」優香の声はかすかに震えていた。
触れるたびに、俺の手のひらに彼女の熱が伝わってくる。その熱が、今まで抑えていた何かをゆっくりと溶かしていく。
俺は、もう止まれなかった。彼女の肩に、首筋に、そっと唇を這わせる。
「……優香……」彼女の指が、俺の背中にそっと回される。
その細い指先が、俺をさらに求めていることを伝えてくる。俺は、彼女を強く抱きしめた。
——どれだけ求めても足りない気がした。どれだけ触れても、まだ満たされない。
彼女の髪が俺の指に絡まり、柔らかな肌が、俺を引き止める。そして、二人はひとつになった。
***
気づけば、外はすでに白んでいた。俺の腕の中で、優香は静かに眠っている。
肩にかかった髪をそっと払うと、彼女は微かに身じろぎした。
——なんて穏やかな寝顔なんだろう。昨夜、あんなに俺を求めた女の顔とは思えないほど、無防備な表情だった。
俺はそっと息を吐いた。
「……俺は何をしてしまったんだ」それが最初に浮かんだ言葉だった。
優香は既婚者だ。夫がいる身でありながら、俺は彼女に手を出してしまった。
けれど、不思議なことに、後悔はなかった。むしろ、胸の奥に強く根付いているのは——
「このまま、手放したくない」この想いだった。
俺はもう、彼女なしではいられない。
こんなに求め合ったあとで、他人の妻だからといって、また他人に戻れるのか。
そんなの、できるわけがない。彼女が苦しんでいるなら、俺が救いたい。
そのためなら、どんなことだってする。
「……夫と別れてもらって、俺と一緒になってくれ」
眠る彼女の髪をそっと撫でながら、俺は静かにそう囁いた。
すると、優香は微かに身じろぎし、俺のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
俺はその小さな仕草に、もう、決めた。
この先、どんなに大変なことが待っていようと、俺は彼女を守る。
二度と寂しい思いなんかさせない。
そう強く誓いながら、俺はもう一度、彼女の髪を優しく撫でた。