
俺の名前は大村翔35歳だ。公務員として働いていたが、現在は休職をしている。上司の不正を報告したことで、パワハラを受け、精神的に追い詰められた。人混みや人の目が怖くなり、外出するのも億劫になっていたからだ。精神科に通うようになってすでに二ヶ月ほど経つが、劇的に回復するわけでもない。
そんなある日、通院の帰りにふと目に入ったのは、歩道の片隅でうずくまっている女性だった。人通りは多いのに、誰も声をかけない。
(……大丈夫か?)一瞬、関わらない方がいいかもしれないと思ったが、どうしても気になった。勇気を振り絞り、近づく。
「あの、大丈夫ですか?」顔を上げたのは、肩までの髪を持つ若い女性だった。顔色が悪く、額には薄く汗が滲んでいる。
「……すみません、お腹が……痛くて……」声がか細い。
咄嗟にしゃがみ込み、「大丈夫ですか」と声をかけながら、彼女の腕を支えた。
「とりあえず座れるところまで行きましょう」女性は弱々しく頷き、俺の肩を借りながらゆっくりと歩く。
ほとんど立つことも出来ないようなので、「失礼しますね」そのまま抱え込んで持ち上げて近くのベンチまで運んだ。
「もう大丈夫です」と彼女は言ったが、どう見ても苦しそうだった。念のため、「救急車、呼びますね?」と確認を取り、彼女が頷いたのを見てから119番した。数分後、救急隊員が到着。
「しっかり呼吸してくださいね」と隊員が声をかけながら、女性をストレッチャーへと乗せていく。
その場を後にしようとする俺に、女性がか細い声で「……ありがとうございます」と呟いた。
「お大事に」とだけ返し、俺はその場を立ち去った。
──そんな出来事も、すぐに忘れてしまっていた。
それから二ヶ月。精神科の帰り道、突然「すみません!」と女性の声が聞こえた。びくっと肩を震わせる。こういう時、俺はなるべく人と関わらないようにしている。どうせ何かの勧誘だろう。無視しようとするが、女性は俺の前に回り込み、視線の下から覗き込んできた。
「あの!この前助けてくれた方ですよね?」下を向いたままの俺の視界に、彼女の顔が入ってくる。
記憶が曖昧だったが、どこか見覚えがある……。
──いや、香りだ。あの日、彼女を抱えた時に感じた、ほのかに甘い香り。
「え、ああ……」
「良かった、やっぱりそうだ!」彼女はパッと笑顔になった。顔色はすっかり良くなり、今は健康そのものだ。
「助けていただいて、本当にありがとうございました」深々と頭を下げられ、俺は少し戸惑いながらも、
「いや、そんな、大したことじゃ……元気になられて良かったですね」と返す。
気まずい沈黙が流れる。
彼女は少しもじもじした後、「あの……もし良かったら、お礼にお茶でも……」と誘ってきた。
「すいません、気にしなくて大丈夫ですよ。今から病院なので……では」そう言って足早に立ち去った。
振り返ると、彼女はただ静かにこちらを見つめていた。
──診察が終わり、帰宅しているとさっきの場所に、さっきの女性がまだそこにいた。
「え?……待ってたの?」
「あの、お礼をさせて欲しいんです」その必死な顔を見て、俺はため息をついた。
……仕方ない。少しだけなら。こうして、俺たちはカフェに入ることになった。カフェに入ったものの、やはり落ち着かない。
人混みが苦手になってから、こういう場所には極力近づかないようにしていた。
そんな俺の様子を察したのか、彼女が「テイクアウトにしませんか?」と提案してくれた。
「近くの公園で飲みましょう。そっちの方がリラックスできそうですし」正直助かった。彼女は俺の事情を知らないはずなのに、こういう気遣いができるんだな……。
コーヒーを片手に公園のベンチに座ると、ふうっと息を吐く。
「すみません、人混みが苦手で……」
「いえ、大丈夫ですよ。でも……何か、あったんですか?」
軽い問いかけのようだった。本当は話すつもりなんてなかった。けれど、彼女の柔らかい雰囲気と、無理に聞き出そうとしない態度に、つい口を開いてしまう。
「……上司の不正を報告したんです」
「不正?」
「そう。そしたらパワハラを受けて、精神的に追い詰められて……今、休職中です」
「……それで、人混みや人の目が怖くなったんですね」彼女の口調は優しかった。俺は苦笑しながら、コーヒーのカップを軽く回す。
「もう辞めようと思ってるんです。戦っても無駄だし……俺、もう戦えないんです」その時、彼女の目に力が入った。
「……なんですか、それ!」驚くほどの強い口調だった。
「そんなの、絶対に許しちゃダメです!」彼女の言葉に、俺は少しだけ目を丸くする。
「いや、でも……」
「でも、じゃありません!そんな理不尽なこと、私は許せません!」彼女の手がぎゅっと握られる。
「……俺にはもう、そんな力はないんですよ」自嘲気味に笑うと、彼女はぐっと前のめりになった。
「だったら、私が力になります!」 きっぱりと言い切る彼女に、俺は一瞬言葉を失う。
「助けてもらったお礼です!」そう言って、彼女はカバンから名刺を取り出し、俺に差し出した。
加藤 奈津美 弁護士
「……弁護士?」
「はい!私の事務所、こういう件に強いんです!」彼女は自信満々に笑った。
「だから、任せてください!」俺は名刺を見つめたまま、言葉を失う。
「お代もいりません!私が勝手にやります!」彼女のあまりの勢いに、俺は思わず笑ってしまった。
「……勝手に、ですか」
「はい!勝手にやります!」何だ、この人は……。もうどうでもいいと思っていたことなのに、彼女の言葉が胸に引っかかる。
戦う気力なんてなかったはずなのに……。俺は深く息を吐き、静かに頷いた。
「……分かりました。好きにしてください」すべてを委任し、お任せすることにした。
それから数週間後。
奈津美から「報告があります」と連絡が入り、再び会うことになった。
カフェのテラス席に座った彼女は、いつもと同じように明るい笑顔を見せた。
「大村さん、終わりましたよ!」 俺は少し驚きながら、「……終わったって?」と聞き返す。
「上司の不正、すべて公になりました!」彼女の声はどこか誇らしげだった。
「マスコミにも情報が渡って、不正が世間に知れ渡りました。その上司、懲戒処分になりますよ」その言葉に、俺の心の奥がじんわりと熱くなった。不正を告発したのに、苦しめられたのは俺の方だった。その理不尽な状況が、ようやく終わった。
「……そっか」そう呟いた瞬間、俺の目から涙が溢れてきた。自分でも驚いた。ずっと苦しくて、ずっと抱えていたモヤモヤが、すっと消えていくような感覚だった。
俺は恥ずかしげもなく、彼女の前でぼろぼろと泣いた。奈津美は何も言わず、ただ俺の背中をさすり続けてくれた。 涙が落ち着いた頃、奈津美が優しく微笑みながら尋ねた。
「それで、大村さんは……役所に戻りたいですか?」俺はコーヒーを一口飲み、静かに首を振った。
「いや、もう戻ることはないよ」
「……」
「正しいことをしたとは思ってる。でも、もう周りの目には耐えられそうにない」それが俺の本音だった。奈津美はしばらく俺の顔を見つめ、それから頷いた。
「分かりました」それだけ言うと、彼女はにっこり笑った。
「じゃあ、これ以降も任せてください」
「……ん?」何のことか分からなかったが、もう彼女に任せておけばいい、そんな気がしていた。
それからさらに数週間が経ったある日、奈津美から連絡が来た。
「退職が認められましたよ!」電話越しの声は、どこか弾んでいた。
「それにね、退職金に加えて慰謝料名目では無いけどプラスしてお金も振り込まれることになりました!」俺は一瞬、言葉を失う。
「……慰謝料?」
「はい!本当はもっと戦いたかったんですけど、和解する形になりました」どうやら、奈津美は徹底的に戦うつもりだったらしい。
しかし俺の負担を考え、程よいところで手を打ったようだ。
「勝手に色々しちゃってすみません。でも大村さんにした仕打ちがひどすぎたんでどうにかしたくて…」俺はしばらく考え込み、それから静かに頷いた。
「ああ、ありがとう。……十分すぎるよ」ようやく、すべてが終わった。肩の力が抜け、深く息を吐く。
この頃には、俺も少しずつ社会に馴染めるようになっていた。
人混みを避けがちなのは変わらないが、外に出るのが怖いという感覚は薄れてきた。ふと、奈津美のことを考える。
──彼女には、心から感謝している。その気持ちを伝えたくなって、俺はメッセージを送った。
「もしよかったら、お礼に食事でもどうですか?」数分後、返信が来る。
「行きたいです!焼き鳥屋さんに行ってみたいです!」
……焼き鳥?俺は思わず苦笑する。
「もっといい店、ご馳走しますよ?」そう返すと、すぐに「焼き鳥もごちそうですよ!」というメッセージが届いた。
どうやら、女性だけでは入りづらいと感じていたらしい。彼女の素直な笑顔が思い浮かび、俺の中に温かいものが広がった。
──この人と一緒にいると、不思議と気持ちが軽くなる。
そんなことを考えながら、俺は焼き鳥屋での約束を楽しみにしていた。約束の日、焼き鳥屋のカウンター席に並んで座る。
奈津美は、ビールを片手に美味しそうに焼き鳥を頬張っていた。
「やっぱり最高ですね!」
「そんなに好きだったんですか」
「好きというか、憧れてました!なんか、カウンターで焼き鳥を食べるのって、大人の嗜みっぽくないですか?」
目を輝かせながら言う彼女を見て、俺はふっと笑った。本当に、表情がくるくる変わる人だ。焼き鳥をつまみながら、ぽつぽつと話す。
「翔さんは、今後どうされるんですか?」俺は手元のグラスを眺めながら、「うん……そろそろ動こうかと思う」と呟いた。
「まだ考えはまとまってないけど、何かしなきゃなって思ってます」
「なるほど……」彼女は真剣な表情で俺を見つめる。
「すべて奈津美さんのおかげです」そう伝えると、彼女は少し間を置いた後、突然こんなことを言い出した。
「……翔さん、私と一緒に働いてくれませんか?」
「……え?」あまりに予想外の言葉に、思わず聞き返す。
「今度、私、自分の事務所を立ち上げるんです!」奈津美は嬉しそうに微笑んだ。
「翔さんにそこで一緒に働いてほしいなと思って」俺は混乱しながら、「でも、俺は弁護士じゃないですよ?」と首を傾げる。
「そうですね。でも、補助業務を手伝ってもらえたら助かるんです!」彼女の提案に戸惑いながらも、少し嬉しくなっている自分がいた。
「俺に、できるかな……」
「できます!自分が困っている時でも他人を助けられる翔さんだから働いて欲しいんです!」 彼女はそう言い切ると、一瞬、視線をそらして、少し頬を赤くした。
「それに……私、翔さんに一目惚れしました!」
……え?俺は完全にフリーズした。次の瞬間、持っていたコップをひっくり返し、ビールがテーブルに広がる。
「あっ……す、すいません!」慌ててナプキンを手に取るが、奈津美も笑いながら一緒に片付けてくれる。
そんな彼女の横顔を見ながら、俺は自然と口を開いた。
「奈津美さん……僕の方こそ、いろいろお世話になりました」彼女が顔を上げる。
「今度は、僕があなたに恩返しをしていきます」真剣な眼差しでそう伝えると、奈津美の表情が一瞬驚いたように揺れ、それからふわっと柔らかい笑顔になった。
「……ぜひ、よろしくお願いします」俺は、奈津美の新しい事務所で働くことになった。 法律の知識はないが、書類整理やスケジュール管理、簡単なリサーチならできる。何より、人の役に立っているという実感があった。公務員だった頃とは違う。ここには、誰かを陥れようとする人間も、不正を隠蔽しようとする上司もいない。奈津美は、いつも真っ直ぐに依頼人と向き合い、困っている人を助けていた。俺はそんな彼女の姿を、尊敬し、誇りに思った。
ある日、事務所の片付けをしていると、奈津美がふいに聞いてきた。
「翔さんは、もう人混みとか大丈夫なんですか?」
「んー……前よりは、平気になってきたかな」完全に克服したわけじゃない。でも、以前のように怖くて外に出られない、なんてことはなくなった。それも、奈津美のおかげだ。
「そっか、良かった」奈津美は嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃあ、翔さんがここで働き始めて一ヶ月のお祝いに、今度どこかへ食事に行きましょう!」
「また焼き鳥?」
「うーん……今度は焼肉がいいです!」
「どんだけ肉好きなんですか」
「美味しいじゃないですか!」くすくすと笑い合う。
こうやって冗談を言い合えるようになったことに、俺はふと気づいた。
あの日、精神的に追い詰められて、ただ逃げることしか考えられなかった俺が──今は、誰かのために動き、誰かと一緒に笑っている。そんな自分が、ちょっとだけ誇らしくなった。
そして迎えた食事の日。焼肉の煙が立ち込める店内で、俺たちはビールを片手に乾杯した。
「これからも、よろしくお願いします」奈津美が真剣な顔でそう言った。
俺はビールを一口飲み、「こちらこそ」と返す。
「ところで、翔さん」
「ん?」
「……あの時の返事はまだなんですか?」俺は思わず、口に含んだビールを吹き出しそうになった。
「前に言いましたよね?一目惚れしたって」
「あれ、冗談じゃなかったんですか?」
「本気です!」奈津美はじっと俺を見つめる。真剣なまなざし。ふざけてる様子はない。俺は、少し考えた。
──この数ヶ月間。彼女と過ごす時間が、俺にとってどれほど救いだったか。彼女がいなかったら、俺はまだ社会の隅でうずくまっていたかもしれない。その現実を受け止めた瞬間、俺の心にひとつの答えが浮かんだ。
「……じゃあ、これからは一歩進むってことで」俺がそう言うと、奈津美は満面の笑みを浮かべた。
「嬉しい!」そう言って、彼女はジョッキを掲げた。
「じゃあ、改めて……これからも、よろしくお願いします!」
「……うん。よろしく」ジョッキがぶつかり、心地よい音を立てる。
こうして、俺は新しい人生を歩み始めた。公務員としてのキャリアは終わった。だけど、それで良かった。
奈津美と一緒にいる未来が、俺には何よりも大切だったから。
──これは、俺の新しい人生の始まりだ。