
あの日までは、きっと、平凡な日々のなかに安心を感じていたのだと思います。
私は四十二歳。娘が二十代前半で早めに結婚してくれたおかげで、子育てという肩の荷も、ひとまずは下ろしたような気分でいました。
「親の務めは果たした」とまでは言えないにしても、娘が自分で選んだ人と、新しい家庭を築いているのだから、それだけで充分だと――そう思っていたのです。
まさか、その「新しい家庭」の中に、自分が入り込んでしまうなんて、あの頃の私は想像もしていませんでした。
きっかけは、本当に些細な“事故”でした。
優斗さん――娘の夫は、職場からの帰り道で交通事故に遭い、両腕を骨折してしまったのです。幸い命に別状はなかったけれど、しばらくは自分で何もできない生活が始まると聞き、私は内心とても驚きました。
最初のうちは当然、娘が中心になって優斗さんを看病していたのですが……娘は介護士として働いていて、日中も遅くまで帰れないことが多く、結局、日中の世話は私が見ることになりました。
パートの仕事は、融通の利く職場だったので調整は難しくありませんでしたし、何より、娘の旦那さんはとても礼儀正しく、誠実な人で、以前から私は好感を持っていました。
「お義母さん……何から何まで本当にすみません」
そう言って、ギプスの腕で不器用にお辞儀しようとする姿に、私は自然と微笑んでしまったのを覚えています。
「いいのよ。あなただって、望んでこうなったわけじゃないんだから」そんなふうに言うと、彼は少しだけ顔を曇らせて、ふっと目を伏せました。その表情が、なんだか子どもみたいで、私の中で何かがちょっとだけ動いた気がしました。
事故から日が経つにつれ、彼の気力が目に見えて落ちていくのがわかりました。
もともと仕事熱心な人で、同僚や上司からの信頼も厚かったと娘から聞いていたので、何もできない状況が彼にとってどれほど辛いものか、私にも少しずつ伝わってきました。
「…情けないですね」「そんなことないわ。よく頑張ってるじゃない」
ギプスを巻いたまま食事をするのも、服を着替えるのも、トイレに行くのだって人の手を借りないとできない。
彼のプライドは、毎日少しずつ、削られていったのかもしれません。
私は、できる限り明るく接するようにしていました。
そんな中で、ふとした瞬間に交わす会話が、だんだんと心地よくなっていきました。
最初は、ただ気を張っていただけなのかもしれない。
でも、いつの間にか私は、彼が笑ってくれると嬉しくて、次は何を話そうかと考えるようになっていました。
笑う彼の顔を見て、私もつられて毎日笑顔で生活していました。
娘と付き合い始めたころは、もっと堅物な印象だったのに。こんなふうに話せる人だったんだ――と、私はどこか新鮮な気持ちになっていたのです。
ある日の夕方、いつものように彼に夕食を届けたときのことでした。
「早くよくなるといいわね」そう言いながら、私はつい、彼の肩にそっと手を添えてしまいました。
それはほんの一瞬のこと。
「美代子さん……」
不意に名前を呼ばれ、私は息をのむしかありませんでした。彼の目が、どこか恋人のような、熱を帯びた眼差しで、まっすぐ私を見ていました。
心臓が、ドクンと大きく鳴りました。
「……いけないわ。冗談でも、そんなふうにしちゃ……」
私は急いで手を引っ込めて、その場を離れました。
でも――それからです。彼の視線が変わったのは。
いや、たぶん、私の気持ちの方が変わってしまったのかもしれません。
気づけば、優斗さんのことを考える時間が増えていました。
彼の穏やかな声。落ち込んでいるときの、少し寂しそうな表情。
娘が選んだ相手として好意を持っていたはずの彼を、私は、女として見てしまっていたのです。
もちろん、いけないことだとわかっていました。
娘の夫――それ以上でも以下でもない関係でなければいけない。
でも……その理性が、どこまで持つのか。
私は、自分でもわからなくなっていました。
その日も、私はいつものように、彼の夕飯を作り、キッチンで片付けをしていました。
もうすぐ彼は職場復帰の予定で、リハビリも順調に進んでいると聞いて、ほっとしたような、寂しいような……そんな複雑な気持ちで鍋を洗っていたときです。
ふと背後に気配を感じて振り返ると、彼が立っていました。
もう両腕のギプスは取れていて、多少不自由ながらも動かせるようになったのです。
「……どうしたの?」
思わず問いかけた私に、彼は何も言わず、ただじっと見つめてきました。
その瞳には迷いも、戸惑いもありませんでした。
「もう、我慢できないんです」
そう言って、彼はそっと私の手を取ると、ゆっくりと自分の胸元に引き寄せました。
鼓動が伝わってきて、私の心臓も同じように高鳴っていくのがわかりました。
「こんなこと……だめよ」
そう口では言ったものの、私の指先は彼の手のひらに包まれたままで、離れる気配を見せませんでした。
頭の中では、理性が必死に警鐘を鳴らしているのに、体のどこかが、熱を帯びていくのを止められなかった。
そして、彼が私の頬に触れてきたとき――私は、もう抗うことをやめてしまいました。
彼の唇がそっと触れてきた瞬間、胸の奥にしまい込んでいた何かが、一気にほどけていったようでした。
キッチンという日常の場で交わすそのキスは、あまりにも現実的で、それでいて夢の中のようでもありました。
「……こんなことして、どうするの……」
「僕たちだけの、誰にも言えない、秘密です」そう言いながら彼は私の手を引き、ダイニング脇の小さな和室へと誘いました。
その空間は、何の装飾もない、ごく普通の畳の部屋。
でも、ふたりで並んで座った瞬間から、空気が変わったような気がしました。
彼の手が、私の肩にそっと触れ、少しずつ、確かめるように体を寄せてくる。
私は目を閉じて、その温もりに身をゆだねました。
長い間、こんなふうに誰かに触れられることもなかった。
抱きしめられることで、心のどこかがほどけていくのを感じながら、私はただ静かに、彼の腕の中にいました。
「綺麗です……」その一言に、私は胸が詰まってしまいました。
私なんかもう若くもないし、体型だって崩れてきてる。でも、そんな私を見つめてくれる人がいるということが、ただ、嬉しかった。
肌を重ねることだけが目的じゃないとわかっていても、心の奥では、あのぬくもりを求めていた自分がいたことを、私はようやく認めることができました。
翌朝、娘が出勤するのを見送ると、私は背中に視線を感じました。
振り向くと、優斗さんが静かに立っていて、私の後ろからそっと抱き寄せてきました。
「ねえ……本当に、いいの?」
「……もう、僕は止まれません」彼の声は低く、でもはっきりと耳元に届いてきました。
思えば、これが一度きりになるはずだった。あの夜だけの過ちにするはずだった。
でも私も、心のどこかで、同じ気持ちだったのだと思います。
あの瞬間の安らぎと、抱きしめられるたびに満たされる感覚を、忘れることができなかった。
「共犯者ですね、僕たち」
彼が小さく笑って言ったその言葉に、私は目を伏せて黙ったままでした。
否定しようと思えばできたけれど、私はうなずいてしまっていたのです。
――そう。私たちは、もう共犯者。
娘に背を向けてしまったという罪悪感はある。
でもその罪が、なぜか心をさらに燃やす。いけないとわかっているのに、やめられない。そんな関係に、私たちは少しずつ足を踏み入れてしまったのでした。
その後も、ふたりの関係は、何事もなかったかのように続いていきました。
誰にも知られないように、慎重に――でも、確かに。
笑顔で娘を迎える私の心の裏には、夜の罪が静かに潜んでいます。
母親としては、最低です。でも、ひとりの女としては、彼に求められる喜びがどうしても捨てきれなかった。
人は誰しも、弱さを抱えて生きている。
その弱さにすがるようにして、私たちは今日もまた、互いを求め合ってしまう。
それがたとえ、取り返しのつかない道だとしても――