結婚生活が20年目に入った今、私たちの間には目に見えない壁がそびえ立っていた。二人の子供たちはそれぞれ巣立ち、今は夫と二人だけの静かな生活。しかし、かつての温もりはすっかり消え、冷たい沈黙が家中を包み込んでいた。夫婦で会社を営んでいる私たちは、仕事に追われる中で、夫婦であるということを忘れかけていた。夜の営みはとうの昔になくなり、私は女性としての自信を失いつつあった。
そんなある日、今度彼を従業員として雇いたいと言い、健二さんとその奥さんを自宅に招いた。健二さん夫妻は私たちより少し年下で、まだ若々しさを感じさせる夫婦だった。健二さんは快活で明るく、奥さんも気さくで魅力的な女性。彼女の軽やかな仕草と優しい笑顔が、私の心に一瞬、何かを触れるのを感じさせた。それは久しく感じていなかった、女性としてのときめきだった。
健二さんは無事に入社し、一緒に働くことになった。ただ、私は健二さんのことが頭から離れなくなっていた。彼が動くたびに、ふと目に入り、そのたびに微笑みを返してくれる彼の姿に、思わず頬が緩んでしまう自分がいた。そんな自分に対して、罪悪感が次第に膨らんでいった。一方で、夫も何かを感じているようだった。健二さんと話すときの私をちらりと見つめる夫の視線が、以前よりも冷たく感じた。心の中で夫への後ろめたさと、健二さんへの淡い思いが交錯し、私の日常は少しずつ変わり始めた。
ある日、スーパーで買い物をしていると、偶然健二さんの奥さんと鉢合わせた。「ここで買い物されるんですね」と微笑む彼女。その笑顔を見た瞬間、私はまた胸がざわつくのを感じた。世間話をしているうちに、「少し時間はありますか」と誘われ、近くの喫茶店で話をすることになった。
お店に入るなり、彼女がふと真剣な表情になり、「夫はうまくやっていますか?」と聞いてきたのだ。彼女によると健二さんは自分勝手で、人の話は聞かない。自分が正しいという人らしい。協調性や優しさが無いので会社で上手くやっているのか気になったそうだ。そして「実は私、本当は夫とうまくいってなくて…離婚しようかと悩んでいるんです」と彼女は突然悩みを打ち明けてきた。あの食事の日も、いきなり行くぞと声を掛けられて連れてこられたそうだ。
「あの人は、私に興味がないんです。全部勝手に決めて…私のことも家政婦としか思っていないんです」。さらに、夫婦関係もなく、もうすでに15年近くレスだということを彼女はポツリと打ち明けてくれた。
私が抱いていた健二さんの印象とは全くの別物だった。やはり夫婦は上辺だけでは分からないものだとしみじみと感じ、胸が痛んだ。夫婦の絆が揺らぐことの恐ろしさを、他人事のようには感じられなかった。そして彼女はさらに続けた。「夫がいつも言うんです…誰かと妻を交換したいって…」そう言うと彼女は泣き出してしまった。
一瞬、耳を疑った。妻にひどい言葉を投げかけ、交換したいだなんて…。健二さんがそんな提案をしてくるなんて、想像もできなかった。しかし、彼女の瞳は真剣で、そこには切実な思いが溢れていた。私も何かしてあげられないかと考え、「ちょっと何か考えますね」と答えると、彼女は頷き、微笑んで喫茶店を去っていった。
帰り道、私はずっと考え続けた。健二さんは、本当にそんなことを望んでいるのだろうか。それとも、本当の気持ちは別のところにあるのではないか…。私自身も、夫とうまくいっているわけではない。でも、夫に話さなければと思い、思い切って夫に切り出した。すると夫は驚いた表情を見せた後、少し考え込んでから、意外にも「俺たちも似たようなものでしょ、うちと交換してみたらいいんじゃないか」と答えたのだ。
そう言われたその時、心の奥で何かが崩れ落ちるのを感じた。もしかしたら、私たち夫婦ももう取り返しのつかないところに来てしまったのかもしれない、と。健二さんの奥さんと連絡を取り、一度懲らしめてやろうということで、健二さんには知らせず私たちを交換することを決めた。交換の当日、決めたのは良いが私は緊張して、健二さんの家の前で心臓が飛び出しそうになっていた。ドアが開き、健二さんが出迎えてくれた瞬間、全身が熱くなるのを感じた。「今日は奥さんと入れ替わらせて頂きます」と宣言し、家に上がらせてもらおうとした。健二さんは意味が分からないという顔をしていたが、「どうぞ、上がってください」と健二さんの奥さんが優しく微笑み、私は無言で頷くだけだった。リビングに通されると、私は早速今回の経緯を説明した。そして奥さんには私の家へ向かってもらった。
説明されても納得していないのか、健二さんとの関係は夕食の間中、ぎこちないままだった。しかし、健二さんがふと手を滑らせ、ソースが私の白いシャツにこぼれてしまった。私は慌てて台所に向かい、シミが付かないようにシャツを洗い始めた。彼は私の後を追ってやってきたが、濡れた部分が透けて下着が見えてしまった。息を呑む健二さん、私を見てタオルを差し出し、「これで隠してください」と彼は言った。
リビングに戻り健二さんと向かい合うと、彼は唐突に話し始めた。「妻とうまくいっていないのはレスなんです。どうしても…うまくできなくて」と彼が言う。話を聞くと、彼女が嫌がってどうしても受け入れてくれないそうだ。さっきまでは奥さんがかわいそうだと思っていたのに、落ち込んでいる彼を見ると彼のことも可哀想だと感じる自分がいた。
話をまとめると、彼らは二人とも奥手すぎて、どうしても準備ができていないように感じた。夫とうまくいっていない私も、ちょっと自暴自棄になっていたのだろう。
「私と…試してみる?」そう言うと彼は迷わず「はい」と返事をした。私はもう後戻りできないと覚悟を決めた。そして私は、彼に寄り添い、ゆっくりと導いてあげた。やはり想定していた通り、彼らはともに他に付き合った人がいないらしく、さらにお互いが奥手でそういう話をしたことがなかったそうだ。
「ありがとうございました」と健二さんがお礼を言う。
「ううん、うちもね、上手くいってなかったから、ちょうど良かったのよ」
しばらくすると、健二さんは「妻は大丈夫でしょうか?」と心配そうに言う。「大丈夫よ、夫は元遊び人だったから」
え?」とあからさまに動揺する健二さん。「大丈夫よ。奥さんが帰ってきたら、今日のことはお互い忘れて、大事にしてあげてね」
「はい」と言うと彼はそのまま眠ってしまった。
翌朝、健二さんは「おはようございます!」と朝から元気だった。私のことを送っていきますと、彼は朝から急かしてくる。奥さんに会いたくて仕方ないのだろう。
「じゃあ、よろしくね」と私も早く家に帰ることを望んでいた。そう、私はやっぱり夫を愛している。それがどんなに歪んだ形であれ、私の心の根底には確かな愛がある。だからこそ、夫と二人でやり直そうと決心したのだ。
「おはようございます」家に到着すると、奥さんが前で待っていた。彼女はスッキリとした顔をし、力強い目をしていた。私と彼女は挨拶をしたあと、目を合わせ二人で頷き合った。すれ違う際に、「頑張ってね」と一声かけ二人と別れた。
家に入ると、なんと夫が私のためにコーヒーを入れてくれていた。
「おかえり」夫の声が優しい。ここで色々聞くと、いろいろと波風が立つ。私は何も言わず夫の胸元に飛び込んだ。「おかえり」夫の優しい声が私を包み込む。こんなに穏やかな会話はいつ以来だろうか。私たちは久しぶりにキスをした。今まで忘れていた安らぐ感覚を思い出させてくれた。
その後、私たちはコーヒーを飲みながら、今後のことについて話し合っていた。昨日の出来事はお互いに聞かないし、詮索しないことを決めた。そして、もう二度とこんなことはしないと誓い合った。お互い謝罪しあった。そして、週に何度かは触れ合う機会を作ることにした。ケンカをしたら何も言わずにハグをすることも取り入れた。
いろいろルールを決めたが正直、もう話し合わなくても大丈夫だと感じていた。私たち夫婦は、再び新しい一歩を踏み出したのだ。