
「えっ、嘘だろ……」
その日は、再就職をかけた大切な面接の日だった。
時間に遅れぬよう、娘をベビーシッターさんに預け、スーツ姿で早めに家を出た。娘には「今日は大事な日だから、パパ頑張ってくるね」と言い残して。
面接会場は、家から車で10分ほどの場所にある、育児支援に理解のある会社。私のようなシングルファーザーにとっては、まさに理想的な職場だった。
……だったのに。
なぜ、こんな偶然がまた重なるのか。
満員でもないバスの中、目の前で苦しそうに身をかがめた妊婦を、見過ごすことはできなかった。
運転手に頼み、バスを止めてもらい、タクシーを呼んでその女性を病院へ連れて行った。
「面接には間に合わないだろうな……」そう覚悟していたが、やはり結果は予想通りだった。
一応、会社に連絡は入れてみた。だが、返ってきたのは「今回はご縁がなかったということで……」という淡白な言葉。
妻に先立たれた38歳の男。5歳の娘がいる。誰が見ても問題ありの子持ち。会社から見れば“リスク”でしかないのだろう。
悔しくて電話を切ったあと、ひとり人目も気にせず、「こんな時代、シングルファーザーなんてゴロゴロいるだろうが!」と声を荒げてしまった。
けれど、怒鳴ったところで、状況が変わるわけではない。
そのまま岐路へとついた。
気づけば、心の中にじんわりとした疲れが広がっていた。
ドアを開けると、ベビーシッターさんが娘の茉奈と遊んでくれていた。
私の顔を見るなり、娘がこちらを見上げてくる。
「あれ……パパ、おかえり」口にはしないけれど、心配そうにのぞき込んできた。
小さな体のどこに、こんな勘の良さがあるのだろう。
私は「今日はありがとう」とシッターさんに礼を述べ、今日はもう外出しない旨を伝えて帰ってもらった。
そして、スーツを脱ぎ、娘の隣に腰を下ろす。
「ごめん、ダメだった」そう言うと、娘はにこっと笑って、ぎゅっと抱きついてきた。
「大丈夫。パパは悪くないよ。パパは、やさしいもん」その言葉に、心がきゅっと締めつけられる。
彼女はまだ5歳。だが、私の心を読んだかのように、いつもタイミングよく励ましてくれる。
それでも、夜になると、娘の寝言には必ず「ママ」が出てくる。
「ママ……」と泣きながら、夢の中で求める姿に、私は何度も枕を濡らした。
この子には、やっぱり母親が必要なんだ。
その思いが強くなり、気乗りしなかった結婚相談所への登録を決意した。
結婚相談所の案内で、都内のホテルで開かれた懇親会に参加することになった。
参加者は、男女ともにシングルで子どもを持つ者たち。
どこか張り詰めた空気の中で、笑顔を作りながらの立ち話が続いていた。
私は正直、こういう場に慣れていない。
名札を見ながら何人かと挨拶を交わしていたそのとき、ひときわ華やかな女性が声をかけてきた。
「はじめまして。ご家族のお写真、見せてもらっていいですか?」
30歳だというその女性は、自分にも3歳になる男の子がいると言ったが、育児疲れの気配は一切感じなかった。
しっかりとした化粧とキラキラと光るアクセサリー。どこか“よそいきモード”のような装いだった。
彼女は実家の両親が育児を代わってくれていると言い、平日は自由な時間があるとのこと。
言葉遣いは丁寧で、会話も上手。流されるように、私たちは数回のデートを重ねることになった。
正直、見た目も華やかで、大人の関係もスムーズに受け入れてくれた彼女との時間は、少なからず心を慰めてくれるものだった。
ただ、その一方で、どこかに違和感を覚えていた。娘の前では、必ずしも笑顔になれない自分。
その日は特にそれがはっきりした。
「……パパ、くさいよっ!」夜、家に帰ると、娘が私を避けるようにして言った。
たしかに、強い香水の匂いがスーツに残っていた。自分では気づかないその匂いに、娘は敏感に反応したらしい。
ベビーシッターさんに尋ねると、苦笑いを浮かべながら「ちょっと香水の匂いがきついですね」と優しく教えてくれた。
香水の匂いを避けるよう、次からは会うときに着替えを持参し、帰宅前に着替えるようにもした。
それでも、彼女との距離は、娘との距離を遠ざけているように感じ始めていた。
そんなある日、彼女が言った。
「私、そろそろ子供さんに会ってみたいな」それは、避けていた言葉だった。
でも、今後のことを考えれば、紹介しないわけにもいかない。
娘の反応が怖かったが、一度きちんと会わせてみよう。そう決意して、自宅に招いた。
そして、玄関を開けたその瞬間だった。
「この人だ、いつものくさい匂い!」娘が叫んだ。それも、怒鳴るように。娘はそのまま走って自室にこもって、部屋から出てこなかった。
「ごめん、香水の匂いが苦手みたいで」と伝えるも、彼女は気を悪くする様子もなく、「ごめんなさいね」と笑って、シャワーを借りると言ってくれた。
彼女がシャワーを浴びてる間に、置いていたバッグに足を引っかけてしまい中身がこぼれ落ちた。
私はそれを無意識に拾い上げた。それは興信所の封筒。駄目だと思いつつも、つい中身を見てしまった。
そこに書かれていたのは、私と娘の生活に関する調査報告だった。
凍りつくような違和感。その時彼女が慌てて脱衣所から出てきた。
「どういうこと?」封筒を見た彼女の顔が一瞬で強張り、私から奪い取るようにして取り返した。
「人のカバンの中身を勝手に見るなんて、どういう神経してるの?」怒ったような声をあげ、しかしその目はどこか焦っていた。
「将来の相手のことを調べるのは当然でしょ」と強がる彼女。だが、報告書の日付は、私たちが出会った懇親会の前日のものだった。
つまり、彼女は最初から私を“選んで”近づいてきたということだ。
「当然でしょ?苦労なんてまっぴら。金のない男と一緒になんてなれないわよ」そう吐き捨てた彼女の態度に、私は静かに別れを告げた。
「……ごめん。君とのことは、ここまでにしたい」彼女の持ち物はすべてブランド物。
だが、あの調査書を読めばわかるはずだ。
私には、財産なんてない。少しばかりの保険金は入ってきたがそれは、娘の名義だ。
封筒が嘘を暴き、そして心の薄皮を剥がすように、彼女は去っていった。残された静寂の中、娘が恐る恐る顔を出してきた。
笑いを浮かべて手招きすると、娘は周囲を確認してから、そっと近づいてきた。
「さっきの人、もう帰ったの?」娘はほっとした表情を浮かべたあと、でもすぐに泣き出してしまった。
「私のせい?ごめんなさい……」私は、涙をぬぐう娘を強く抱きしめた。
「いいんだよ。パパには、茉奈がいてくれたら」その小さな体から、ぬくもりが胸に染み込む。
父親として、まだまだ未熟だけれど、娘を守る力だけは失いたくないと思った。
翌日は朝から冷たい雨が降っていた。私は娘の茉奈と並んでソファに座り、絵本を読んでいた。外は静まり返っていて、雨音だけが淡々と窓を打っている。午後になった頃、不意に玄関のチャイムが鳴った。
こんな天気の中、誰だろう。
私は立ち上がり、少し警戒しながらインターホンのモニターを覗いた。
そこに映ったのは、赤ちゃんを抱えた若い女性だった。
見覚えは——ない。間違いか……?
ふと、背中に恐怖を感じた。このご時世、見知らぬ人が子連れでいきなり訪ねてくること自体、不安を覚える。
モニターの前で立ち尽くし、私は動けなくなっていた。
「パパ、だれか来たの?」絵本を持ったまま、茉奈が足音を立てて駆け寄ってくる。
そして、そのまま玄関まで走っていった。
「茉奈!待って!開けちゃだめだ」そう言い終わる前に、茉奈は玄関のドアを開けてしまった。
「まなみ先生!」茉奈の声が弾む。小さな体で、タオルを抱えて女性に駆け寄っていく。
私は呆然としながらも、慌ててその後を追った。
「……先生?」
「保育園のときのまなみ先生だよ。ママになるからやめちゃったの。パパ、知らないの?」
その言葉で、私はようやく合点がいった。娘が通っていた保育園にいた、若くていつも優しく微笑んでくれた先生。
退職されたと聞いた、あのまなみ先生だった。
私の前に立つ彼女は、整った顔立ちのまま静かに頭を下げた。
「突然の訪問、申し訳ありません……少しだけ、お時間をいただけますか?」
リビングに招き入れ、温かい紅茶を淹れた。
不思議なことにぐずっていた赤ちゃんは茉奈が抱っこするとすぐに眠ってしまい、娘の腕の中で小さく寝息を立てている。
彼女はソファの端に座り、カップをそっと口に運んだあと、小さく深呼吸をした。
「……あのときは、本当にありがとうございました」私は眉をひそめる。
「あのとき?」
「…バスで助けていただいたのが私です」目の前の景色が静かに揺れた気がした。
忘れもしない、あの日の光景。面接へ向かう途中、突如うずくまった妊婦を介抱し、タクシーで病院まで送った——その人だった。
「まさか、あのときの……」
「あの時は、痛みで何も覚えてなくて…でもずっと……お礼が言いたくて探していたんです」
彼女は視線を落としながら、カバンの中から封筒を取り出した。
それは興信所の封筒だった。内心、また興信所かと思っていたところ勘付かれたのか、
「すみません、どうしてもお礼が言いたくて、父が探してくれたんです」
「そしたら、まさか茉奈ちゃんのお父さんだったなんて…」
「本当にありがとうございました。私も息子も命が助かりました。」と深々と頭を下げてきた。
そして呆然としている私に、
「父が、どうしてもと」私に封筒を渡してきた。
私は受け取った封筒を見た瞬間、心臓が跳ねた。その封筒に印字されていた社名は、私が面接を受けるはずだったあの会社だったのだ。
「まさか……」彼女は小さく頷いた。
「はい。あの会社の社長が、私の父なんです」
場の空気がふわりと変わった。
品のある話し方、どこか育ちのよさを感じさせる立ち居振る舞い。あの日からずっと、心のどこかで引っかかっていたものが、今、音を立てて繋がった。
「調べてる中で、父の会社に面接に来ていたのが分かって。それなのに面接すらしていなかったなんて……うちの会社が失礼なことをして大変申し訳ないと父が…」
そう言って差し出された封筒の中には、新しい面談日が書かれていた。
数日後、私は封筒に記された日付に合わせて、再びあの会社の門をくぐった。
かつて面接にすらたどり着けなかった場所。今度は、胸を張って歩いている自分がいた。
受付に通されると、案内された応接室には、既に一人の紳士が腰掛けていた。
「……お忙しい中来ていただき、ありがとうございます」そう言って立ち上がったのは、まなみの父。
面接を受ける予定だった会社の社長であり、彼女が父親その人だった。
「娘と孫を助けてくださったと聞きました。本当に、ありがとうございました」
「……いえ、あのときは、ただ、早く救急車に思ったので……」
「その“ただ”ができる人間が、どれほど貴重か。私は、そういう人と仕事がしたい」
重みのある言葉に、背筋が伸びた。
彼の視線は厳しくもまっすぐで、その奥にどこか、静かな誠意があった。
「うちの会社があなたの面接を断ってしまったこと、大変申し訳なく思います。」彼は穏やかに続けた。
「あなたさえ良ければ、ぜひ当社で働いて欲しい。今後のあなたの人生を応援させていただきたい」
社長のその言葉に、私はただ、深く頭を下げた。
それから半年が過ぎた。
新しい職場での仕事は順調だった。
そして驚くことに、私とまなみは今交際し、同棲している。もうすぐ籍を入れる予定だ。
まなみと息子の心春(こはる)くんも、我が家に馴染み始めていた。
娘の茉奈は、すっかり“お姉ちゃん”としての自覚が芽生え、毎日のように心春の世話を焼いている。
「おむつ替えるときは、こうするんだよ」
そんな小さなやり取りが、家の中に自然な笑いをもたらしてくれる。
まなみも、よく笑うようになった。
お嬢様育ちの彼女は、あまり家事は出来なくて、慣れないながらも、それでも一生懸命に食事を作ってくれる姿に、私は何度も胸を打たれた。
ある夜、娘たちが寝静まったあと、私はリビングの灯りを少し落とし、まなみと向き合っていた。
「……本当にいいのか? 俺みたいな人間で」彼女は小さく笑って、首を横に振った。
「そんなふうに言うの、もうやめてください。私があなたを選んだんです。あなたじゃなきゃ、嫌なんです」
言葉が詰まった。なにか返そうとしたが、うまく言葉が出てこない。
「……私、心春が生まれてから、ずっと不安でした。この子を、ちゃんと育てていけるのか。でも、あなたと茉奈ちゃんがいてくれたら、きっと大丈夫って、心から思えるんです」
そのとき、私は思った。この人の手を、もう二度と離すまいと。
そっと手を伸ばし、彼女の指を絡めた。
それから季節が巡った。
春の風が心地よく吹くある日曜日、家族四人で近くの公園を歩いた。
ベビーカーの中で心春が笑い、茉奈がその手をとって、楽しげに歌っている。
ふと振り返ると、まなみがそっと私の袖をつまんでいた。
「……私、思うんです。あのとき、バスの中で倒れてよかったなって」
「え?」
「だって、そうじゃなかったら、今ここにいられなかったでしょ?」私は肩をすくめ、苦笑しながら答えた。
「助けた相手が、社長の娘だったなんて、正直今でも信じられないけどな」
「こっちこそ、まさかの茉奈ちゃんのお父さんでびっくりしたよ」
「運命だな…」その言葉に、まなみが目を細めてうなずいた。
家族とは、血の繋がりじゃない。
困ったときに手を伸ばし、悲しいときに寄り添い、喜びを一緒に笑い合える関係。
その積み重ねが、家族という形を作っていくのだと思う。
心から愛せる人がいて、守りたい子どもがいる。
それは、人生でたった一度でも手に入れられたら、それだけで十分な“奇跡”なのかもしれない。
だから私は、今日も働く。この何気ない毎日を守るために。
そして——
「パパ、いつもお弁当、作ってくれてありがとう!」茉奈の声が背中から響いた。
振り返ると、まなみと心春が並んで立っていた。