
俺は兄貴の嫁に惹かれている…
そんな感情を抱くなんて、俺は最低なのかもしれない。
兄が亡くなって、もう二年が経つ。別れる準備などなく信じられないほどあっけなく、突然だった。俺にとって尊敬すべき兄は、この世からいなくなった。
残された兄嫁の彩乃さんは、最初の一年こそ深い悲しみに沈んでいたが、最近はようやく笑顔を見せることが増えてきた。
兄と彩乃さんはお世辞抜きでお似合いな夫婦だった。
いつまでも仲良く過ごす夫婦、それは当然に訪れる未来だと思っていたんだ。
けれど、その笑顔に俺は妙な感情を抱くようになっていた。
「蓮くん…今日も来てくれてありがとう」
俺の顔を見ると、彩乃さんはふっと微笑んだ。
肩までの黒髪を耳にかけ、淹れたてのコーヒーを差し出してくれる。
その仕草が、どこか艶やかに見えるのは気のせいだろうか。
「いえ、俺のほうこそ。彩乃さんが一人で寂しくないか、気になって……」
「ふふっ、大丈夫よ。だけど、蓮くんがこうして来てくれるのは、正直嬉しいな…」
そんなことを言われると、心臓が跳ねそうになる。
本来なら、義理の家族として接するべき存在。
なのに、彼女が見せる柔らかな微笑みや、時折見せる寂しげな瞳に、俺はどうしようもなく惹かれていく。
果たして俺は、これ以上ここにいていいのか?
そんな迷いを抱えながらも、俺は彼女の元を訪れるのをやめられなくなっていた。
兄には悪いが、この頃俺は既に彼女に対して義理の家族とは別の感情を抱き始めていたように思う。
兄が亡くなってから、俺は月に何度か彩乃さんの家を訪れるようになった。
最初の頃は、ただ彼女がひとりで寂しくないか気になったからだった。
兄のことを慕っていたのは、俺だけじゃない。
家族同然だった彼女を放っておくなんてできなかった。
「兄貴のこと、忘れられないですよね」
ある日、何気なくそう言った俺に、彩乃さんはゆっくりと首を振った。
「忘れることなんて、できるわけないわ。でもね……」
少しだけ迷ったように視線を落とし、それから俺を見つめる。
「一緒に過ごした日々を大切に思うのと同時に、今をちゃんと生きなきゃとも思うの」
強い意志を感じるその言葉に、俺は驚いた。
彼女は悲しみに押しつぶされるどころか、前を向こうとしている。
それは兄のことを愛していたからこそ、できることなのかもしれない。
「蓮くんは優しいね」
「え……?」
「ずっと気にかけてくれるから」
「ま、まぁ義理の弟として当然のことですから」それを言うと彩乃さんは嬉しそうに微笑んだ。
「来てくれると、すごく気持ちが落ち着くの。ありがとう。」そう言いながら、俺に向ける視線がどこか柔らかくなっている気がした。
俺はただ、兄の代わりに彼女を支えたいと思っていただけのはずだった。それなのに、彼女の笑顔を見るたびに、胸が締めつけられる。彼女がふと視線をそらした瞬間、俺は思わず口を開いていた。
「俺は……彩乃さんが、笑っていてくれるのが嬉しいです」自分でも驚くほど素直な言葉だった。彼女の目が、わずかに揺れる。それから、少しだけ頬を染めて、
「ありがとう。こんな優しい弟を持ててお姉ちゃんは嬉しいよ!」
互いにそんなことを言って笑い合っていた。ただ、その日で確信に変わった。
俺は彩乃さんを兄嫁としてではなく、ひとりの女性として意識するようになったんだ…。
それからも、俺は変わらず彩乃さんの家を訪れた。以前と同じように、兄の話をしたり、何気ないことを話したり。
しかし、俺の中で少しずつ何かが変わり始めているのを感じていた。彼女の仕草ひとつひとつが妙に色っぽく見える。
長い髪を耳にかける仕草、グラスの水を飲むときの唇の動き。些細なことなのに、目が離せなくなる。
そして、彼女もまた、俺を特別な目で見ているような気がした。ある夜の仕事終わりに、電話がかかってきた。相手は彩乃さんだ。
「ねぇ今日って夜空いてる?」
「今日は特に何もないですよ。どうかしました?」
「うちで少し飲まない?」彼女の家で酒を飲むのは初めてだった。
「いいんですか…?」
「たまにはね。蓮くんももう大人だもの」
「それじゃあ…お言葉に甘えて…。何かつまみ持っていきますね。」
「ありがとう。じゃあ待ってるね」それから彼女の家に手土産を持って家を訪れた。テーブルの上にはワイングラスが二つ。
彩乃さんが俺のグラスに赤ワインを注ぐ。
「お酒、強かったかしら?」
「いえ……飲めますよ」グラスを傾け、ゆっくりと喉に流し込む。ほのかな酸味と渋みが広がり、体の奥からじんわりと熱がこもるようだった。彩乃さんはソファに座り、俺の隣で静かにグラスを揺らしている。普段よりもリラックスした表情。少しだけ頬が赤い。
「なんだか、不思議ね」
「何がですか?」
「蓮くんと、こうして二人でお酒を飲んでること」くすっと笑う彼女の仕草に、また心臓が跳ねる。
「……俺、変ですか?」
「ううん。むしろ……」そう言った彼女の視線が、俺の目をじっと捉えた。言葉を交わさずとも、何かを確かめるような目だった。
距離が、近い。鼓動が速くなるのがわかる。
「蓮くんは……彼女、いないの?」
「いませんよ」
「ふふ、そうなのね」彩乃さんがそっと笑う。その唇に、俺の視線が釘付けになった。
(ダメだ……)兄の嫁だ。俺が慕ってきた兄の、大切な人。わかっているのに…全然目が離せない。彼女の指先が、グラスの縁をなぞる。 ゆっくりとしたその動作が、妙に艶っぽく見えた。
「ねぇ、蓮くん」
「……はい」
「もしも、私が誰かを好きになったら……それは間違いなのかしら?」それは、兄を亡くした彼女の寂しさから出た言葉なのか、それとも──。
「彩乃さん、さっきの言葉一体どういう意味だったんですか?」何を言おうとしていたかわかっていた。でも彼女の口から聞いてみたいと思ってしまったんだ。名前を呼んだ俺の声は、ひどく掠れていた。
「ごめんなさい。変なこと言ったわね。忘れて頂戴。何でもないから」
彩乃さんはそう言って笑おうとした。 しかしその目は笑っていなかった。
「真剣に答えてください…!」俺はグラスを置いた。胸の奥に絡みつく葛藤を振り払うように、彼女の瞳をまっすぐ見つめる。
「間違いかどうかなんて……誰にも決められないと思います」彩乃さんの唇が、わずかに震えた。
「そう……ね」彼女の指がワイングラスの縁をなぞる。 赤い液体が揺れ、グラスの内側に淡い痕を残す。
「でも、きっと……世間の人は間違いだと言うわ」
「俺は、そんなこと気にしません」
「……強いのね」
「違いますよ」俺は苦笑した。
「強かったら、今こんなに悩んでいません」
「悩んでるの?」
「……はい」俺は彩乃さんから目を逸らした。正直に言うのが怖かった。
「彩乃さんが……兄貴の奥さんだから」静かな部屋に、俺の声だけが響く。
「俺は、兄貴を尊敬してました」
「ええ……知ってるわ」
「だからこそ……」その先の言葉が、喉の奥で詰まる。本当は、彩乃さんが女性として魅力的だと思っていること。俺の中で、彼女がただの『兄嫁』ではなくなっていること。それを、認めるのが怖かった。
「……蓮くん」彩乃さんが、俺をじっと見つめる。
「それでも、私たちは一線を越えてはいけないのよね」静かな声だった。 だけど、その言葉は俺の胸を強く締め付けた。
「……そうですね」俺はうなずく。
それが『正しい』答えだと、わかっていた。なのに──。彼女の細い指が、そっと俺の手の甲に触れた。
それは、一瞬だった。けれど、その熱が俺の肌に焼きつく。
「ごめんなさい……」彩乃さんはすぐに手を引っ込めた。 けれど、その瞳は揺れていた。
「今日のことは忘れて…」忘れられるはずがない。
きっと彩乃さんはギリギリの理性を保って踏みとどまったのだろう。俺はモヤモヤした気持ちを抱えたまま、この日は解散となった。
ここまで答えが出ているのに、彩乃さんが踏みとどまったことで俺は気持ちを口にすることが出来なかったんだ。
でもこのまま諦めることは俺にはできなかった。
「彩乃さん、明日俺休みなので会えませんか?」
「え?」
「大事な話をしたいんです…」彩乃さんは一瞬沈黙したが承諾してくれた。迎えた翌日。雨が降っていた。静かな部屋に、雨粒が窓を叩く音だけが響いている。俺と彩乃さんは、向かい合っていた。彼女はソファに座り、俺はテーブルの前で立ち尽くす。どちらも、言葉を探していた。
「……蓮くん」彩乃さんが、ぽつりと俺の名前を呼んだ。
「はい」
「昨日言ってた大事な話って…?」静かな問いかけだった。けれど、その言葉には別の意味が込められている気がした。俺は喉を鳴らし、言葉を選ぶ。
「彩乃さんは兄貴が亡くなって、誰かに心動かされることはありましたか…?」
「えっ?」言葉を選びすぎた結果、自分でも何を聞いているのかわからなくなってしまった。彩乃さんは少しだけ目を伏せて答えた。
「今から話す内容に、その私の答えが必要なの…?」彼女は俺を見つめていた。
「……はい」俺は嘘をつけなかった。
「私はね……」彼女はワイングラスを手に取り、残った液体をゆっくりと口に含んだ。喉が上下し、白い首筋がなめらかに動く。
「もう、ずっと前から……あなたのことを考えていたの」その時の彼女は妙に色気を増して、仕草一つ一つに目が行ってしまうほどだ。
「俺のことを?」彩乃さんは微笑んだ。
「ええ」
「それって……」
「わからない?」
「わからないです…」俺の言葉に、彩乃さんはくすりと笑った。
「素直ね、蓮くんは。それとも私が困ってる顔を見たいとか?」
「そんなこと……」
「私ね、あなたが会いに来てくれるたびに、少しずつ救われていたの。でも、それと同時に……怖くなった」
「怖い?」
「ええ。蓮くんのことを、大切に思う気持ちがどんどん変わっていくのがわかったから」雨音が強くなった。
「私は、あなたの義理の姉なのよ」
「……わかっています」
「なら、こんな気持ち……持つべきじゃないの」彩乃さんの指が、ぎゅっとグラスを握る。
「それでも……蓮くんが来るたびに、私は嬉しくて……」俺は黙って彼女を見つめた。
「私は……間違っているのかしら」その問いに、俺は迷わず答えた。
「間違ってなんか、いません」
「……どうして?」
「それが、俺の気持ちと同じだからです」彩乃さんの瞳が揺れる。
「……蓮くん」俺は、テーブル越しに彼女の手を取った。
「俺も、彩乃さんを想っています」指先が触れた瞬間、彼女はわずかに震えた。
「俺は、兄貴のことを尊敬していました」
「ええ……知ってるわ」
「でも、それでも……彩乃さんのことが……」
喉が詰まる。
それでも、言わなければならなかった。
「好きです」
彼女の目が、大きく見開かれる。
「……蓮くん」
「ずっと、ずっと好きでした」俺の声は震えていた。
「最初は、兄貴の奥さんとして家族として…大切に思っていました」
「ええ……」
「でも、いつの間にか……それだけじゃなくなった」言葉を紡ぐたびに、胸が苦しくなる。
「俺は……彩乃さんを、ひとりの女性として見ています」沈黙が流れた。長い、長い沈黙。彩乃さんは、グラスをそっとテーブルに置くと、立ち上がった。そして、俺の前まで歩いてくる。
「蓮くん……」その瞳が、俺を捉え、雨音が、さらに強くなる。
「好きよ…」それは、囁くような告白だった。
「彩乃さん……」俺が手を伸ばすと、彼女もそっと手を重ねてくれた。その瞬間、もう何も迷いはなかった。
俺たちは、静かに唇を重ねた。それは、長い長い時間をかけて募った想いが、初めて触れ合った瞬間だった。
窓の外の雨は、止むことなく降り続いていた。
夜の静寂が、部屋を包み込んでいる。俺は彩乃さんの隣に座り、互いに寄り添っていた。心臓がまだ少し速く鼓動を刻んでいるのが、自分でもわかる。
「大丈夫…?」彩乃さんが、小さな声で尋ねた。俺は微笑み、彼女の手をそっと握る。
「はい」彼女も、少しだけ微笑んだ。しかし、その表情の奥には、まだ迷いが見え隠れしている。
「私たち…本当にこれでよかったのかな…まだわからないの。あの人が亡くなって、その弟と関係を持ってしまうって…」
その言葉に、俺は少しだけ胸が痛んだ。けれど、それは当然のことだとも思った。俺たちは、ただの男女ではない。
俺は亡くなった兄の弟で、彩乃さんはその兄の妻だった人。簡単に割り切れる関係ではない。
「正直に言うと、俺もまだ答えは見つかっていません」
「そうだよね」
「でもこれだけは、確かなんです」
「……なに?」
「俺は、彩乃さんのことを、本気で愛しています。」彩乃さんの瞳が揺れる。
「兄貴のことも、大切に思っています」
「……ええ」
「だからこそ、俺は中途半端な気持ちでは彩乃さんと向き合いません」彼女は息をのんだ。
「俺は、兄貴の代わりになろうとは思いません。でも、俺は俺として……彩乃さんを支えたい。」
「もし、今すぐに答えが出せないなら、それでもいい。ゆっくりでいいんです」彼女は、目を伏せた。
「ずるいわね。こんな答えを出さなきゃいけないときでも優しくしてくれるなんて…」
「そんなふうに言われたら、私は…もっと好きになってしまうじゃない」その言葉に、俺の心臓は跳ね上がった。
「私ね、ずっと一人で生きていくつもりだったの」
「そうなんですか?」
「ええ。でも、そこに蓮くんが来てくれた。暗闇の毎日を歩いていた時にあなたが来てくれて、私は救われていたのよ」
俺は、ただ彼女を見つめる。
「でも…こんな気持ちを抱き始めて葛藤したけどね……」彼女の目に、涙が浮かんでいた。
「私がこれからずっと蓮くんのそばにいたいと思ったら……それは、いけないことなのかな…?」
俺は、迷わずに答えた。
「いけないことなんかじゃない」彼女の手を、俺はしっかりと握りしめる。
「生きている俺たちは、幸せになる権利があるんです」
「……そうだね」
「俺は彩乃さんと、これからも一緒にいたいです。この先のことはゆっくり…」彼女は小さく頷き、寄り添うように身を寄せ、俺は彩乃さんの肩をそっと抱いた。雨が止み、静かな夜が訪れていた。俺たちの未来は、まだわからない。
けれど、たしかに今、俺たちは同じ気持ちで繋がっている。それだけで、十分だった。
YouTube
現在準備中です。しばらくお待ちください。