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一夜の関係

いつまでも若く純愛背徳
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一通のメールが届いた。 仕事を終え、いつものように缶ビールを開けた直後だった。

 何気なくスマホを手に取り、 送信者の名前を見た瞬間、手が止まった。

「田中恵子」 心臓が小さく跳ねる。指の動きが遅くなるのを自覚しながら、メールを開いた。

「主人は亡くなり、1周忌が過ぎました。よければまた、湯原温泉に行きませんか?」

 指先がわずかに震えた。この名前、この文章。4年前に時間を巻き戻すような錯覚を覚えさせる。

 あれから、もう4年が経つのか。俺はまだ独り身だ。4年間、彼女のことを忘れた日はなかった。

 けれど、彼女は人妻だった。だから連絡を取ることすらできなかった。それが今、彼女は自由の身になった。鼓動が速くなるのを感じながら、俺はスマホを持つ手を握り直した。送るべきか、送らざるべきか。だが、答えは決まっていた。俺は短く返信を打ち込む。「ぜひ、ご一緒したいです」 送信ボタンを押すと同時に、胸の奥に抑え込んでいた感情が静かに膨らみ始めるのを感じた。

 4年前、湯原温泉——。

 出張で岡山に来ていた俺は、その日の仕事を終えた後、宿泊先の温泉旅館にチェックインした。

 せっかくだからと少し贅沢をして、料理付きの宿を選んだ。夕食を堪能し、酔いが回った頃、宿の無料ラウンジに立ち寄ることにした。静かで、落ち着いた空間。年配の夫婦や一人旅らしき客がぽつぽつと座っている。その中で、ひときわ目を引く女性がいた。カウンターの端、脚を組み、グラスを持つその姿は、旅館の雰囲気とは少し違って見えた。

 長い黒髪に、透き通るような白い肌。和服の襟元からのぞく鎖骨が、妙に色っぽかった。

 ——綺麗な人だな。

 ただ、それだけの言葉が頭に浮かんだ。だが、俺は声をかけることもなく、少し離れた席に座り、軽く水割りを注文した。

 すると、不意にその女性がこちらを向いた。

「こんばんは、一人ですか?」ふいに声をかけられ、驚きながらも視線を合わせる。彼女の目は、酔いのせいかほんのりと潤んでいた。
「あ……ええ、そうです」あたふたしながら答えると、彼女は微笑んでグラスを傾けた。

「私も一人なんです。一緒に飲みませんか?」断る理由はなかった。むしろ、彼女の誘いに胸が高鳴る。

「……いいんですか?」「もちろん。せっかくの温泉旅行、少しでも楽しく過ごしたいですから」

 俺は席を移動し、彼女の隣に座った。ウイスキーの琥珀色が、グラスの中でゆらゆらと揺れる。

「俺、吉田です。仕事でこっちに来ていて、今日は泊まりです」

「田中恵子です。……気ままな一人旅、みたいなものですね」

 静かな声だったが、その響きにはどこか影があった。

「気ままな旅、いいですね。俺も、そういうのしたいですね」

「そうなんですか?」 彼女が軽く微笑む。その微笑みが美しすぎて、思わず言葉を失いそうになった。

「……いろいろあって」 適当にはぐらかしながらウイスキーを口に運ぶ。彼女もまた、グラスを傾けながらぽつりと呟いた。「私も、いろいろあって」「……よかったら、話して下さい」俺の言葉に、彼女は少し考えるようにグラスを見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。

「夫が入院しているんです」一瞬、飲みかけのウイスキーが喉に引っかかる。

「入院……?」「ええ。でもね、病気になる前は、よその女の所にいたからほとんど家に帰ってこなかったのよ」

 彼女はグラスを回しながら、乾いた笑みを浮かべた。「……散々遊んで、好き勝手やって、私をほったらかして……それが、先月急に帰ってきたの」「どうして?」「癌なんだって」

 淡々と語るその声の奥に、長年の寂しさや苦しみが滲んでいた。

「世話をして欲しいから戻ってきたのよ。……笑っちゃうでしょう?」

 彼女はそう言いながらも、決して笑ってはいなかった。その瞳には、押し殺した感情が渦巻いていた。

 俺もまた、ちょうど恋人に振られたばかりで、心がどこか沈んでいた。だからこそ、彼女の言葉が胸に響いた。

 ——寂しさを埋めるように、俺たちは酒を酌み交わした。気がつけば、すっかり酔っていた。

「ねえ……この後、部屋に来ない?」恵子の誘いに、俺は一瞬躊躇った。だが、すぐに頷く。彼女の部屋に足を踏み入れた瞬間、理性はかき消された。俺たちは求め合うように抱き合い、何度も唇を重ねた。お互いに傷つき、寂しさを抱えていたからこそ、余計に相手の存在が愛おしく感じられた。——気がつけば、朝だった。

「もう少し……一緒にいられない?」彼女の言葉に、俺は即座に宿泊延長を決めた。そして、俺たちはもう一泊、共に過ごすことになる。

二日目の朝、目を覚ますと、隣に恵子がいた。肩から布団をずらし、まだ微睡んでいる彼女の横顔を見つめる。 まるで、長年一緒にいた恋人のような気がした。けれど、そんなはずはない。この時間は、たった二日間だけのもの。彼女には、帰るべき場所があるのだから。

「……おはよう」薄く目を開けた恵子が、小さく微笑んだ。

「おはようございます」俺はその笑顔に目を奪われる。この二日間、何度も彼女の笑顔を見てきたが、それはどこか儚く、消えてしまいそうな微笑みだった。刻々と別れの時が近づいている。それを意識すると、胸が苦しくなった。

「ねえ……最後に、もう一度…」恵子の細い腕が、そっと俺の首に回される。俺は何も言わずに、その唇を塞いだ。彼女の体温を焼き付けるように、別れの苦しみを紛らわせるように、時間ギリギリまで、俺たちは求め合った。

 電車の時間が迫る中、俺たちは並んで駅へ向かった。改札を通ると、俺たちの行き先は逆方向だった。恵子は上りのホームへ、俺は下りのホームへ向かう。ホームに降りる直前、恵子が足を止めた。

「…また会えるかな…」彼女の声が、心に突き刺さる。俺も、口を開こうとしたが、何も言えなかった。俺たちの間には、たった二日間の思い出しかない。なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。電車が来る。彼女は、俺の顔をじっと見つめたまま、一歩ずつ後ずさるようにしてホームへ降りた。俺もまた、動かない足を無理やり引きずり、下りのホームへ向かった。

 振り返れば、そこに彼女がいる。せめて、もう一度、名前を呼びたかった。だけど、呼んでしまえば、どうしようもなくなりそうで。電車のドアが閉まり、俺の視界から、彼女が消えた。それが、俺たちの別れだった。

 

 4年ぶりの湯原温泉。ロビーに足を踏み入れ、彼女の姿を探す。あの時と、同じ光景。ふと、背後から静かな声がした。

「……お久しぶりです」 振り向くと、そこに恵子が立っていた。4年前と変わらない美しさ。だけど、どこか落ち着いた雰囲気を纏っている。そして、ほんの少し、疲れがにじんでいるのもわかった。俺は言葉を詰まらせたまま、彼女を見つめる。

「来てくれて、ありがとう」彼女が微笑む。その笑顔を見て、俺の中にあった不安が消えていく。

「……もちろん、来ますよ」そう言った瞬間、4年前の想いが溢れ出しそうになった。部屋へ向かうエレベーターの中、俺たちは言葉を交わさなかった。ただ、時折、恵子が俺の方を見ているのを感じた。部屋に入ると、静寂が訪れる。扉を閉めた瞬間、彼女は俺の方へ向き直り、まっすぐに見つめた。

「……あなたのおかげで乗り越えられたの…」彼女の瞳が潤む。

「僕もです」 俺は正直に言った。

「迷惑じゃなかった?…」言葉が詰まる。4年もの間、彼女が抱えていた葛藤が伝わってきた。俺は迷わず、彼女の手を取りそっと引き寄せると、彼女は身を任せるように俺の腕の中に入ってきた。静かに唇が重なる。4年分の想いを込めた、深いキスだった。恵子は、震える息を漏らしながら、俺の背中にそっと腕を回した。

「……4年間、ずっと夢に見ていたの」囁くような声が、俺の耳をくすぐる。お互いに求め合いながら、4年という歳月を埋めるように、何度も触れ合った。そして、そのまま夜が更けていった。

 翌朝、目を覚ますと、隣で眠る恵子の寝顔を見つめた。「……おはよう」 俺の視線に気づいたのか、彼女は微笑んだ。

「おはようございます」俺は彼女の手を握り、決意を込めた言葉を口にする。

「恵子さん。僕の所に来てくれませんか?」彼女は驚いた表情を見せた後、ゆっくりと涙を浮かべた。

「私なんかで良いの?…」「はい、僕はあなたとずっと一緒にいたい」彼女はしばらく黙った後、微笑んだ。

「……じゃあ40年ほど、お付き合いしてくれる?」俺は彼女の涙をそっと拭い、深く頷いた。俺たちは、今度こそ永遠に一緒にいることを誓った。

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