
俺は今田達也、38歳。
特に誇れるようなこともなく、平凡な会社員として日々をやり過ごしている。学生時代から地味で、女にモテた記憶もない。これといった趣味もなく、休日は適当にテレビを見たり、コンビニ弁当を食いながらビールを飲む程度。そんな退屈な日常の中で、唯一心がざわつく時間がある。
それは、隣に住む真衣とすれ違う瞬間だ。
朝、会社に向かう道すがら、真衣が家の前を掃き掃除していることがある。彼女は俺が通るたびに「おはようございます」とにこやかに挨拶してくれる。その柔らかい笑顔が俺の胸をかすかに締めつける。彼女は32歳。歳は少し離れているが、まるで女神みたいに美しい。
俺なんかとは住む世界が違う女だ。
それでも、あの穏やかな声を聞くだけで、俺の一日は少しだけ明るくなる。そんなある日、帰宅途中に真衣がしゃがみ込んでいるのを見かけた。道端にはいくつかの赤いリンゴが転がっている。どうやら買い物袋が破れてしまったらしい。彼女の手は小刻みに震えていて、顔を伏せている。
「大丈夫ですか?」俺がそう声をかけると、真衣はハッと顔を上げた。
「あ……すみません……」声がかすれていた。
俺は何も聞かずにリンゴを拾い集め、彼女に手渡した。真衣はかすかに微笑んで「ありがとう」と言ったが、その瞳はどこか潤んでいるように見えた。
俺は何も言えずに立ち尽くしていた。
「すみません、お手間かけてしまって……」
「いえ、大したことないですよ。あの……家まで荷物、運びますよ?」
俺がそう申し出ると、真衣は少し驚いたような顔をしたが、やがて「……お願いします」と小さく頷いた。
彼女の家に入るのは初めてだった。
案内されたリビングは、こぢんまりとしていながらも清潔感があった。
「よかったら、お礼に一緒にご飯でもどうですか?どうせ主人は帰ってこないので」
そう言われて断る理由なんてなかった。むしろ俺のほうが緊張していた。人妻の手料理を食べるなんて、初めての経験だったからだ。
食卓に並べられたのは、シンプルな和食だった。焼き魚に味噌汁、そしてさっきのリンゴを添えたサラダ。
「……すごく、美味しいです」
「よかった」彼女は微笑んでいたが、その笑顔がどこか寂しげに見えた。
夫はどうしたのか——そんな疑問が口をつきそうになったが、聞いていいものか迷っていると、彼女のほうからぽつりと話し出した。
「……半年以上、家に帰ってきてないんです」手にした箸を持ったまま、俺は言葉を失った。
「……どうして……?」
「浮気です。ずっと前から気づいてました。でも、見て見ぬふりをしてたんです。いつか戻ってきてくれるんじゃないかって……バカですよね?」彼女は微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「いつか帰ってくるかなって」俺の胸の奥で、何かがチリリと音を立てて燃えた。
「……許すつもり、なんですか?」
「……わからない」真衣はふっと目を伏せた。
俺は黙っていた。
いや、何か言いたかった。だけど、俺に何が言える? 彼女の夫でもなければ、彼女の恋人ですらない。ただの近所の男だ。それでも、彼女の寂しそうな横顔を見ると、どうしようもなく切なくなった。
「……何かあったら言ってくださいね。」気がつけば、そう口にしていた。
真衣は驚いたように俺を見つめ、それからふっと微笑んだ。
「……ありがとう」その夜、俺は布団の中で何度も彼女のことを思い出していた。
真衣の柔らかな微笑み、潤んだ瞳、そして寂しげな横顔。彼女が俺のことをどんな風に見ているのかなんてわからない。けれど、少なくともさっきは、同じ時間を過ごしていた。
——それだけで、十分だった。だが、それはただの始まりに過ぎなかった。
次の日から、たまに彼女の家に招かれるようになった。
「よかったら、また夕食、一緒にどうですか?」その誘いに、俺は何度も頷いた。
彼女の作る料理を食べながら、他愛もない話をする。
仕事の愚痴を言い合ったり、昔の思い出を語ったり、時には一緒にテレビを見て笑ったり——そんな時間がただ、心地よかった。
けれど、それが甘い幻想でしかないことに、俺はまだ気づいていなかった。
ある夜、酔った真衣が俺に寄りかかるように座った。
「達也さん……私」かすれた声が耳元に落ちる。
俺は体が強張るのを感じた。
「……真衣さん」俺の名前を呼ぶその声が、あまりにも熱っぽくて。
気がつけば、俺は彼女の肩を引き寄せていた。
唇が重なる瞬間、彼女はふっと息を呑み、瞳を閉じた。
俺はもう、後戻りできないと悟った。
そして——禁断の一線を、越えてしまった。
彼女の唇は驚くほど柔らかかった。
触れた瞬間、全身に電流が走るような感覚が広がり、俺は理性を失いかけた。
真衣も、拒むことはしなかった。
むしろ俺の背中にそっと手を回し、わずかに震える指先で俺を引き寄せる。
「……本当に、いいんですか?」俺の問いかけに、彼女は静かに頷いた。
「……達也さんなら…」その言葉を聞いた瞬間、俺はもう止まれなくなった。
彼女をそっと押し倒し、ふわりと広がる髪を指先で撫でる。
そのまま深く唇を重ねると、彼女の小さな息遣いが俺の鼓膜をくすぐった。
触れるたびに、真衣の身体が震える。
その姿がたまらなく愛おしくて、俺はただひたすら夢中で彼女を求めた。
気がつけば、夜が明けていた。
俺の腕の中で、彼女は安らかな寝息を立てている。
乱れた髪をそっと撫でながら、俺はこの瞬間をずっと続かせたいと思った。
けれど、現実は甘くない。
ふと、彼女が今も籍を入れている“誰かの妻”だという事実が、俺の胸に重くのしかかる。
——このままでいいのか?俺は彼女を壊してしまうのではないか?
そんな不安を振り払おうとした矢先、寝室の扉が乱暴に開かれた。
「——真衣!!!」その怒鳴り声に、俺は反射的に彼女を庇った。
そこに立っていたのは、見たことのない男—。彼女の夫だった。
「……お前、こんな男と……何やってんだよ!!」夫は顔を真っ赤にして、まっすぐ俺に向かってきた。
「……帰れよ」俺はできる限り冷静に言った。
「ふざけんな!お前が帰れ!!俺の嫁に何してんだよ!!」そう叫ぶと、夫は俺に掴みかかってきた。
「——やめて!!」真衣の悲鳴が響く。
だけど、夫は止まらない。
「このクソ女が……俺を裏切りやがって!!」夫の手が振り上げられる。
俺はとっさに彼女を庇い、その拳を受け止めた。
「お前……!!」殴りかかろうとする夫を、俺は全力で押し返す。
「いい加減にしろ!!」怒鳴ったのは俺だった。
「半年も家に帰らなかったくせに、今さら何の権利があるんだよ!!」
「うるせえ!!関係ねえだろ!!」
「関係ないわけないだろ!!真衣さんがどんな思いでここにいたか、お前にわかるのか!?」
俺の言葉に、夫は一瞬だけたじろいだ。
「……こんなやつのどこがいいんだよ、真衣!!」
「……あなたとは、もう終わったの。」真衣の声は、驚くほど冷たかった。
「私は、達也さんと一緒にいたい。預かってた離婚届も先週には出したから」その言葉に、夫の顔がみるみるうちに歪んでいく。
「……ふざけんな!!」再び拳を振り上げようとする夫。
だが、その瞬間
スマホから声が聞こえてきた。夫は動きを止める。
「……事件ですか…事故ですか?」真衣が震える手でスマホを握っていた。
「もう……私の前から消えて」夫は何かを言おうとしたが、すぐに口をつぐんだ。
そのまま、舌打ちをひとつ残し、玄関から飛び出していった。
警察には経緯を話し丁寧に謝った。嵐が去った後のように、静寂が訪れる。
俺は息を吐き、真衣をそっと抱き寄せた。
「……大丈夫ですか?」彼女は、小さく頷いた。
そして、俺の胸に顔を埋め、かすれた声で言った。
「……怖かった」
「もう、大丈夫です」俺は彼女を強く抱きしめた。
この先、どんな困難があっても、俺はこの人を守る。
その決意が、俺の胸の奥に静かに灯った。もう、彼女を一人にはしない。
俺たちは、ゆっくりと未来へ歩き出す。それがどんな道であろうとも。
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