
私は本多美奈、38歳。もうすぐ40になる。
最近、その事実が重くのしかかるようになった。若い頃は、特に何も思わなかった。仕事に打ち込んで、趣味を楽しんで、それなりに充実した日々を過ごしていた。結婚なんて、縁があればするものだと、どこか他人事のように考えていたし、一人でも楽しいと思っていた。
けれど、ふとした瞬間に思う。私はこのまま一人で年を取っていくのだろうか、と。
休日の午後、カフェの窓際でコーヒーを飲みながら外を眺めていると、若いカップルが寄り添いながら歩いているのが見えた。手を繋ぎ、笑い合い、当たり前のように並んで歩く姿。その隣を、子ども連れの夫婦が通り過ぎる。小さな子どもが母親の手を引いて、父親が荷物を抱えながら歩いていた。別に羨ましいわけではない。でも、どうしてか心の奥がざわつく。私はこれまで、誰かとこうして並んで歩くことも、手を繋ぐことも、そういう時間を過ごしたことがない。そう思うと、胸の奥が少し痛んでいた。
私は男性と付き合ったことがない。恋愛に興味がなかったわけではない。むしろ、誰かと深く結びつくことには憧れていた。けれど、実際にそういう場面になったことがない。男性と親しく話したことさえ、ほとんどなかった。社会人になっても女性の多い職場だった。だから、異性と接する機会がそもそも少なかったし、いつの間にか、男性に対して漠然とした怖さを感じるようになっていた。
手を繋ぐことはもちろん、隣に座るだけでも、少し緊張してしまう。ましてや、それ以上のことなんて、考えたこともなかった。ただ、一度だけ、私は誰かと付き合ったことがある。それは女性だった。
仕事を始めたばかりの頃、職場の同僚だった彼女と親しくなり、自然とそういう関係になった。お互いに恋愛経験がなかったからか、ぎこちないものだったけれど、それなりに心地よい時間だった。けれど、深い関係にはならなかった。キスをしただけで、私はそれ以上に進むことができなかった。彼女の体温が、思っていたよりも熱く感じて、どうしてか怖くなった。
それからしばらくして、私たちは自然と距離を置くようになり、気づけば会うこともなくなっていた。あれから十年以上が経つ。私は相変わらず、誰とも深く関わることなく生きてきた。そんなある日、偶然にも、その彼女——茉莉と再会した。
久しぶりに会った茉莉は、変わらず落ち着いた雰囲気だった。でも、薬指に光る指輪を見たとき、思わず目を見開いた。
結婚したの? そう尋ねると、彼女は穏やかに微笑んだ。
二年前にね、と茉莉は言った。驚いた。彼女は、ずっと女性が好きだと言っていたのに。それなのに、なぜ結婚を? そう思ったが、口には出せなかった。
彼女は「夫は中性的な人でね」と話し始めた。女性のように優しくて、穏やかで、無理に距離を詰めてこない人。だから、安心できるのだと。もちろん、体の関係もあるけれど、それが嫌だと思ったことは一度もない。そう言って、彼女は少し照れくさそうに笑った。その表情は、私がかつて知っていた茉莉とは違っていた。
私は、何も言えなかった。嬉しい気持ちと、寂しい気持ち。二つの感情が胸の中で入り混じって、どう表現していいかわからなかった。
私たちは久しぶりに再会して、いろんな話をした。仕事のこと、日々の暮らしのこと、そして、結婚のこと。
そして、彼女が何気なく言った言葉が、私の心に引っかかった。
「美奈も、そろそろ考えてみたら?」その言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
私は、本当にこのままでいいのだろうか。このまま、誰とも深く関わることなく、ただ年を重ねていくのだろうか。
そして、気づけば、婚活アプリの登録画面を開いていた。
どんな相手がいるのか、全く想像がつかなかった。でも、私はもう38歳。何かを変えるなら、今しかないような気がした。
アプリに登録してから数日後、私は初めて婚活相手と会うことになった。
メッセージのやり取りはあったが、正直なところ、どんな人なのかまったく分からなかった。画面越しの言葉だけでは、その人の空気感や話し方は伝わらない。待ち合わせのカフェに向かう途中、私は何度も深呼吸をした。うまく話せるだろうか。相手に変な印象を持たれたらどうしよう。何を話せばいいのか分からない。そんな不安ばかりが頭をよぎる。
約束の時間を少し過ぎた頃、スマホの通知音が鳴った。
「もうすぐ着きます」画面を見て、息を呑む。
数分後、店の扉が開く音がして、スーツ姿の男性が入ってきた。
「本多さんですか?」私はぎこちなく頷いた。
最初の印象は、悪くはなかった。清潔感があって、穏やかそうな顔つきだった。でも、席に着いてすぐに、その印象は少しずつ変わっていった。彼はとにかく、距離が近い。
注文を終えた途端、身を乗り出すようにして話しかけてきた。
「思ってたより可愛らしいですね」その言葉に、私は戸惑った。
そういうことを言われ慣れていないせいか、褒め言葉なのにどこか居心地が悪かった。
彼は続けざまに、自分の仕事の話や、趣味の話をし始めた。私は相槌を打ちながら聞いていたが、気づけば、ほとんどの会話が彼の話ばかりになっていた。
「——それでさ、この前の商談がめちゃくちゃ上手くいってさ!」盛り上がっているのは彼だけだった。私は笑顔を作りながらも、だんだん疲れてきた。私のことを知ろうとする気はないのだろうか。私の話を聞こうとは思わないのだろうか。
彼の話が一区切りついたところで、私はなんとか話題を変えようとした。
「えっと……お仕事、すごく頑張ってるんですね。休日はどんな風に過ごしているんですか?」彼は一瞬考えて、それから笑顔で言った。
「飲み歩くのが好きなんですよ。あと、合コンとかもたまに行きますね」私は、それを聞いて、心の中でそっとため息をついた。
会話は弾まなかった。
——やっぱり、無理かもしれない。婚活をすれば、自然にいい出会いがあると思っていた。でも、現実はそんなに甘くなかった。
それからも、何人かと会った。初対面なのにいきなり手を握ってきた人。終始スマホをいじっていた人。こちらが話しているのに、興味なさそうに頷くだけの人。どの人とも、二回目の約束をする気にはなれなかった。やっぱり私は、男性が怖い。
積極的に距離を詰められると、身体が強張る。馴れ馴れしくされると、息苦しくなる。どうして、みんなこんなに簡単に踏み込んでこられるのだろう。婚活を始める前よりも、自信を失っていた。
何度も、茉莉に電話をした。
「もう、やめようかな……」そう言うたびに、彼女は優しく励ましてくれた。
「もう少しだけ、頑張ってみたら?」その言葉に支えられて、私はもう一度だけ、違う方法を試してみることにした。
結婚相談所に登録したのだ。アプリのように気軽なものではなく、相手の身元がはっきりしているぶん、少しは安心できるかもしれない。
数日後、相談所の担当者から連絡があった。
「あなたに合いそうな方がいますよ」紹介されたのは、丸尾雄太郎、35歳。写真を見せられたとき、私は少し驚いた。
どこか頼りなさげな雰囲気だったが、ちゃんとしたスーツを着ていて、清潔感はあった。
「公務員の方です」条件は悪くない。でも、どうして結婚相談所に?
その理由は、すぐに分かった。実際に会ってみると、彼は驚くほど無口だった。
待ち合わせのカフェに現れた雄太郎さんは、落ち着きがない様子で、私と目が合うたびに視線をそらした。
「えっと……よろしくお願いします」そう言ったきり、黙り込む。
どうしよう。何か話題を振らないと。
「趣味とか、ありますか?」「……読書、です」
「どんな本を?」会話が続かない。質問をすれば答えるけれど、それ以上の言葉が出てこない。
私が話しかけないと、彼はまったく話さないのではないか。そう思っていたら、いつの間にか、まるで私が尋問しているような形になっていた。私は、なんだか可笑しくなってしまった。
すると、彼は驚いたように顔を上げた。
「……どうしました?」真面目な顔で聞いてくるのが、さらにおかしかった。私は、堪えきれずに笑ってしまった。
彼は、少し困ったようにオロオロとしていた。男性と会って、こんな風に笑ったのは初めてかもしれない。
帰り際、私は思い切って聞いてみた。
「もう一度、会ってくれますか?」彼は、慌てたように大きな声で答えた。
「は、はい!」周りの人が驚いて振り返るほどの声だった。
私は、また笑った。この人なら、もしかしたら——。
そんな予感が、心の片隅にあった。それから、何度か雄太郎さんと会うようになった。
最初の頃は、会話がぎこちなかった。彼は本当に無口な人で、私が話題を振らなければ、ほとんど喋らない。でも、だからこそ、一つひとつの言葉を大切にしているようにも感じた。
食事をしていても、彼はほとんど私の話を聞いているだけだった。でも、ふとした瞬間に「それって、前に言ってた趣味の話ですか?」と、以前の会話を覚えていることがあった。それが、妙に嬉しかった。
過去に婚活アプリで会った男性たちは、みんな自分のことばかり話していた。私がどんな人間なのか、知ろうともしなかった。
でも、雄太郎さんは違った。彼は多くを語らないけれど、私の話をちゃんと聞いてくれていた。
彼と何度か食事をするうちに、少しずつ、私の中の緊張も解けていった。彼の静かな佇まいが、私には心地よかった。
それに気づいたのは、ある雨の日だった。仕事が終わる頃には、外は土砂降りになっていた。傘を持ってこなかった私は、仕方なく、濡れる覚悟で外に出ようとした。
すると、スマホにメッセージが届いた。
「駅前で待っています」それは、雄太郎さんからだった。
急いで外に出ると、彼が傘を差して待っていた。
「えっ、どうして……?」驚く私に、彼は静かに傘を差し出した。
「……濡れちゃいますよ」そう言って、無言で私の荷物を持とうとする。私は、言葉が出なかった。
こんなことをしてくれた人は、今までいなかった。誰かが自分のために、こうして待っていてくれるなんて。
私は、少しだけ涙が出そうになった。それから、彼と過ごす時間が増えていった。
カフェでお茶をしたり、美術館に行ったり、静かな公園を散歩したり。どれも特別なことではなかったけれど、彼と一緒にいると、不思議と落ち着いた気持ちになれた。ある日、私はふと思った。
——この人となら、ずっと一緒にいられるかもしれない。
彼は口下手だったけれど、その分、行動で気持ちを伝えてくれる人だった。
歩いているとき、自然に車道側を歩いてくれたり、飲み物のストローを何気なく私のほうに向けてくれたり。そんな小さな優しさが、少しずつ私の心を満たしていった。ある夜、私は彼に聞いた。
「雄太郎さんは、どうして婚活を始めたんですか?」彼はしばらく黙っていた。それから、小さな声で答えた。
「……一人でいるのに、慣れすぎてしまって」彼の言葉が、妙に胸に響いた。
「僕は、両親がいません。子どもの頃、事故で亡くなって、それからずっと祖父母に育ててもらいました」私は、息を呑んだ。
「だから、ずっと一人でいるのが普通だったんです。でも、祖父母ももう高齢で……いつか、本当に一人になるんだなって思ったら、少しだけ怖くなりました」
彼は、淡々と話していた。でも、その静かな言葉の裏にある孤独が、痛いほど伝わってきた。私は、彼の言葉を胸の中で何度も反芻した。
——一人でいるのに、慣れすぎてしまって。私も、同じだった。
私はずっと、誰とも深く関わることなく生きてきた。それが普通だった。でも、普通だと思っていたものが、実はただの「寂しさ」だったのかもしれない。
「……私も、一人でいるのに、慣れすぎてしまったんです」その言葉に、彼は驚いたように私を見た。でも、すぐに、少しだけ笑った。
それから数日後、
「……今度、旅行に行きませんか?」私は、一瞬、息を呑んだ。
男性と二人きりで旅行に行くなんて、生まれて初めてのことだった。でも、彼となら大丈夫かもしれない。そう思えた。
「行ってみたいです」それが、私にとって大きな一歩だった。
旅行当日、私は朝から緊張していた。何を着て行こうか迷い、準備をしながらも、ずっと落ち着かなかった。
駅で待ち合わせると、彼は少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「……大丈夫ですか?」彼のそんな一言が、私の心を少し和らげた。
電車の中で、私たちはゆっくり話をした。
いつものように、彼は多くを語らないけど、私の話をちゃんと聞いてくれている。
温泉旅館に着くと、私たちは荷物を部屋に置き、温泉街を歩いた。昔ながらの街並みを眺めながら、私はふと思った。
——誰かとこうして旅行をするのって、こんなに楽しいんだ。小さな土産物屋を覗いたり、お互いに似合いそうなものを選び合ったり。そんな些細な時間が、胸の奥を温かくしていった。
夕食は、部屋での豪華な会席料理だった。日本酒を少しだけ飲んで、彼とゆっくり話をした。
夜が更けて、私はふと気づいた。
——このまま、同じ部屋で寝るのか。その事実に、改めて緊張していた。布団が二組並んで敷かれているのを見て、私はどうしたらいいのか分からなかった。
そのとき、彼が突然、正座をした。
「……美奈さん」彼の声は、いつもより少しだけ震えていた。
「僕は……女性と付き合ったことがありません」彼は、静かに続けた。
「だから、うまくリードもできないと思います」私は、その言葉を聞いて、彼の前に正座をした。
「……私も、男性と付き合ったことがありません」彼は驚いたように私を見た。
「だから……今も、怖いです」私は、小さな声でそう言った。
彼は、そっと私の手を引き私を抱きしめました。その瞬間、私は彼の鼓動を感じた。
ドクドクドクドクとものすごく速く、激しく鳴っていた。それを聞いたとき私は、思わず微笑んでしまった。
「私の心臓も、一緒ですよ」そう言って、私は彼の手を取り自分の胸に当てた。
彼は驚いたように目を見開いていた。でも、次の瞬間、小さく笑った。
そして、その夜、私は初めて、誰かに抱かれた。彼は拙かったけど、とても優しかった。
私は、ただその温もりに身を委ねるだけで良かった。旅行は二人にとって大人になった瞬間だった。
旅行から戻った後も、私たちは変わらず定期的に会い続けた。彼と一緒にいる時間は、言葉がなくても心が落ち着く。そんな関係だった。
そんなある日、
「祖父母に会ってほしいんだ」そう言われて、私は少し驚いた。
彼にとって、両親を亡くした後に育ててくれた祖父母は家族そのものなのだろう。私は少し緊張しながらも、彼の実家へ向かった。
古いけれど、温かみのある家だった。玄関を開けると、おじいさんとおばあさんが優しい笑顔で迎えてくれた。
「はじめまして、本多美奈と申します。お付き合いさせていただいています」そう挨拶した瞬間——
「じいちゃん、ばあちゃん!僕、美奈さんと結婚するから!」彼は、突然、そう言い放った。
「……え?」私が思わず振り向くと、彼は「しまった」という顔をして口を押さえた。
おじいさんとおばあさんも「え? え?」と戸惑っている。
私は一瞬、言葉を失った。でも、彼の顔を見ると、なんだか可笑しくなってしまって、クスクスと笑ってしまった。
「すみません。順番を間違えました……」彼は真っ赤になりながら、私の正面に座り直し、深呼吸をした。そして、真剣な眼差しで私を見つめ——
「美奈さん。僕と結婚してください」おじいさんとおばあさんが、目を丸くしながらも、嬉しそうに見守っている。
なんだか、私は心の底から笑えてきた。
「……はい」そう答えると、おばあさんが目をうるませ、おじいさんは「よかったのう……」と涙を拭いていた。
この人となら、大丈夫。この人となら、私も変われる。
彼は特別にロマンチックな人ではないし、口下手で不器用なところも多い。でも、それでも私は、彼の隣にいると安心できた。
隣に彼がいることが当たり前になった。
仕事に行く前に「いってらっしゃい」と言ってくれる人がいる生活。帰宅すると「おかえり」と迎えてくれる人がいる毎日。
それが、どれほど温かいものなのかを、私は初めて知った。
特別なことは何もなくても、一緒に過ごす時間が何よりも幸せだった。
私は、この人となら、きっとどんな未来も温かいものになる、心からそう思っていた。
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