月明かりが静かに広がる部屋の中で、時間だけがゆっくりと流れていた。彼の手が私の頬に触れ、指先が耳元をかすめた瞬間、すべての音が消えたような気がした。肌に伝わるその微かな熱が、私の心臓を一気に鼓動させる。
「明美さん……」彼が私の名前を呼んだ声は驚くほど穏やかで、それでいてどこか苦しげだった。夜風がカーテンを揺らし、私たちを包むような静けさの中で、彼の瞳が私をじっと見つめていた。
「……こんなこと、本当にいいの?」声に出した途端、自分がどれだけ震えているのかがわかった。自分の問いかけに答えられるわけもないのに、胸が締めつけられるような不安を隠せないまま、彼を見上げた。誠也くんは少しだけ眉を寄せると、それでも微笑んだ。その笑顔があまりにも優しくて、私の中の罪悪感と幸福感を同時にかき乱していく。
「僕にはもう……これ以上、何も考えられません。ずっと明美さんだけを見てきました。」
その言葉が、私の中にあった最後の防波堤を音もなく壊していった。目を閉じることもできないまま、彼の唇が私の唇に触れた。その瞬間、胸の奥で何かが爆発するように弾け、抑えきれない熱が体の奥から溢れ出してくる。彼がそっと名前を呼ぶだけで、私の全身がその声に応えるように震えるのがわかった。こんなにも彼を求めていたなんて、こんなにも彼を愛してしまっていたなんて……。気づくのが遅すぎた。
私は清田明美、38歳。結婚式場「ラ・フローレ」で働いている。この式場は、友人でもあり先輩でもある大西ひろ子さんが経営する華やかな場所だ。多くのカップルたちが幸せそうに式を挙げる姿を見ながら、私はここで働く日々を送っている。
「明美さんはこんなに綺麗なのにどうしていい人が現れないのかなぁ。」ひろ子さんが明るく笑いながら言うその言葉に、私はどう答えたらいいのかわからなかった。
「そうね……男性にご縁が無いのかなぁ。」冗談めかして答えると、ひろ子さんは少しだけ眉を寄せた。
「そんなこと言わないでよ。ほら、誠也だっていい歳なんだし、あんたたちなんてどう?」
「ええ?ひろ子さん?」思わず声を上げると、ひろ子さんは「冗談よ、冗談!」と手を振りながら笑った。その明るい笑顔を見るたび、私の胸の奥に秘めた感情が疼く。
ひろ子さんには18歳の時に産んだ息子、誠也くんがいる。現在26歳。彼は大学を卒業したあと、一度大手企業に就職したものの、家業を手伝うために戻ってきた。そして今では「ラ・フローレ」の運営に携わる若手スタッフとして、式場に欠かせない存在になっている。背が高く、端正な顔立ち。それだけではなく、誰にでも優しく、気遣いを忘れない彼の姿は、多くの人に慕われていた。だけど私にとって、彼はそれだけではない存在だ。初めて彼と一緒に仕事をしたとき、私はなぜか胸がざわついた。特別な理由なんてなかったはずなのに、彼が新郎新婦に向けて微笑むたび、まるで自分がその笑顔を独り占めしているかのような錯覚に陥った。
ある日のことだった。私が新郎新婦の控室で最後の仕上げをしていると、誠也くんがふいに現れた。
「明美さん、何か手伝いましょうか?」
「大丈夫よ、一人でできるから。」そう答えたものの、彼は控えめな笑みを浮かべて、そのまま私のそばに腰を下ろした。
「そんなこと言わずに。僕もこの仕事、少しは覚えないと。」そう言いながら、彼は器用な手つきで小物を整えていく。その指先が私の手に軽く触れるたび、私は胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
「本当に、いつもお疲れさまです。」彼がふいにそう言った。その言葉に込められた優しさが、私の中で静かに波紋を広げていく。
その日の夜、ひろ子さんの家で開かれたスタッフのパーティー。賑やかな笑い声が響く中、私はひとり静かにグラスを傾けていた。楽しそうなひろ子さんの姿を見ながら、ふと視線を感じて振り向くと、そこに誠也くんがいた。
「外、少し寒いですよね。」彼は微笑んで言った。その言葉に頷くと、私たちは何気なく庭へと出た。夜風が肌を撫で、冷たさが心地よく感じられる。
「明美さん。」彼の声に振り返ると、誠也くんはいつもの穏やかな表情ではなく、どこか真剣な瞳で私を見つめていた。
「僕……ずっと明美さんのことが好きでした。」その一言が、私の胸を深く突き刺した。
「でも……私は……。」言葉がうまく出てこない。胸が張り裂けそうで、けれど逃げ出すこともできない。彼を見つめると、彼の瞳の中には揺るぎない感情が宿っていた。
その夜、私たちは背徳感と幸福感の狭間で、一線を越えてしまった。彼の温もりに包まれるたび、孤独や虚しさが消えていくようだった。けれど、それが長く続くものではないことを、私たちは知っていた。
「僕、転勤することになりました。」その一言で、すべてが関係が終わることを悟った。私たちの関係に未来はない。初めからわかっていたはずなのに、胸が引き裂かれるような痛みに襲われる。
「そう……なの。」ただそれだけ言うのが精一杯だった。
「明美さんと過ごした時間は、僕にとって大切な宝物です。」
彼の言葉は優しく、誠実で、そして残酷だった。私は何も言えず、ただ微笑むふりをするだけだった。この恋が、どれだけ大きな間違いだったとしても、それでも心の奥底で失いたくないと思ってしまう自分が、ひどく情けなかった。歳の差、友人の息子、禁断の関係…。すべてが私たちを引き裂く理由だった。それをわかっていながら、私は彼を愛してしまった。そして、それが私の罪だ。
「……幸せになってね。」最後にそう言葉を絞り出し、私は彼に背を向けた。振り返れば、きっと彼の姿に縋りついてしまう。だから、私は振り返らなかった。
夜の窓辺に差し込む月明かりを見つめながら、私は静かに目を閉じた。彼との日々は終わった。それでも、この胸の奥に残る罪と、愛しさが消えることはないだろう。
背徳感に苛まれながら、それでも彼を想わずにはいられない。そんな自分が苦しくて、悲しくて、どうしようもなく寂しい。夜風が窓を揺らし、月明かりだけが静かに私を照らしていた。