妻がいない静かな家に、俺は新たな影を招き入れた。無意識に。それが背徳の始まりだと、自分でも気づかぬままに。
俺の名前は和彦、もうすぐ50歳になる平凡な会社員だ。
妻の美沙とは長年連れ添い、穏やかな日々を過ごしてきた。二人の関係は今でも悪くはない。家族としてお互いに支え合い、日々の喧騒を分かち合っている。
そんな平穏な日常が揺らいだのは、美沙が散歩中に足を骨折し、1ヶ月間の入院を余儀なくされた時のことだ。突然家事をこなさなければならなくなった俺は、たったの3日で仕事と家事の両立に疲れ、途方に暮れていた。
そんな俺を助けてくれたのが、美沙の妹、真由美だった。彼女は歳の離れた妹で、姉の入院を心配して見舞いに訪れた。真由美は夫との関係がうまくいっていないと聞いていたが、俺はそれ以上詮索することはなかった。
「和彦さん、大変でしょ?姉さんも心配だけど、和彦さんも無理しないでね。私、少しでも手伝えることがあれば言ってね。」
「ほんと?この人、家事全然できないから助けてあげてくれない?」と美沙が笑って言う。俺は苦笑いするしかなかったが、その言葉をきっかけに、翌日から真由美が家事全般を手伝ってくれることになった。
真由美の言葉は優しく、申し出はあまりにもありがたかった。彼女は毎日俺の家に来て、料理を作ったり掃除をしたりしてくれた。何より、誰かが家にいるというだけで、俺の心はどこか癒されていった。
「和彦さん、本当にありがとう。私、こんなに誰かに感謝されること、最近なかったから…すごく嬉しい。」
夕食を囲むたびに、お礼を言うのはこちらの方なのに、逆に何度もお礼を言ってくれた。彼女は夫との関係が冷え切っていて、ケンカも絶えないと言っていた。
そんな中、俺が感謝の気持ちを伝えるたびに、彼女はいつも以上に嬉しそうな笑顔を見せた。それがすごく新鮮だったようだ。美沙とは違う、控えめで少し不器用なその笑顔が、次第に俺の心を締めつけるようになった。
ある日、帰宅が遅くなった俺がリビングに入ると、真由美はソファで眠っていた。テレビの光が彼女の顔を照らし、疲れ切った表情が浮かび上がっていた。俺はそっとブランケットをかけようとしたが、その瞬間、真由美が目を覚ました。
「あ、ごめんなさい。待ってるつもりが寝ちゃって…」
「家の方は大丈夫なの?無理しなくていいんだよ。いつも助けてくれてありがとう。」
「あの人は、私がいなくても何も気にしていないから…多分今日も帰ってこないんじゃないかな…」
彼女は物悲しそうな表情のまま微笑み、俺の顔をじっと見つめた。その瞳には、不安と感謝、そして何か言いたげな感情が混ざり合っていた。
「和彦さんはどうしてそんなに優しいんですか。夫は、いつも私のこと見てくれなくて…姉さんが羨ましいな。」
その言葉に、俺の胸が大きく揺さぶられた。美沙とは平穏な関係を保っているが、感謝や労いの言葉をかけられることはほとんどなかった。
そんな中で、真由美の存在が俺の心にどんどん入り込んできたのだ。美沙がいない家で、俺は孤独だったのかもしれない。それを埋めてくれたのが真由美だった。
翌日、真由美はいつものように夕食を準備してくれていた。料理の手際の良さに目を奪われ、ふと彼女の横顔に見惚れてしまう自分がいた。
エプロン姿で料理をする彼女の後ろ姿に、どこか家庭的な温もりを感じ、俺は心が安らぐのを感じた。そんな俺に気づいたのか、真由美は照れたように笑った。
「どうしました?何か変なことしました?」
「いや、なんでもないよ。ただ、君がいてくれて良かったなって…思っただけ。」
真由美は少し驚いたように目を見開いた後、頬を赤く染めて俯いた。その仕草が美しく、俺の中に隠していた感情が不意に顔を出した気がした。これ以上は踏み込んではいけないと頭ではわかっているのに、気持ちは抑えられなかった。
「私も…和彦さんがいてくれて良かったです。心が安らぐので…」
その日から、俺たちの距離はさらに縮まった。真由美は俺に頼り、俺もまた彼女に依存するようになった。ある夜、ワインを飲みながらリビングで二人きりの時間を過ごしていた時、真由美がぽつりと呟いた。
「和彦さん、私…和彦さんといると安心するんです。夫とはまったく私のことを見てくれないけど、和彦さんだけは私をちゃんと見ていてくれるから…」
彼女の言葉に、俺は何も言えなかった。背徳感と罪悪感が胸をかき乱す一方で、真由美の存在がどれほど自分にとって大切になっているのかを痛感した。
「俺もだよ、真由美ちゃん。君がいてくれて、本当に良かったんだ。」
俺たちは自然と近づき、距離を取ることができなかった。真由美の指先が、そっと俺の手に触れた。その瞬間、頭の中で何かが弾ける音がした。
これは間違いだと分かっている。だが、その温もりに縋りたいという自分がいる。真由美もまた、何かに怯えたように俺を見上げ、言葉を紡ごうとして、やめた。
「和彦さん…もう少し、このままでいさせてください。」
その一言が、俺たちを背徳の底へと引きずり込んだ。罪の意識が頭をもたげるが、俺はそれでもこの手を離すことは出来なかった。
その夜、俺たちはついに一線を越えた。背徳感に苛まれながらも、俺は彼女の温もりを離すことができなかった。それから妻がいない1ヶ月の間、狂ったかのように俺たちは何度も過ちを重ねた。
その度に互いを必要とし、抜け出せない迷宮へと足を踏み入れていった。俺たちの罪は深く、日に日にその重みが増していった。
妻が退院して帰ってくる日、真由美は静かに荷物をまとめ、俺に別れを告げた。彼女の手が微かに震えているのを見て、俺は彼女の中にも同じ罪の意識が渦巻いていることを悟った。
「和彦さん、ありがとう。姉さんをよろしくお願いします。私、ここを離れるけど、あなたのこと忘れません。」
俺は何も言えず、ただ彼女の背中を見送った。窓の外から見える夕暮れが、真由美の影を長く引き伸ばし、やがて闇に飲まれて消えていった。
美沙を迎えに行き、家は再び平穏を取り戻したが、俺の心には真由美との背徳的な記憶が焼き付いていた。妻のいる日常に戻ったはずなのに、俺たちの罪は消えず、影となって心に居座り続けた。
真由美の面影は、夕暮れの光に溶けて消えたはずだったが、俺の心からは決して離れなかった。窓の外に広がる景色は、ただ淡々と過ぎていく日常を映し出す。
だが、その静けさの中に潜む罪の痕跡が、俺を静かに蝕んでいる。誰にも知られない禁じられた恋。その後悔と切なさが、俺たちを静かに締めつけ、背徳感の鎖から逃れることはできなかった。
真由美と交わした罪の記憶は、決して癒えることのない影となり、俺の心に重くのしかかったままだった。