僕の名前は平田祐樹。娘と妻・由美と共に、平穏でささやかな家庭を築いていた。休日には家族で出かけ、夜にはささやかな会話を交わす、そんな何気ない日々が、僕にとっての「幸せ」だった。だが、あの日、すべてが音を立てて崩れ去ることになった。
それは、どんよりとした灰色の空が広がり、冷たい雨が降りしきる夜のこと。学生時代からの友人・武史から、突然久しぶりに電話がかかってきた。彼の声には、いつもと違う不自然な緊張感が滲んでいた。
「なあ、祐樹……。今夜、少し話せるか?」
まるで緊急事態でも告げるような重たい口調だった。嫌な予感がした。久々に会う武史は、しばらく口ごもっていたが、やがて意を決したように言った。
「お前の奥さん、由美さん浮気してるぞ。しかも相手は、俺の同僚の斎藤健介って男だよ。」
その言葉が耳に入った瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。目の前の世界が急に遠くなり、武史の言葉が水の中を通って聞こえるようかのようにぼんやりと聞こえた。信じられない。いや、信じたくない。僕は何度も聞き返したい衝動を押さえ込みながら、必死に冷静を装った。
「……どうしてそんなことを知ってるんだ?」
震える声を絞り出すと、武史は申し訳なさそうに答えた。「俺も、偶然知ったんだ。お前のために言うべきか迷ったけど、黙っているわけにはいかなくて……」
友人の誠意は痛いほど伝わってきた。けれど、その事実をどうしても受け入れられなかった。長年寄り添ってきた妻が、他の男と…しかも、僕の友人の同僚と裏で密会していたなんて。
その夜、家に帰ると、何もかもが違って見えた。リビングのソファ、キッチンに立つ由美の姿、娘の笑顔……どれもが、無数の裂け目から崩れていくように思えた。僕は迷うことなく、浮気調査を依頼した。
報告書を受け取った時、胸の中で何かが砕け散る音がした。妻・由美が、健介と三年もの間、隠れて逢瀬を重ねていたという事実。ページをめくるごとに、証拠写真と詳細な記録が僕の目の前に突きつけられてくる。二人が微笑みながら肩を寄せ合い、僕の知らない時間を過ごしている…その光景が写真に収められていた。指先が震え、視界が滲む。
数日後、意を決して由美と向き合った。キッチンで手を拭いていた彼女に、冷静を装って問いかける。
「由美、浮気してるだろう?」
突然の言葉に、由美の動きが止まった。驚きの表情を浮かべたあと、彼女はすぐに笑みを装い、「え?どういうこと?」と首を傾げた。しかし、僕は黙って証拠の書類を差し出した。視線を逸らし、やがて観念したように、彼女は真実を認めた。
だが、由美の口から出たのは、僕が想像もしなかった言葉だった。
「浮気したのは、あなたが悪いからよ」
「僕が……悪い?」
彼女は目を逸らさず、平然とした口調で続けた。「あなた、私のことなんてちっとも見てなかったでしょう?家族としてじゃなく、一人の女としてもっと大事にしてほしかった。それを健介が埋めてくれたのよ」
その言葉が胸に突き刺さる。僕は家族を支え、妻を守るために全力を尽くしてきたつもりだった。けれど、由美はそれを「愛」だと感じていなかったのだ。女性として、妻としての彼女を見失っていたのかもしれない。その思いが頭をよぎると、ふと背筋が寒くなった。
「娘のためにも、健介と私が一緒になるべきよ」と彼女は平然と言い放った。「あなたは健介の妻・菜緒さんと一緒になればいいじゃない」
僕は言葉を失った。まるで取り引きのように不条理な提案を口にする彼女に、怒りを通り越して哀れみさえ感じた。
「私は悪くない!」そう言い残し妻は自分の部屋に閉じこもってしまった。
翌日、僕は健介の妻、菜緒さんに連絡を取った。緊張している菜緒さんに報告書を見せると、菜緒さんが夫が浮気をしているのは知っていた。ただ、健介は支配的で、モラハラな態度で彼女を縛り付け、反論すら許さない。まるで菜緒さんは健介の所有物のように扱われていた。
「私は夫には逆らえないんです……」と、菜緒さんは弱々しく言った。その言葉を聞いた瞬間、僕は彼女に手を差し伸べるべきだと感じた。
「菜緒さん、俺に少し協力してもらえませんか?」
復讐の決意を胸に、僕は由美と健介に一芝居を打つことにした。
その日の夜、妻と今後のことについての話し合いを持った。
「離婚しよう。お前の言う通り、俺は菜緒さんと一緒になるよ。そして子供を育てる」
「え?そうしてくれるの?じゃあ私は健介と一緒に居れるの?」「ああ。それで良いよ。」
と言った瞬間、由美と健介の顔がぱっと明るくなったのが見て取れた。まるで子供が欲しいおもちゃを与えられたような、安堵と喜びの笑みだった。その表情を見たとき、僕の心の奥底で怒りの炎が燃え上がるのを感じた。結局、子供たちの為にということで家の権利と、親権を放棄することに健介も喜び勇んで離婚を承諾した。いわば「自由の身」になったと勘違いしていた。だが、本当の罰はこれからだった。
離婚が成立した後、僕は由美と健介に対し、慰謝料と養育費を請求した。当然、二人は「騙された!家を返せと」と抗議してきたが、僕は一切の妥協を許さなかった。彼らは不倫の証拠が十分に揃っている僕に対し裁判を起こしてきたが、結果は惨敗。逆に彼らは裁判費用まで支払う羽目になった。
どうせ健介は養育費を払うつもりなんてないはずだ。菜緒さんの為に必ず必要なものだった。
僕は冷淡に彼らを見下ろし、内心、わずかな満足感を噛みしめていた。長年積み重なっていた怒りが、少しずつ解き放たれていくようだった。その後、僕と菜緒さんはマンションを売却し一緒に県外に引っ越し、静かな新生活を始めた。引っ越し先では、僕たちは隣人としてさりげなく支え合い。寝るとき以外はお互いの家を行き来し支え合う日々を送っている。僕たちはお父さんお母さんの代わりとして一生懸命生活をしている。娘と菜緒さんの子供たちは、最初こそ戸惑っていたが、それでも最近は安心した表情を見せるようになってきた。
ある日、寝静まった家の中で、僕はそっと菜緒さんと顔を見合わせた。言葉にしなくても、お互いの痛みが少しずつ癒されていくのを感じていた。僕と菜緒さんがこの先どうなるのかは、まだ誰にも分からない。けれど、今はただ、この静かな時間を守りたいと思う。
ふと、眠る子供たちの寝息が、雨上がりの風のように心地よく耳に響く。すべてが失われたと思っていた僕の人生に、こうして新しい一歩があることを、ただそっと噛みしめながら…