僕の名前は前田健太。42歳、独身だ。朝起きて仕事して帰って寝る。ただただこれの繰り返しの人生。そんな僕に、少しだけ非日常の時間が訪れることになった。
「前田。今度みんなでキャンプ行かないか?」職場の先輩・川上さんから、突然そう声をかけられたのは一週間ほど前のことだった。川上さんは明るく、面倒見の良い性格で、同僚からも部下からも信頼される、いわゆる「頼れる男」だ。そして何より、先輩よりも一回り若いその奥さんが職場でも評判の美人だった。飲み会に一緒に顔を出すことも多く、川上さんが彼女を連れて現れるたびに、みんな「仲良さそうでいいですね」と羨むような目で見ていた。
「どうせ暇だろ?たまには自然の空気でも吸いにいこうぜ」川上さんの言葉は、少しだけ僕の胸を刺した。確かに僕は暇だったし、こんな誘いを断る理由もなかった。ただ、正直なところ、川上夫妻の仲睦まじい様子をまた目の当たりにするのは少し気が引けた。でも、変化のない日常をなんとか打破したいという気持ちが勝り、結局「ぜひ行かせてください」と返事をした。当日、現地に着いてみると、参加すると思っていた人数の半分も集まらなかった。集まったのは川上夫妻と、若手社員の北村、それに僕の4人だけだった。少人数のキャンプ。それはそれで気楽そうに思えたが、僕はどうしてもどこか落ち着かない気分だった。特に、美緒さん――川上さんの奥さんの姿を目にした瞬間から、胸の中に妙なざわめきが生まれていた。
彼女は雑誌に載っているような「完璧な美人」ではない。でも、彼女の存在には目を引くものがあった。少しむっちりとした体型だが、それが妙に自然で、飾らない魅力を放っていた。ノースリーブのワンピースで丈がちょっと短いラフなスタイルだった。日焼けした肌が陽の光に映え、ショートカットがやけに記憶に残る。そしてついつい目線がふとももに向かう。視線を泳がせながら何気なく彼女を見ていると、不意に彼女と目が合った。
「どうかしました?」柔らかい笑顔でそう問いかけられると、僕は反射的に「いえ、何でも」と答えた。けれど、その瞬間、僕は心の奥に隠していた感情がひどく揺れ動いたのを感じた。キャンプの夜、焚き火の炎が揺れる中、僕たちはバーベキューを囲んだ。自然の中で食べる肉の香ばしい匂い。ビールの泡が喉を心地よく刺激する。日常から離れた空間に身を置きながら、僕はぼんやりと炎の中の薪がはぜる音を聞いていた。川上さんはいつものように飲みすぎて、あっという間に酔いつぶれてしまった。若手の北村もそれに付き合って飲み続けた結果、今はベンチでうつらうつらしている。
一方、美緒さんだけはペースを崩さず、ゆっくりとワインを口に運んでいた。焚き火の明かりに照らされる彼女の横顔。ワインを傾けるその仕草が、妙にゆっくりと感じられた。そして、その一つ一つが、目を離せないくらいに美しく見えた。
「健太さん、飲みすぎてないですか?」不意に声をかけられた僕はハッとする。視線を上げると、彼女の微笑む顔が目の前にあった。焚き火の炎がその頬をオレンジ色に染めている。
「あ、いや…大丈夫です」なんとも気の利かない返事をしてしまう。けれど、彼女は「ふふっ」と小さく笑うと、自分のグラスを僕の前に差し出してきた。
「じゃあ、もう少し付き合ってもらおうかな」その言葉と共に、彼女は僕のグラスにワインを注ぎ足した。その動きが妙に滑らかで、視線を反らすことができなかった。注がれたワインの赤が、炎の明かりを反射してキラキラと輝いている。僕の胸はその光景だけで高鳴り、喉が乾くような感覚に襲われた。時間が経つにつれ、川上さんと北村は完全に眠り込んだ。彼らをテントに運び込むのは僕の役目となった。二人を寝かし終えた後、美緒さんが小声で「健太さん」と僕を呼び止めた。
「ちょっと、トイレまで付き合ってもらえますか?」彼女はほんの少しだけ困ったような笑顔を浮かべていた。理由は単純だった。夜のキャンプ場は暗く、トイレまでの道が少し怖いから、ということらしい。僕は断る理由もなく、彼女と一緒に森の中を歩き始めた。
夜の山道はほぼ真っ暗で、わずかなライトが足元をぼんやり照らすだけだった。彼女の歩くペースに合わせながら、僕は横目でその横顔をちらりと見た。月明かりが彼女の頬を静かに照らしている。その表情には、どこか言葉にできない寂しさのようなものが浮かんでいるように見えた。
「普段はこういう時間、あまりないんですよね」ふいに彼女が呟く。僕はその言葉の意味を測りかねて「どういう時間ですか?」と聞き返した。彼女は一瞬だけ僕の方を見て、少し笑った。
「夫はいつも忙しいから、たまにはこういう静かな時間もいいなって思っただけです」
その言葉に、胸がざわついた。それ以上何も聞けず、ただ無言で歩き続けた。トイレの前に着くと、彼女が立ち止まり、振り返って微笑んだ。
「ここで待っててくださいね」柔らかい声が静寂の中で響く。僕は彼女の後ろ姿を見送りながら、心の中で何かがざわついていた。月明かりに照らされている彼女の後ろ姿。ワンピースの裾がふわりと揺れるたびに、その無防備さに視線を逸らさずにはいられない。
「ダメだ、こんなことを考えるなんて」僕は自分の思考を必死で打ち消そうとした。彼女は川上さんの奥さんだ。それなのに、なぜこんな気持ちになるのだろう。罪悪感が胸を締め付ける一方で、彼女の香りや仕草が頭から離れない。
森の中に静寂が戻る。風が木々を揺らし、かすかな音が耳に届く。それが余計に僕の緊張感を煽った。彼女が中にいる間、ただじっと立っているだけなのに、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。何もない夜の静けさが、逆に僕の頭の中を騒がしくさせる。やがて、扉が開き、彼女が戻ってきた。
「ありがとう、あ~怖かったぁ」そう言いながら、彼女はふっと笑みを浮かべた。その笑顔は何かを隠しているようで、けれどどこか優しさも感じられた。
帰り道、彼女はゆっくりとしたペースで歩きながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「健太さんって、不思議ですね。何も言わなくても、なんとなく安心するんです」
「そうですか?普通だと思いますけど」ぎこちなく答えながらも、胸が熱くなるのを感じた。彼女は少しだけ笑いながら言った。
「そういう普通さが大事なんですよ。たぶん、私にはそういうのが足りないのかもしれないですね」その言葉には、普段の彼女の明るさとは違う、本音のようなものが混ざっている気がした。そして、キャンプ場へと戻る途中、彼女が突然、遊歩道沿いのベンチを指差した。
「あそこで少し話しませんか?」断る理由もなく、僕たちは並んで座った。月明かりが僕たちを静かに包んでいる。夜の冷たさを肌で感じながらも、隣に彼女がいるだけで、僕の体温はどんどん上がっていく。
話は自然と途切れ、静けさが訪れた。その静けさが、逆に緊張を際立たせている。ふと、美緒さんが体を僕の方に傾けてきた。髪からほのかに甘い香りが漂う。距離が近い。僕の肩に彼女の肩が軽く触れるたび、心臓の鼓動が耳に響くようだった。
「健太さん、ずっと私のこと見てましたよね?」突然の問いかけに、僕は思わず息を呑んだ。反論しようとしても言葉が出ない。彼女は僕の反応を面白がるように、少しだけ首を傾け、じっと僕を見つめた。その瞳は、揺れる炎のような挑発と、どこか寂しさを含んでいるようにも見えた。
「正直に言っていいですよ」と彼女が囁いたその瞬間、僕の中の理性の糸が、音を立てて切れるのを感じた。
「……見てました」思わず漏れたその言葉に、彼女は小さく笑った。そして、彼女の顔が少しずつ近づいてきた。僕は何もできなかった。ただ、その瞳を見つめるだけで精一杯だった。唇が触れたのは、一瞬だったかもしれない。柔らかく、温かく、けれどそれ以上に切なさと罪悪感を帯びた感覚。その瞬間、僕の中にしまい込まれていた何かが、大きく揺さぶられた。だがその時、遠くから歩く人の気配がし、二人は慌てて体を離した。静まり返った夜の空気の中で、気まずさを感じつつも、何も言わずにテントへと戻る。先輩と後輩のいびきが響く中、健太は寝袋に入り寝る体制になっていた。
その時だった。寝袋に美緒さんが近づいてきたのだ。そして僕の口を軽く押え寝袋に入り込んできた。「静かにね」と口元に指を当てる。触れる彼女の温もりに、健太はもう抗うことができなかった。音を出すことも出来ないこの空間で、二人だけの静かな夜が、テントの中で紡がれていった。
翌朝、美緒さんはいつもの明るい彼女に戻っていた。川上さんの世話を焼きながら、笑顔で会話を交わしている。その姿は、まるで昨夜の出来事が夢だったかのように振る舞っていた。帰り際、美緒さんが僕に近づき、そっと耳元で囁いた。
「またどこかで…ね」その言葉は穏やかで、けれど確かに意味を含んでいた。
彼女が何を考えているのか、僕には分からない。ただ一つ確信しているのは、あの夜の月と、彼女の微笑みが、僕の心に永遠に残るということだ。そして、その記憶が、これからの僕の人生に何かを変えていくような気がしてならなかった。
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