
「もう、誰も失いたくない」
そう強く思ったのは、あの朝、彼のぬくもりを感じた瞬間だった。
久しぶりの休日、今日は朝から天気がよかった。とはいっても、主婦に完全な「休み」なんてあるわけじゃない。朝ごはんの片づけをして、洗濯物を干して、掃除機をかけて——それでも、今日はちょっと気が楽だった。
その理由は直人さんが、息子の遥人を連れて遊びに行ってくれたから。
「じゃあ、ちょっと行ってくるな」
「お願いします。あんまり遅くならないうちに、戻ってきてくださいね」
「大丈夫。昼前には戻るよ」
そんなやりとりをして、ふたりが出て行ったのが、朝の九時半ごろだったと思う。
あの人が亡くなってから二年。直人さんは、いつもさりげなく私たち親子のそばにいてくれた。無理やり踏み込んでくるわけでもなく、でも何かあれば必ず助けてくれる、そんな存在。
彼は夫の従兄で、夫と友達のようにずっと仲の良かった人。夫がいなくなった今も、こうして遥人の相手をしてくれることが、どれほどありがたいか。
時計を見たのは、昼の一時をまわったころだった。あれ? そろそろ帰ってくるはずの時間じゃないか。
最初は大して気にしてなかった。男同士でどこか寄り道でもしてるのかもしれないし、公園で夢中になって遊んでるのかもしれない。
でも、一時半を過ぎても帰ってこない。電話をかけても、出ない。LINEも既読にならない。
なんだか、胸がざわつく。おかしい。こんなに連絡がつかないなんて、直人さんらしくない。
居ても立ってもいられなくなって、私は上着を羽織って家を出た。
向かったのは、いつも遥人が遊んでいる、近くの大きな公園だった。
坂を下りて角を曲がったとき、見えた。ベンチに腰掛ける直人さんと、泣いている遥人の姿が。
「遥人!」私は駆け寄った。遥人がこちらに気づいて、泣きながら抱きついてきた。
「どうしたの!? 直人さん、大丈夫ですか?」直人さんは、ややうつむき加減で、眉間に少し皺を寄せながら、申し訳なさそうに笑った。
「ごめん。ちょっと血の気が引いて…ベンチで休んでたら、遥人がびっくりして泣いちゃって」
「ごめん、ほんとに」
彼の息がまだ浅いように見えた。顔色も、青白い。私は黙って、そっと直人さんの額に手を伸ばした。熱がある…かもしれない。
指先に感じた直人さんの体温が、思っていたよりずっとあたたかくて、——それだけなのに、なんだか胸の奥がぎゅっと掴まれるような気持ちになった。
何か言おうとして、私は言葉に詰まった。遥人に荷物を持たせ、私は直人さんに肩を貸し、三人でゆっくりと歩き出した。
やはり男性、肩を貸しているだけでもかなり大変で公園の出口までの道のりが、やたらと長く感じる程だった。
ただ、直人さんの体調が悪い中でも私は、肌と肌が触れ合うだけで心臓が飛び出しそうになるほど緊張していた。お互い汗ばんでいるのが分かるほどの密着。その背徳感に、思わず呼吸が詰まりそうになっていた。
私の接し方も変だったかも知れない。変なふうに思われてないといいけど。でも、たぶん、今の私、変な顔してたと思う。
それくらい、この時は自分のことしか考えられていなかった。
家に着くと、直人さんは「落ち着いたからもう大丈夫だよ」と言って、玄関先で帰ろうとした。
「少し休んでいってください」と言いかけたけれど、それ以上無理強いは出来なかった。
直人さんの背中が遠ざかる。その背中を、私はずっと、玄関先から見送っていた。
それから。数日が過ぎても、直人さんから連絡はなかった。既読にならないLINE。かけてもつながらない電話。
時間が経つほどに、私の中に広がるのは、静かな、でも確かな不安だった。
「何かあったんじゃないか」
「私、あの日、引き止めるべきだったんじゃないか」
そう思いながらも、何もできないまま、また一日が過ぎた。
連絡があったのは、あの日から三週間ほど経ったある午後だった。
電話の相手は、直人さんの母。つまり、私の亡き夫の叔母だった。
「優香ちゃん? ごめんなさいね、急に。……あの子ね、直人が……入院してたの」
言葉の途中で胸がざわめいた。
「えっ、入院……?」
「…今はもう落ち着いてるんだけどね……原因不明で倒れちゃってね。でも……もう大丈夫だから。今まで連絡できなくてごめんなさいね」その言葉に、私は謝らないでください、とは言えなかった。
頭が真っ白になっていた。
病室の前で深呼吸をしてから、私は静かに扉をノックした。
返事はなかったけれど、看護師さんから「起きてますよ」と聞いていたので、そっとドアを開ける。
個室のベッドに横たわっていた直人さんは、思っていたよりも痩せて見えた。
目を閉じていたけれど、私に気づいたのか、うっすら目を開けて小さく笑った。
「……来てくれたんだね」その声を聞いた瞬間、胸の奥からせり上がるものがあって、私は返事ができなかった。
ただ、黙ってうなずきながら、ベッドの傍まで近づいた。
「びっくりしましたよ。なんで……黙ってたんですか」そう言うと、直人さんは少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんね、心配させたくなかったから」ベッドの脇に置かれた椅子に座り、私はそっと彼の手を取った。
大きくて、あたたかいその手に、自分の手を重ねるのが、なぜか少し恥ずかしかった。それでも、今だけは……と思っていた。
「本当に心配したんですよ」
「……ごめんね。大丈夫だよ」
「ごめんなさい。私があの時直人さんのことをちゃんと考えれていたら…自分のことしか考えてなかったんです。ごめんなさい。」その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くくらい、涙が出ていた。声を出して泣くわけじゃないのに、ぽろぽろと、頬を伝って落ちていく。
直人さんがそっと私の手を握り返した。その手のぬくもりに、私はまた泣いた。
誰かの手を、こんなふうに感じたのは、夫がいなくなってから初めてだった。
それからしばらくして、直人さんは退院した。でも、どこか距離を感じるようになった。
連絡は来る。でも、用件だけ。会っても、笑顔はある。でも、どこかよそよそしい。
……私のせいだろうか。
あの病室で、泣いてしまったから? 気持ちを出してしまったから?
そんなある日、夕飯の支度をしていると、遥人がぽつりとこんなことを言った。
「直人おじちゃん、うちに住めばいいのに」
「……え?」
「そしたら、いつも一緒に遊べるし、ママもにこにこしてるし」何気ない一言だった。
でも、心の奥にまで、静かに沁みていくような声だった。
私も、同じことを思わなかったわけじゃない。
ただ、それを言葉にする勇気が、なかっただけで。
直人さんがそれからうちに来てくれたのは、それから数日経った夕方だった。
「これ、遥人に」そう言って、小さなお菓子の袋を差し出しながら、彼は玄関に立っていた。
「……少し、お茶でも飲んでいきませんか」私のその一言に、彼は少し驚いたような顔をして、それからゆっくりうなずいた。
茶の間で並んで座って、温かいお茶をすすっていたけれど、どちらからともなく沈黙が訪れる。
ふと、手が触れ合った。テーブルの上、ほんの指先がかすかに。
なのに、心臓の音が、自分でもうるさいほど響いた。
「……あの日のこと」直人さんがぽつりと口を開いた。
「優香さんの手、あたたかかったよ。あれで……頑張ろうって思えたんだ」
「そんな……私は、何も……」
「いや、助かったんだよ。ほんとに」そして少し息を飲むような間のあと、彼は続けた。
「ずっと言えなかったけど……俺はね優香さんのことが、好きだったんだ」私は、胸の中がぐらぐらと揺れるのを感じた。
その夜。
「おじちゃん、今日は泊まっていって!」と遥人が無邪気に言った。
「遥人!と私が止めようとしたとき、直人さんが静かに笑って、言った。
「そうだな……今日は、泊まっていこうかな」私の胸の奥で、何かが静かに崩れて、そして流れていった。
夜。風呂から上がったあと、寝間着に着替えてリビングに戻ると、直人さんがまだ起きていた。
「もう寝たほうがいいですよ」と私が言うと、彼はぽつりと聞いた。
「優香さんを待っていたんだ…」その一言に、身体がぴたりと止まった。
でも、不思議と怖くはなかった。ううん。どこか、待っていた言葉だったのかもしれない。
私は、静かにうなずいた。
その夜、遥人が寝た後に私たちは声を押し殺し愛し合った。お互いが惹かれあうように、無我夢中で求めあった。
互いの体温が混じり合い、息遣いが重なるうちに、自然と手が動いていた。
ぎこちなく、優しく、そして確かに求め合った。
あの日以来、初めて“女”として見られた気がした。
そして、私もまた“男”として直人さんを受け入れた。
柔らかな朝日が差し込むなかで目を覚ましたとき、隣には静かに眠る直人さんの姿があった。
毛布の中のぬくもりが、まだ全身に残っていた。
「もう、ひとりじゃない」そう思っただけで、涙がまたこぼれそうになった。
遥人の笑い声が、廊下から聞こえてくる。今日もいつもの朝が始まる。でも、もう昨日とは違う朝だ。
私は、そっと直人さんの指に触れた。「これからは、ちゃんと……あなたの手を離さないようにするから」彼の指が、わずかに動いて、私の手を握り返してくれた。