
私は、地方都市の古びた団地で暮らしている、三十八歳の女です。
十一歳になる娘が一人います。名前は紗良。小さな頃から手のかからない子で、よく空気を読んでくれる。そんな娘の優しさに、私は何度も救われてきました。
けれど、私たちの生活は決して穏やかなものではありませんでした。
夫の達夫は、働き者ではあるけれど、家ではいつも不機嫌で、機嫌が悪くなれば手が出る人でした。最初のうちは、言葉で罵られるだけだったのに、気づけば怒鳴られ、叩かれ、蹴られるようになっていました。
だけど、私には逃げ場がなかったのです。
仕事はパート程度しかできず、生活の柱は夫の稼ぎ。頼れる親もいません。唯一の姉は東京で仕事をしていて忙しく、簡単に頼れる距離ではない。何より私が我慢すればいい、私さえ耐えれば、娘に手が出されることはない。
それだけを支えに、私は何年も、何年も、この生活に耐えてきました。
でも。限界は、静かに、でも確実に、私の中で近づいていたのです。
それは、梅雨が明けるかどうかという時期でした。湿気の残る午後、私は台所で夕飯の支度をしていました。夫が在宅の日は、いつも以上に気を使います。ちょっとでも気に障ることがあれば、容赦なく怒鳴られるから。
その日も、なんとなく嫌な予感がしていました。夫の顔色が、朝から冴えなかった。イライラしているときは、必ず何かが起こる。
そして案の定、夕方近くに始まりました。
「おい、なんだこの味は!」
「ごめんなさい……」謝るしかないんです。反論すれば、もっと悪化する。
肩をすくめて耐えていたそのとき、インターホンが鳴りました。
「ちっ、誰だよこんなときに」夫の苛立ちを背中に感じながら、私は慌てて玄関へ向かいました。
ドアを開けると、そこには見慣れない配達員の男性が立っていました。
がっしりとした体格に、少し日焼けした肌。けれどその顔立ちは、どこか柔らかくて、優しさが滲んでいました。
「あ、こんにちは。お荷物をお届けにあがりました」
「はい……ありがとうございます」私が受領印を押そうとしたそのとき――彼の視線が、私の足元に落ちました。
そのとき、私は慌ててエプロンを直しました。捲れていたすそから、太ももの内側にできた青黒いあざが見えていたのです。
「あの……大丈夫ですか?」その一言に、私は一瞬、息が止まりました。
でも、咄嗟に出たのは、いつもの嘘。
「ええ……ちょっと階段で転んでしまって」
「階段……そうですか。でも、それって……」配達員の彼は、それ以上は言わなかったけれど、目には明らかな心配が浮かんでいました。
「もし、何か困ってることがあるなら……その……言ってください。僕、配達中に何度もこの辺りに来てるので」
心配してくれるその気持ちが、嬉しくて、泣きそうになった。
でも、そんな優しさに甘えてはいけない。夫に知られたら、何をされるかわからない。
「大丈夫です、本当に……すみません、お気遣いありがとう」
そう言って荷物を受け取ろうとした瞬間、背後から重たい足音が聞こえてきました。
「おい、何してんだよ! まさかそいつと話してたのか?」夫でした。私を睨みつけ、その視線が配達員の彼へと移る。
「誰だよお前。何見てんだ?」
「……すみません。ちょっと、奥さんが転んだっておっしゃってたので、心配になって」
「そんなもん、おまえには関係ねえだろうが!」夫は荒々しく私の腕を引っ張ろうとしました。私は目をつぶって身構えてしまいましたがそれは起こりませんでした。
恐る恐る目を開けると、配達員の彼が夫の腕をつかんでいました。しっかりと、離さずに。
「……手を放せ!なんなんだよお前!」
「暴力を振るうのは、やめてください」静かだけど、はっきりとした口調。夫が力任せに腕を振りほどこうとするも、びくともしない。
「僕、昔格闘技やってたんです。目の前での暴力は見過ごせません」
そのやりとりを聞いたのか、近所の誰かが通報してくれていたようで、数分後には警察がやってきました。
夫は怒鳴りながらも、警察に説得されて連れて行かれました。
玄関の前には静けさが戻り、私はしばらくその場に立ち尽くしてしまいました。
「……本当に、ありがとうございました」私が震える声でそう言うと、配達員の彼は小さく笑って言いました。
「いえ、当たり前のことをしただけです」その笑顔が、あたたかくて――あの瞬間、私は心のどこかがふっと軽くなるのを感じました。
夫が警察に連れて行かれたあとの数日間は、まるで嵐の後のように慌ただしく過ぎていきました。
警察署に何度も足を運び、事情を聞かれ、調書を取り、夫の身柄がどうなるかを説明される。
最初は怖くて震えていたけれど、不思議と、心のどこかで「これで終わったのかもしれない」という予感がしていました。
あの人がいない家は、驚くほど静かで。
夜にびくびくせずにいられるというだけで、こんなにも安心できるんだと、私は初めて知ったのです。
そして私たちは母子寮に入ることになりました。
あの家から離れられたことにより紗良も、どこかほっとした表情をしていました。
「ねぇママ、今日は怒られない?」と不安そうに聞いてきたその顔を見て、胸が締めつけられました。
私は小さく笑って、「怒られないよ。もう、そんなこと絶対にないから」と答えながら、娘をぎゅっと抱きしめました。
あれから数日――
私は、あの配達員の方のことが頭から離れなくなっていました。
あの人がいなければ、私はまだ暴力に耐える日々を続けていたでしょう。
助けてくれただけじゃない。あのとき私を“人間”として扱ってくれた、あの優しさが、忘れられなかったのです。
――もう一度、ちゃんとお礼が言いたい。
――できれば、もう少しだけ、話してみたい。
母子寮は隣町だったので、あの方が来られるとは思っていませんでした。
でももしかして、そんな思いが募って、私は思いきってネットで日用品を注文してみました。
同じ人がくるなんて、わかるはずないのに。
でも、神様っているのかもしれません。
数日後、インターホンが鳴ってドアを開けると――そこに、また彼がいました。
「あ、こんにちは。お荷物をお届けにあがりました」
「……また、あなたでよかった」思わずそう口に出してしまって、私の顔が真っ赤になるのがわかりました。
「あ、すみません、そんなつもりじゃ……」
「いえ、僕も……ちょっと安心しました」少しだけ照れたように笑った彼は、自分の名札を指差して言いました。
「本当は僕のエリアじゃないんです。でも仕分けしてる時にお名前を拝見したのでもしかしたらと思って。僕もずっと気になっていたので、無事でよかったです。荷物を受け取るのもそこそこに、私たちは立ち話をしました。
気がつけば、配達の途中なのに、彼の方から「今度、食事でもどうですか」と声をかけてくれて。私は迷うことなく頷きました。
その週末、駅近くのカジュアルなビストロで、私たちは向かい合っていました。
彼はとても話しやすくて、格闘技をしていたこと、地方から転勤でこの街に来たこと、仕事の合間に映画を観るのが好きなこと――いろんな話をしてくれました。
驚いたことに、私も大好きだった昔のフランス映画の話題で盛り上がってしまって。
お酒も入っていたせいか、気がつけば笑いが絶えず、私は久しぶりに「女」としての自分を取り戻しているような気がしていました。
「笑えるって良いですよね、魅力的ですよ」
「……そんなこと、言われたの、何年ぶりかな」私は少し涙ぐみながら、彼の言葉を受け止めました。
気がつけば、終電まであとわずか。
「実は、家がこの近くなんです。よかったら、もう少しだけ、飲みませんか?」
娘のことは姉に預かってもらっていました。娘からも楽しんできてと言われていましたので、私は迷いながらも頷いていました。
そして私たちは、静かな夜道を並んで歩き、彼の部屋へと向かいました。
部屋の扉が閉まったとき、私はもう自分を止められませんでした。
ずっと、誰かに抱きしめてほしかったのです。
私はそっと彼の胸に顔をうずめ、言葉もなく抱きつきました。
彼もまた、そっと私を抱きしめてくれました。強くもなく、押し付けるでもなく、まるで壊れ物を包むように。
その夜――
私たちは、ただ静かに触れ合いました。
彼の手は私の髪を撫で、頬をなぞり、背中を包みました。
何も急かさず、私が頷くのをじっと待ってくれるその姿に、私は安心して身を任せることができました。
「理子さん、あなたは、ちゃんと愛されるべき人ですよ」その言葉が、胸に沁みて、私は泣きながら彼に抱かれました。
あの人とは、まるで違う――暴力ではなく、優しさで満たされる夜。
私はその温もりに、何度も何度も、深く包まれていきました。
達央さんは、わたしのことだけじゃなく私と娘のことを気にかけてくれました。
「焦らなくていいから。紗良ちゃんが安心して笑ってくれるなら、それだけで嬉しい」
娘も最初は戸惑っていたけれど、彼が遊び相手になってくれたり、鍵盤ハーモニカを褒めてくれたりすることで、少しずつ懐いていきました。
夫との離婚についても、達央さんが知人の法律事務所を紹介してくれて、調停を経て、ようやく成立しました。
彼とはすぐに結婚、というわけにはいかないけれど――
「また一緒に映画、観ようね」
「今度は三人で、どこか出かけたいね」
そんな何気ない約束を、少しずつ積み重ねている今が、私はとても愛おしいのです。
これはきっと、私たちの「新しい人生」の始まり。もう過去には戻らない。
未来は、私たちの手で作っていける。
娘のために――そして、私自身のために。
私は、この人生を、大切に生きていこうと思っています。
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