
「ごめんね」彼女は一言だけそう言い、涙を浮かべた。その涙が意味する理由が俺には分かる。
けれど、俺には彼女を引き止めることはできない。何も言えずにただ俯いていると、彼女の唇が優しく俺の唇を包んだ。
「えっ」それ以外の言葉がでなかった。それよりも、ただただ彼女の唇の虜になった。好きだ。
そう言いかけた時、目が覚めた。
「なんだ。またこの夢か」40歳にもなって過去の恋愛を引きずってるなんて恥ずかしい。忘れたくても忘れられない女性なのだが、いい加減になんとかしないと。毎朝同じルーティンをこなし、出勤する。気がつけば、かれこれ20年近くも独り身で同じルーティンだ。
あっという間にもう40歳になってしまった。
大学を卒業してから、今の会社一筋で頑張ってきたのに、何も変わらない日常しか与えてもらってない気がする。
「さぁ、今日も頑張るか」誰もいない部屋に、いってきますとつぶやいた。俺の目に映るのは、モノクロの風景だ。家を出る前にふと、郵便ポストに目がいった。
「あれ、何か届いてる」細長い茶色い封筒があった。差出人を見ると、高校の時の同級生からだった。
同窓会の案内と書いてあり招待状だった。高校の同窓会なんて初めてだ。嬉しくて早速中身を見る。何人かは今も繋がりがあるけどみんな来るのだろうか。
俺の頭の中に、あることがまっさきに浮かび上がった。今日の朝も夢に出てきた元カノの洋子だ。洋子は参加するのか?まあ来ないだろうなと、カバンに招待状をしまい、いつもの電車に乗って出勤した。
この時は、同窓会で俺の人生が変わるなんて全く思ってもいなかった。
「では、当日の午後からお伺いします。ありがとうございます」今日は、幸先が良い。気難しい取引先へのアポイントが取れた。
ふう、と安堵のため息が出る。あとは、資料をまとめたら今日の仕事は終わりだ。
そういえばと、朝の招待状の事が思い浮かんだ。久しぶりにみんなに会うのが楽しみだ。あの時みたいに笑い合えるといいな。
頭の片隅にある事がひっかかる。
数日後。同窓会へと向かう。受付を済ませ、会場に入る。懐かしさと少しの緊張を抱えながら扉を開けた。もうすでに何人か集まっていた。
「おぉ、久しぶりだな」懐かしい顔ぶれがあった。元気にしてるか?と会話が弾む。数人以外は、高校以来に会う人もいる。剥げてるやつも白髪まみれの奴、でもみんな変わっていなかった。
クラス1の美人はさらに色気が出ていて健在だったし、太りすぎだろ?と巨漢の友人をいじる。
すると、ふと視線が奪われた。そこには元カノの洋子がいた。
一瞬、時が止まった。高校時代、大学時代に交際していた元カノの洋子。
大学卒業後の俺の就職先が気にいらないとのことで、彼女の親の猛反対に合い、彼女から別れてほしいと告げられた。
親の都合もあったが、8年近くも付き合っていて、マンネリ感はあったかもしれない。俺自身、納得はできなかったが、彼女の目に浮かんでいた涙がすべてを物語っていた。
あのとき、彼女も苦しかったのだ。あれから年月が過ぎ、互いに別々の道を歩んできた。ふと、洋子の左手の薬指に指輪が見えた。
「そうか。そりゃそうだよな」彼女は結婚しているようだ。現実を突きつけてくる。すると洋子も俺に気がついたようで、こちらへ向かってきた。
「変わらないね」と微笑んだ洋子に、胸が締めつけられた。あの時と変わらない笑顔。忘れられない顔だ。
「久しぶり。元気そうだね」洋子の笑顔を見た瞬間、心の奥でずっと燻っていた想いが、再び燃え上がるのを感じた。でも、なんだか変な感じだ。洋子と軽く話をし、一度離れた。まずい、また夢に出てくるんじゃないか。
友人たちと話をしていると、その場にいた洋子の友人から思いがけない話を聞かされる。
「武史君は知ってる?洋子さ、旦那に暴力を受けてるって」言葉を失った。そんな想像もしたくなかった。けれど、ふと思い返す。
洋子と話していた時、一瞬見せた怯えたような表情。そして腕にあった、うまく隠しきれていない痣のような影。心がざわめいた。
話を聞いて、今の自分に何ができるだろうかと思った。洋子を守りたいという想いが、抑えようもなく胸に広がっていく。
「同窓会はこれでお開きです。ありがとうございました」終了挨拶を幹事が伝える。
チャンスは今しかない。
「なあ、洋子。連絡先でも交換しないか?」迷いながらも、洋子はスマートフォンを手に取った。
「そうだね。うん、いいよ」久しぶりに洋子の連絡先がスマートフォンに追加される。
「じゃあ、私急ぐから。またね」そう言い、足早に会場を後にした。俺はただ洋子の背中を見つめるしかできなかった。
あの時と一緒だ。けれど、今の俺はあの時とは違う。あの時のような思いはもうしたくない。彼女を救いたい。そう強く心に誓った。次の日から俺は動き始めた。洋子の現状を詳しく知るために、共通の知人たちに話を聞いた。
それだけでは足りず、インターネットやSNSも使いながら情報を集めた。友人たちも心置きなく協力してくれた。
調べていくうちに、驚きの事実が判明する。
「嘘だろ。そんなことって」洋子の旦那は高校の高校時代の部活仲間の、佐藤だった。俺は言葉を失った。同じクラスになったことはなかったが、明るい性格で、誰よりも仲間想いな奴だった。
人を喜ばせるのが好きだった佐藤が、洋子の人生を狂わせてしまったなんて。洋子の事を調べると同時に、佐藤のことも調べた。
人づてで洋子の親友に連絡を取り
「佐藤のこと教えてくれ?あいつが卒業してからの事って知ってたりする?」
と、聞いてまわった。すると、洋子の事以上に佐藤の事が分かった。
佐藤は社会人になってすぐにギャンブルに手を出したそうだ。そして、多額の借金を抱えるまでのめり込んでいたらしい。
返済のために金を用意しようと、手当たり次第に女を口説き、金を引き出すような生活を繰り返していた。引き出す金がなくなれば、女性を捨てるという最低な事をしていた。洋子と出会ったのは、30歳を過ぎた頃だったそうだ。洋子の心の優しさに目をつけたのだろう。自分の借金のことは隠して、何も知らない洋子を結婚に誘い込んだ。最後まで女を金づるとしか思っていないようだ。
それに、あいつは俺と付き合っていたという過去も、わかっていながら巧妙に近づいていったと思うと怒りが余計に込み上げる。
優しさに惹かれ、結婚を決めたけど、結婚してから佐藤は豹変したらしい。
借金取りに追われる日々の苛立ちを洋子にぶつけるようになった。借金の額が増えると暴力を振るう。金がなくなれば、洋子を働きにいかせる。そんなひどい扱いを受けてきた。洋子は誰にも相談できず、じっと耐えていた。
結婚して5年、外とのつながりを断たれ、日々の生活は苦しみに変わっていった。そんな中、救いになったのが、あの同窓会だったようだ。
珍しく機嫌がよく気分転換に行って来なよと佐藤に言われ、会場に現れたようだ。ここまでが、俺が調べた内容だ。
友人から佐藤の顔写真を見せてもらったが、まるで別人だった。やつれた顔に、目は虚ろ、学生時代の面影などどこにもなかった。
もう優しい佐藤はいなかった。ここまで調べ終わった頃、俺の中の決意がさらに大きくなった。自分が今でも好きな人だ。どうにかしてでも助けたい。
「今しかない」連絡先を聞いていてよかった。俺は真っ先に洋子にメッセージを送った。
「俺に何かできることがあるならいつでも言ってくれ!」そうメッセージを送った。初めは何もないよとそっけない返信だけだった。
だが、連絡を重ねるうちに少しずつ心を開いていってくれた。今はどんな仕事をしているの?卒業してからはどんな生活だった?
好きなことは何?と、他愛のない話を続けた。まるであの頃を思い返すように。するとある日。
自由な時間がとれたから、会って話をしない?と洋子から連絡がきた。待ち合わせをし、食事に行くことになった。メッセージよりも、直接言いたいこともあるのだろう。楽しみと同時に、緊張もしてきた。今の洋子に俺はなんて声をかけてあげられるだろうか。
待ち合わせ当日。洋子は先に待っていてくれた。
「お待たせ。まだ時間じゃないのに」そう言うと、早く会いたかったからと俺の心を躍らせる。
同窓会の時の雰囲気とは違い、明るい雰囲気になっていた。
「久しぶりの外出だから。今日は付き合ってよね」そう言いながら笑う洋子。ただそれでもどこか哀しみを感じる。左手に指輪はなかった。お店に入るやいなや、食事をすることよりも話をすることの方が多かった。冗談を言い合ったり、笑う事も多かった。
そして、学生の時の答え合わせもした。親のことをもっと考えて行動していたら、また違った未来になっていたのかもしれない。
「武史は本当に変わらないね。優しいまま」その言葉にただ照れるしかできなかった。そして、1番知りたかった本題へ入った。
俺が友人に聞いて調べた事も、今でも洋子を想っていることも正直に伝えた。
「そんなに想っていてくれたんだ」洋子は泣きながら言ってくれた。耐えきれない涙の中で、彼女はすべてを打ち明けてくれた。
佐藤との出会いや結婚。結婚後の生活や現状。俺が知っていることとほとんど変わらなかった。やっぱりひどいことをされてきたんだな。
「なんで私あんな人と結婚しちゃったんだろう。もう嫌だ」泣きくずれる洋子を俺はそっと包み込んだ。
「大丈夫。俺がついてる」そう言い俺は彼女の頭をポンポンとした。
「もう少しまだ一緒にいたい」お互い同じ気持ちだった。もう2人は誰にも止められない。
その後、俺は洋子と2人きりになれる場所へと向かった。お酒も飲んだせいか、洋子が色っぽく見える。お互いを求めた。
背徳の意識はあった。けれど、今の洋子を誰にも渡したくなかった。若い頃とは違い、濃密なねっとりとした交わり。甘い香りが2人を包み込んでいった。そして彼女を救いたいという想いもさらに深くなった。
思っても見ない事が起こった。
「ごめん。気付かれたかもしれない。」佐藤の暴力は一層激しさを増したようだ。俺たちとの関係を察したのだろう。幸い、佐藤は俺だとは分かってないようだ。
「ごめんな。俺のせいで。洋子は必ず守るから」もう2度と、洋子を失うわけにはいかない。その日の仕事終わりに弁護士事務所へ相談に行った。弁護士の助言で、証拠を集めるように言われた。今までの洋子の話や、友人からの情報、診断書から、録音データまでありとあらゆる証拠だ。洋子にも協力してもらった。
「武史と一緒なら頑張る」そう言って、自ら進んで自宅での様子を動画に録画してきてくれたのだ。
「よくやったね。ありがとう」普段の会話を録音するために、ポケットに入るサイズの録音機を仕込んだりもした。
集めるには時間がかかったが、かなり集まった。試しに集まった動画を弁護士と一緒に見た。
すると、想像を絶する光景が。なんだお前は、俺に口答えするのか?
おい、金はどうなったんだ?さっさと稼いでこいよ!何のために俺が結婚してやったと思ってる!
洋子を叩く音も痛々しい。
「もう消してもいいですか?」これ以上動画を見れない。
「もう十分です。本当に頑張ってくれましたね。これでいつでも戦えるでしょう」と、弁護士も言ってくれた。
これで裁判を見据えた準備は万全だ。動画を見た事、資料を整理したことを洋子に話した。
数日後。佐藤の隙をついて洋子を救出した。そして訴状を提出した。
佐藤は逆上したが、法のもとで徹底的に叩かれた。終始黙秘を続けたが、過去の借金、DVの常習性、そして妻への精神的虐待が次々と明かされた。すべてが法廷で明るみになり、洋子は慰謝料と保護命令を勝ち取った。
声を出して泣く洋子を、俺は見ているだけしかできなかった。佐藤とは、裁判所での再会になったが話すことはなかった。
俺の知ってる佐藤はもういなかった。
裁判が終わり、洋子と話す。
「本当にありがとう」洋子は深く頭を下げた。
「よく頑張ったね。これで洋子は自由だよ」洋子は涙を浮かべながら、ぎこちなく笑う。その笑顔に違和感があった。
離婚が成立したのは、裁判から1ヶ月後のことだった。
この1ヶ月間、洋子は実家へ戻りゆっくりとした時間を過ごしていた。
両親にも家庭内暴力のことを言っていなかったので、ご両親も酷くご立腹だった。
頻繁に連絡をしていたが、
「ごめんね。私のせいで」
と、口癖のように毎回言ってくる。
その度に、洋子のせいじゃないと励ました。
弁護士から聞いた話だが、DVを受けた被害者は離婚後のメンタルケアによっては同じことを繰り返すようになると。
その話を聞いて、精神的に洋子を支えてあげることが俺の使命だと思った。
他愛のない会話をしたり、洋子の実家近くまで会いに行ったりもした。
この1ヶ月間、洋子のためにできることは全てやった。そして、離婚が成立。洋子は、最後まで冷静だった。
もう涙を流すことも、怒りをぶつけることもなく、
「ありがとうございました」と静かに呟いた。
佐藤は今回の出来事で、口を閉ざし、必要以上に口を開かなくなった。
予想してなかったが、お互い円満に別れられたようだ。
長年の重荷を手放した安堵感で、洋子は少しほっとした表情をしていた。その姿を見て、俺もほっとできた。
それからの日々、2人は少しずつ穏やかな時間を取り戻していった。
「1人暮らしするくらいなら、俺の家に来ればいい」そう言い、洋子を自宅へ連れて帰った。
今まで俺1人だったのが、気づけば生活の中に洋子の存在が溶け込んでいた。
洗濯物が増え、玄関に小ぶりなサンダルが並んでいたり、何気ないことが、俺にはたまらなく嬉しかった。
洋子もまた、変わっていった。
最初は何かにつけて「ごめんね」と口にしていたが、次第に「ありがとう」に変わっていった。
そしてある日、不意に俺の頬に触れてこんなふうに言った。
「もう、笑ってもいいかな?」その言葉に俺は嬉しくなり
「もちろん。一緒に笑い合っていこう」と、抱きしめた。2人の時間が確かなものになってきた。あの時、途切れてしまった時間が戻る。朝起きて隣に彼女がいることが当たり前になったり、一緒に朝食を作ったり、休日にはスーパーで献立を考えたり。そんな何気ない日常が、かけがえのない宝物になっていた。
ある夜。
「俺とこの先もずっと一緒にいてくれる?」俺は静かに言った。洋子は俺の手を握り、そっと目を伏せて答えた。
「武史となら、どんな未来でも怖くないよ」洋子の手は、もう震えてなかった。もう誰にも傷つけさせない。もう一人で苦しませない。もう迷いはなかった。同窓会で再会したときは、ただ懐かしかっただけだが、今は違う。洋子となら、もう一度始められる。
心からそう思ったのだ。過去は消せない。でも、過去があったからこそ、今の2人がある。手を取り合い、少しずつでも未来に向かって歩いていこう。きっと、これがあの日の続きなのだから。ゆっくりと俺たちの未来へ向かって。
「それじゃ行ってくるよ」玄関を出ると、
「いってらっしゃい。気をつけてね」俺の後ろから聞こえる。
何の変わり映えもなかった毎日が色鮮やかになってきた。
新しい日常が始まる。