
篤志が実家に帰るのは、数年ぶりだった。
久しぶりの田舎の空気は、東京での日々に慣れた体にはどこか心地よくもあり、同時に少しばかりの居心地の悪さも感じさせた。
仕事に追われ、何年も帰ってこなかったが、だからといって地元に特別な未練があるわけでもない。実家に帰ってもやることはないし、友人たちともほとんど連絡を取っていなかった。
「暇だな……」ため息交じりにそう呟いたとき、ふと思い立ち、本屋へ向かった。新刊でも漁ろうかと店内を歩き回っていると、ふと視線が止まる。レジの向こうにいる女性の姿が目に入った。長い髪を後ろで束ね、淡いブラウスにデニム。ナチュラルメイクの柔らかな表情。どこかで見覚えがある——いや、間違いない。
真理恵さんだ。
高校時代、憧れていた美術部の先輩。先輩は美人で、優しくて、でもどこか気さくで、俺なんかにもフラットに接してくれた人だった。今思えば、いい雰囲気になったことも何度かあった気がする。でも、俺は一度も告白することなく、卒業とともに自然に疎遠になった。当時の自分には、先輩があまりにも遠い存在に思えたのだ。
「……覚えてないよな」そう思いながら、俯きがちにレジへ向かった。本を差し出し、無言で会計を済ませようとしたそのとき。
「篤志くんよね?」ふいに名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
「えっ……」驚いて顔を上げると、真理恵さんはにこりと微笑んでいた。
「やっぱり。久しぶりね」その瞬間、俺の胸の奥にしまい込んでいた感情が、一気に沸き上がるのを感じた。
「……はい」声が上ずる。覚えていてくれた。その事実が、妙に嬉しかった。
「私、もうすぐ仕事終わるの。ちょっと待っててくれない?」思いがけない誘いに、俺はただ頷くことしかできなかった。
そして10分後——
「お待たせ」店の出口から出てきた真理恵さんを見た瞬間、俺は確信した。
——ああ、俺はまだこの人が好きなんだ。高校を卒業して何年も経つのに、心の奥底に残っていたものが一瞬で甦る。
彼女は俺を見上げると、「ちょっとしゃべらない?」と笑顔で言った。そうして、俺たちは近くのカフェに入った。
「どうしたの? あんまりしゃべらないね」目の前で微笑む真理恵さんに、俺は言葉を詰まらせた。いや、話したいことは山ほどあるのに、言葉が出てこない。
「……真理恵さんが……」ようやく絞り出した言葉は、途中で途切れた。
「相変わらずね!」真理恵さんは笑いながら、俺の肩をバシッと叩いた。その瞬間、少しだけ緊張が解けた気がする。それからは、昔話や近況をたくさん話した。彼女は結婚していたが、色々あって離婚し、最近また地元に戻ってきたらしい。
「そっか……」気の利いた言葉が出てこない。けれど、俺はただ彼女の言葉に耳を傾けた。
「篤志くん、しばらくこっちにいるの?」
「一週間だけです」
「じゃあさ、明日どっか連れてってよ」突然の誘いに、俺は一瞬言葉を失った。
「え?」
「ダメ?」
「いや、そんなことないです。……どこに行きましょう?」
「うーん、久々に遠出したいな」
「じゃあ、ドライブにでも行きますか」
「うん、楽しみ!」まるで高校時代に戻ったような気がした。
翌日、俺は車で彼女を迎えに行った。待ち合わせ場所に立つ彼女の姿を見た瞬間、妙に胸が高鳴る。車を見て、彼女が目を丸くした。
「えっ、もしかして……」
「高校のとき、欲しいって言ってた車です」
「うわー、本当に買ったんだ!」
「格好いいでしょう?」つい、熱を込めて語ってしまう。すると、彼女はクスクスと笑った。
「ほんと、昔から車のことになるとすごいおしゃべりになるね」
「……そうでした?」
「そうよ。絵も、車の絵ばっかり描いてたし」懐かしい記憶がよみがえり、俺たちは笑い合った。その日は、何の気負いもなく、ただ楽しく時間を過ごした。
「また会える?」帰り際、彼女がそう尋ねた。
「もちろん。暇ですし、いいですよ」俺がそう答えると、彼女は笑顔を見せた。
「じゃあ、明日もどこか行こうよ」それから、俺たちは四日間、ずっと一緒にいた。
最終日の夜、夜景を見にドライブウェイを走った。
「うわぁ、綺麗……」彼女はフロントガラス越しに、満天の夜景を見上げた。
「嫌なことも忘れられるね」そう呟く横顔は、どこか寂しそうだった。けれど、すごく綺麗だった。
「もう帰るの、明後日だよね……」次第に口数が減る彼女。
「もう、会えなくなるのかな……」その言葉を聞いた瞬間、俺は衝動的に彼女を抱きしめていた。
そして、俺たちは、抑えきれない想いのまま、一線を越えた。
車の中とはいえ周りから見えているかもしれないという緊張感もあって、異常な程興奮していた。
ましてや俺にとって初体験だった。無我夢中で彼女を抱いていた。そして気づけば、数時間が経っていた。
「篤志くん、ごめん……もう無理だよ」彼女の息が乱れながらそう呟く。
「……ごめん」
「ううん、いいの。……ありがとう」その声は、どこか切なげで、愛しさに溢れていた。俺は彼女を抱きしめたまま、そっと囁いた。
「先輩……明後日、迎えに行きますから。俺と一緒に東京に行きましょう」彼女は何も言わず、ただ俺の腕の中で頷いた。
約束の日、俺は彼女を迎えに行った。けれど——待ち合わせ場所に彼女の姿はなかった。何度スマホを確認しても、彼女からの連絡はない。
「……先輩?」何度か電話をかけてみたが、応答はなかった。嫌な予感が胸を締めつける。まさか、昨日のことを後悔しているのか——
それとも、俺のことなんて、ただの一時的な気の迷いだったのか…俺は、待ち合わせ場所に立ち尽くし、3時間も彼女が来るのを待った。だが、時間だけが無情に過ぎていく。
そして、俺は諦め一人、車を走らせた。地元を離れ、東京へ戻る道すがら、何度も何度も彼女のことを考えた。
俺にとって、彼女はずっと憧れだった。それが、ようやく掴めたと思ったのに——
「……やっぱり、夢だったのかな」そんなことを思いながら、俺はハンドルを握りしめた。
どれくらい走っただろうか。高速道路を降り、自宅へと続く道を進む頃には、もうすっかり夜になっていた。
家に着くなり、靴を脱ぎ散らかし、そのままベッドに倒れ込む。頭がぐるぐるとして、何も考えられなかった。
それが、悲しさなのか、悔しさなのか、分からなかった。ただ、胸の奥がずっと痛かった。
そして、スマホが鳴ったのに気付いたのは、それから何時間も経ってからだった。
画面には、彼女からのメッセージが表示されていた。
「ごめんね、会うとそのままついて行ってしまいそうだったから。全て片付けたら、そっちに行くね」
——片付ける?何を?
一瞬、何を意味するのか分からず、俺はぼんやりと画面を見つめた。けれど、その一文が、俺の心を一気に揺さぶった。
彼女は——俺との未来を考えてくれている?俺は、再びスマホを握りしめると、震える指でメッセージを打ち込んだ。
「待ってます」それだけを送るのが、精一杯だった。
それから数日間、俺は落ち着かなかった。彼女が本当に来るのか、それともただの気まぐれだったのか——何度も何度も考えた。
そして、ある日の夕方。
俺の家の前に、一台のタクシーが停まった。大きなキャリーケースを抱え、少し照れたように笑う彼女がそこに立っていた。
「……来ちゃった」その瞬間、俺は一気に駆け寄り、彼女を強く抱きしめた。
「……本当に来たんですね」
「うん。……篤志くん、怒ってる?」
「怒ってなんか……ないです」
「ごめんね……」彼女の腕が、そっと俺の背中に回る。彼女は俺の胸に顔をうずめ、小さく呟いた。
「篤志くんが、待っててくれるって分かったから」その言葉に、俺はもう何も言えなくなった。
ただ、彼女の髪を優しく撫でる。
「……先輩」
「ん?」
「明日、籍いれましょう!」一瞬、彼女の肩がピクリと震えた。そして、ゆっくりと顔を上げると、驚いたような顔をしたあと——
「……ほんと、昔からいきなり言うよね」そう言って、微笑んだ。
俺は、彼女を抱きしめたまま、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
そして、彼女もそっと、俺の背中を抱きしめ返してくれた。
外では、風が静かに吹いていた。
けれど、この場所だけは、誰よりも温かかった。
——俺たちの未来が、ようやく始まった。
YouTube
現在準備中です。しばらくお待ちください。