冷たい朝の風が頬を叩く。まだ陽が昇りきらない暗闇の中、自転車のペダルをこぐ音が静まり返った街に響いていた。俺、中田英明、42歳。日課として始めた新聞配達も、もう半年になる。普段はスーパーで働いているんだが、体を動かす健康的なことがしたいと思ったのと、それで少しでも稼げるなら一石二鳥だと軽い気持ちで始めたんだ。新聞配達は朝だけの仕事だから、本業のスーパーの勤務にも支障はない。毎朝同じコースを回りながら、この静かな時間が俺にとっての特別な癒しになっていた。けれど、最近その平凡なルーティンに少し変化が訪れていた。
その始まりは、大きな屋敷の前だった。朝刊をポストに入れようとすると、門の前で佇む一人の女性の姿が目に入った。彼女は美しく整った顔立ちに、上品で柔らかい雰囲気をまとっていた。遠目からでもただ者じゃないと分かるオーラがある。だが、彼女の瞳の奥にはどこか物憂げな影が宿っているようにも見えた。
「おはようございます。」その日、彼女は俺に話しかけてきた。朝の冷えた空気の中で、彼女の声は驚くほど澄んでいた。名前は智子さんと言うらしい。どうやら夫を亡くしてこの屋敷に一人で暮らしているらしい。
最初は軽い挨拶だけだったが、それから彼女は俺が屋敷の前を通るたび、朝の挨拶をしてくれるようになった。智子は決して馴れ馴れしくするわけではなく、どこか控えめで距離を保つ態度だった。それがかえって、彼女の持つミステリアスな魅力を際立たせていた。どうしてこんなに美しい人が俺なんかに話しかけてくれるんだろう。嬉しさと居心地の悪さが交互に押し寄せてくる。
ある日、智子さんが俺にそっと缶コーヒーを手渡してくれた。「いつも朝早くご苦労さま。この寒い時期、大変でしょう?」その一言が、どうしようもなく心に染みた。自転車で冷え切った指先に缶の温かさがじんわりと伝わり、俺はその場で何度も礼を言った。
それからというもの、俺は彼女との朝の交流が俺の密かな楽しみになった。彼女の家は、配達の最後の方だったので、順番を勝手に最後に変えた。それくらい少しでも彼女との時間を楽しみにしている自分がいた。毎日ポストの前で待っている彼女が、俺に軽く手を振ってくれるだけで胸が高鳴る。彼女は控えめな微笑みとともにコーヒーや小さな手作りのおにぎりを手渡してくれることもあった。「いつもこんなにしてもらってばっかりで、申し訳ないです。」俺がそう言うと、智子はふっと微笑みながら答えた。「いいのよ。あなたの優しい顔を見ると、それだけで癒されるから。」
彼女の言葉は妙にドギマギさせられ、毎回心に残った。智子が何を思って俺にこんなに親切にしてくれるのか、その理由はまったく分からなかった。ただ、それ以上深く聞くのはためらわれ、いつまでも聞くことが出来なかった。
ある朝、今日は本業が休みだから少し話せるかなっと楽しみにしながら配達に向かうと、智子から「今日は、ちょっとお茶でもどうですか?今日はスーパーはお休みですよね」と誘ってきた。「ええ?どうして知っているんですか?」と聞き返すと、「今日はスーパーがお休みの日ですよね」と返答があった。どうやら彼女は僕がスーパーで働いているのを知っていたようだ。というか元々はスーパーで働いているのを見かけたのに新聞配達もしているから、すごく気になったそうだ。
「ありがとうございます。じゃあ、少しだけ。」俺は自転車を門の前に止め、智子の屋敷に足を踏み入れた。広いリビングに通されると、落ち着いた家具や静かな空間が彼女の人柄を映し出しているようだった。高価そうな家具が並ぶ中でも、どこか温かみを感じさせるのが不思議だった。
智子はキッチンに立ち、手際よく紅茶を淹れる。湯気とともに、焼きたてのクッキーの甘い香りが漂ってきた。「どうぞ、これ私の手作りなの。」そう言って微笑む智子を見て、俺の胸は一瞬締め付けられるような感覚に襲われた。ふと彼女が俺の方を向き、優しく問いかけた。「お仕事、大変でしょう?毎朝、朝早くから配達をして。」
「いや、健康のために始めただけですし、どうせならお金も稼げたらと思って。ハハッ」そう答えながらも、目の前に座る智子の仕草や柔らかな声に、心臓がやけに早く脈打っているのを感じていた。近づきたい、でも彼女に踏み込みすぎてはいけない……そんな葛藤が頭の中をぐるぐると回る。
智子が目を伏せながら言った。「毎朝あなたを待つのが私の小さな楽しみなの。ずっとひとりぼっちだから…」その声は穏やかだったが、どこか哀しげだった。俺は言葉に詰まり、それ以上深く聞けなかった。
智子との時間が増えるにつれ、俺は自分の中に湧き上がる感情を抑えきれなくなっていた。彼女の仕草や香り、何気ない言葉一つ一つに心が揺さぶられる。彼女が一人で抱えてきた孤独を思うと、どうしても放っておけなかった。だが、それ以上に気になっていたのは、智子に対する既視感だった。どこかで見たことがある、いや、知っている……そんな不思議な感覚が、初めて会った時からずっと俺の中にあった。そしてある日、智子がふと口にした一言で全てが繋がった。
「子供の頃ね、新聞配達の人を待ってるのが楽しかったの。朝早くて叱られるんだけど、それでも待ってた。」
その瞬間、俺の中で昔の記憶が鮮明によみがえった。小学生の頃、近所に住んでいた幼馴染。俺が小学校の課題で新聞配達を1カ月手伝ったとき、毎朝玄関で新聞を受け取ってくれた女の子。それが、智子だった。
「もしかして……智ちゃん?」俺が名前を口にすると、智子は驚いたように目を見開いた。「覚えていてくれたの?」その声に懐かしさと安堵が混じる。
智子・・いや、智ちゃんはその後遠くへ引っ越ししていたから学校でも話したことは無かったんだ。数年前にこの町に戻ってきた矢先に夫を病気で亡くしたんだそうだ。
夫がいなくなってから、この家はただの大きな箱になってしまったの。何もかもが空っぽで……ずっと寂しくて…。でも、あなたをスーパーで見かけた時に、懐かしさが込み上げてきて…。話しかけようかと思ったら、今度は新聞を持ってきたの。もうなんだか勝手に運命っぽく感じちゃって…」そう言う彼女の手を、俺は思わずそっと握りしめてしまった。「これからは俺がいるよ。僕は君にずっと惹かれていたんだ。もう一人じゃない。」彼女の手を握りしめた瞬間、智子が少し驚いたように目を見開く。その瞳に映るのは不安と期待……そして、俺を受け入れてくれる優しさだった。
彼女の頬に触れると、智子は目を閉じ、小さく息を吸い込んだ。その仕草に、俺の心臓は跳ね上がる。そしてそのまま彼女をそっと引き寄せキスをした。そして彼女はしばらく僕の胸で泣いていた…。
次の朝もまた、俺は自転車に乗って新聞を配る。だが、智子の存在を感じることで、冷たい風さえ心地よく思えるようになった。新しい日常が、ゆっくりと俺たちを包み込んでいく。
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