「朋美さん、これは……もうこれ以上はダメだ。」浩司さんの言葉は、震えていた。その震えは、彼が私をどれほど思っているかを示しているのか、それとも……彼自身の罪悪感から来るものなのか。和室の障子が閉ざされ、部屋の中はほの暗かった。お互いの吐息が聞こえるほどの近さで、私たちはただ見つめ合っていた。障子越しに漏れる月明かりが、二人の間に切り裂かれるような影を落としていた。その言葉には迷い以上のものがあった……決意、あるいは自分を戒める力。
「わかっています……」
私の声もまた、どこか震えていた。それでも浩司さんの目を見つめたまま、私は動くことが出来ずにいた。彼の視線が逃げ場を失ったように揺れ動くのを見ていると、まるで私の気持ちを鏡に映したような気がした。浩司さんの手が、ほんの一瞬、私の手元へ伸びる…。が、その動きは止まった。けれど、その指先が触れた場所は、まるで燃えるように熱くなっていた。
「これ以上は……駄目だ」浩司さんは、ふと目を伏せた。『これはいけないことだ』と自分に言い聞かせるようなその仕草に、私の胸が締め付けられる。けれど、その視線の奥にわずかに揺れる感情……それが私に希望を与えてしまうのだった。
「もう、これ以上我慢は出来ません……」
そう口から出たのは、私自身からだった。言葉を発した瞬間、私は自分が何をしているのかをわかっていながら、その意味を深く考えようとする気力を失っていた。ただ、目の前の浩司さんの存在だけが私を支えてくれる。それが正しいことではないとわかっていても……。
窓から差し込む淡い光が、小さな和室の畳をやわらかく照らしていました。その光の中で、私は三味線を膝に抱え、一心不乱に手を動かしていました。隣には浩司さんが座り、穏やかな声で指導してくれている。浩司さんが私の手を掴んで正しい位置に導いた瞬間、弦を通じて彼の体温が伝わる気がした。その温もりが、私の心の中に禁じられた感情を染み込ませていく。
「指の位置が少し甘いな。ここは、こんな感じで。そう、もう少しだけ力を入れてみて。」
彼の声はまるで、音そのものが優しさを帯びているようで、聞くだけで心が落ち着きました。私はその声に安心感を覚えながらも、どこか後ろめたい気持ちが胸の奥底に巣食っていました。
夫がほとんど帰宅しないことには、もう慣れてしまっていました。愛人の家にでも入り浸っているのでしょう。家で夫を待つだけの生活に疲れ切り、期待すらしなくなった私は、ただ淡々と時を過ごすだけの日々を送っていたのです。夫の帰りを待つことが無意味に思えたのはいったいいつからだろう……。その答えは、自分でも思い出すことは出来ませんでした。
ある日、いつものように三味線を弾いていると、弦が切れました。勢いよく跳ねた弦が私の指に食い込み、鋭い痛みが走ります。
「イタッ」
「朋美さん!」義父の浩司さんが慌てて駆け寄り、私の手を取りました。その手は驚くほど暖かく、腫れた傷口にそっと濡れハンカチを押し当ててくれます。その仕草があまりにも慎重で、まるで私の心そのものを癒してくれるかのようでした。
「……ごめんなさい、大丈夫です。」私は小さな声でそう言ったけれど、心の中では抑えきれない程の感情が渦巻いていました。この人の優しさに触れるたび、私は何かを失っていくような気がする……そんな感覚が胸の奥に広がっていくのです。
義父の浩司さんは若くして奥さんを亡くし、それでも男手一人で夫を育て上げたと聞いています。ただ、自分勝手な男に育ってしまったといつも申し訳なさそうに謝ってくれます。その息子が私の夫ですが、結婚当初の彼の優しさはどこへ行ってしまったのでしょう。まるで詐欺ではないのかというほどいまの夫は、家にいないばかりか、私の存在すら見えていないようでした。
けれど、義父の浩司さんは違いました。その穏やかで一貫した態度が、私の心を支え、同時に心を揺さぶるのです。
夫が家を帰ってこない日が続くにつれ、浩司さんとの二人きりの時間が増えました。三味線の稽古をしている時間だけではなく、日常の些細な会話やお茶を飲むひととき……それらが私にとって特別な意味を持つようになっていきました。
「朋美さん、こんな遅くまで、すみませんね。」
「いえ……お義父さんと話す時間が、私にとっても唯一の安らぎ……」
言いかけて、私は口をつぐみました。彼に気持ちが伝わってしまいそうで怖かったのです。それでも、浩司さんは黙ったまま私の顔を見ていました。その眼差しには、暖かさと困惑が入り混じった複雑なものだったように感じました。
冬のある晩、三味線の稽古が終わったあと、無意識のうちにお義父さんに寄りかかってしまったのです。優しい浩司さんは私を受け止め、やがて静かに口を開きました。
「朋美さん……やっぱり、これは……駄目だ。」私は答えられず、ただその場に立ち尽くしていました。自分の感情がどこまで彼に伝わっているのか……その答えを知るのが怖かったのです。
「でも、ワシは……」浩司さんの言葉が途切れる。その続きを待ちながらも、それを聞くのが恐ろしく、私は畳に目を落としました。
「ワシは、朋美さんを……」その言葉を最後まで聞いたとき、私はもう、戻れなくなっている自分に気づいていました。
それからの私は、もはや後悔も罪悪感も感じなくなっていました。浩司さんもまた、同じだったのかもしれません。その夜、浩司さんが私の名前を呼んだ。声は低く、かすかに震えていた。そして次の瞬間、私たちはすべての理性を忘れ、抱き締め合っていた。夫が帰らない夜、私たちは狂ったように共に過ごし、そして共に堕ちていきました。誰もその事実に気づくことはなく、静かに、けれど確実に二人は泥沼の深みに進んでいくのです。
最後に私が見た浩司さんの目には、かすかな涙が光っていました。それが何を意味していたのか、いまでもわかりません。それでも、彼の腕の中にいる瞬間だけが、唯一私を満たしてくれる。けれど、満たされるたびに、何かが壊れていくのを感じていた。
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