敦は、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張を感じながら、結婚の挨拶へとみさきの実家へ向けて車を走らせていた。この結婚の挨拶は、彼にとって人生の新たな始まり…のはずだった。希望と不安が胸を満たし、鼓動は戦いの前夜の太鼓のように鳴り響いていた。しかし、この日が彼の人生に予期せぬ展開をもたらすことになろうとは、この時はまだ知る由もなかった。
実家のドアを開けると、暖かい空気が敦を包み込んだ。みさきの家族は、彼を優しく迎え入れた。しかし、姉と目が合った瞬間、敦は体中の血の気が引くのを感じた。その女性は、かつて敦が一度だけ訪れた筆おろしの為に一度だけ利用した風俗で出会ったまりえだった。女性経験のなかった敦を優しく導いたその人が、みさきの姉だったのだ。
「ふーん、良い人見つけたんだね。」まりえは柔らかな笑みを浮かべながら、まるで何かを知っているかのような視線を敦に向けた。その言葉には、過去を知る者だけが持つ鋭い矢のような含みがあった。敦の額には汗が滲み、頭の中は真っ白だった。家族は何も気づかず和やかな会話を続けていたが、敦の胸の内では激しい葛藤が渦巻いていた。
食卓の席に着くと、まりえは何度何度も敦に視線を送り、時折小さな笑みを浮かべた。そのたびに敦は居心地の悪さを感じ、言葉を失った。家族の話題に相槌を打つことすら難しく、まるで自分だけが別の世界に取り残されているようだった。
夕食後、敦はどうしても耐えきれず、「少し外の空気を吸ってきます」と言い訳をして庭に出た。冷たい夜風が敦の熱を帯びた顔を冷やしたが、それでも動揺は収まらなかった。しばらくして、後ろから足音が聞こえ、まりえが現れた。
「ねえ、覚えてる?」まりえは微笑みながら問いかけた。
「……何のことか、わかりません。」敦は震える声でとぼけたが、まりえの目はその言葉を容易く見抜いた。
「そうなの?私は敦くんのこと、忘れられないよ。あの夜……私にとっても初めてだったのよ。」まりえは、低い声でぽつりと漏らした。その目は、どこか遠い過去を見つめるようだった。まりえは優しく囁くように言い、少し近づいてきた。敦は後退しようとしたが、背中が塀にぶつかり逃げ場を失っていた。
「みさきには内緒にしておいてあげる。でも……私も寂しいのよ。」まりえの言葉は柔らかいが、その響きにはどこか危うさがあった。
翌日、敦はほとんど眠れないまま朝を迎えた。まりえは朝食の席でも自然なふるまいを見せ、家族と笑い合っていた。しかし、彼女の視線が敦に向けられるたび、その笑みには薄い鋭さが含まれていた。敦は食事が喉を通らず、ただ時間が過ぎるのを待った。帰り際、まりえが玄関で敦に近づき、小声で言った。「また会えるの、楽しみにしてるね。」その言葉には、甘さと毒が混ざり合っていた。敦は答えることができず、ただうなずくしかなかった。
車の中で、敦は荒い息を吐きながらハンドルを握りしめた。彼の心には、みさきへの罪悪感とまりえへの恐怖が渦巻いていた。この関係が続けば、すべてを失うかもしれない。しかし、まりえの存在は、敦に抗いがたい影響を与えていた。彼のスマホが震え、まりえからの短いメッセージが届いた。
「次はいつ来るの?」敦は返信することすらできず、ただスマホを握りしめるだけだった。その画面には、まりえの名前が冷たく光っていた。
それから数日後、みさきの提案でまた彼女の実家を訪れることになった。どうしても断る口実が見つからず、敦は嫌な予感を抱えながら車を走らせた。再訪の理由はみさきの両親と具体的な結婚式の日取りを話し合うためだったが、敦にとってはまりえとの再会が何よりも恐怖だった。
家に到着すると、まりえは家族の中に溶け込むように微笑んでいたが、その視線が一瞬敦に留まり、唇の端が僅かに上がったのを敦は見逃さなかった。その夜、家族で鍋を囲みながら夕食を楽しむ中、まりえは何気なく敦の隣に座った。まりえがわざと足を延ばして敦のふとももを足で触ってくる。その瞬間体が氷のように固まってしまう敦だった。
食後、みさきの両親が結婚式の式場案内のパンフレットを広げ、熱心に話し合う中、まりえが敦の隣にそっと腰を下ろした。
「ねえ、敦くん。ドレスの試着とか、付き合ってあげるの?」その声は穏やかだったが、すぐ隣から感じる体温と視線に敦は冷や汗が背筋を伝うのを感じた。
「こんなのが、みさきに似合いそうだけどね。」まりえがふと手を伸ばし、敦の袖口を軽く引いた。周囲は二人のやり取りに気づかないまま、笑顔で会話を続けている。
「でもね、敦くん……本当にみさきだけで満足してるの?」低い声が耳元に響き、敦は咄嗟に体を引いたが、その仕草が逆に不自然さを醸し出した。みさきが振り向く気配に、まりえの唇の端がわずかに持ち上がった。
「ちょっと外に出ない?」まりえの誘いを断る言葉が見つからず、敦は無言のまま従った。「ちょっと敦さん連れてコンビニに行ってくるねー」まりえの言葉に誰も不審に思わず返事だけが帰ってくる。夜の冷たい空気が頬を撫でる中、まりえは突然敦の腕を掴み、低い声で囁いた。「ねえ、本当はどう思ってるの?私のこと、あの時のこと。」
「やめてください、みさきの姉なんですよ。」敦の声には必死さが滲んでいた。
「そうね。でも、私たちだけの秘密があるでしょう?」まりえの声は柔らかいが、まるで鋭い刃のように敦の心をえぐった。「じゃあ、内緒にして欲しかったら今日の所はぁ。キスでもしてもらおっかな」その言葉にまりえをはねのけ、走って家に戻ったが、まりえはその後コンビニの袋を持って何事もなく帰って来た。
それから数週間、まりえからの連絡は徐々に増え、内容は徐々に大胆になっていった。敦はその都度無視しようと努力したが、まりえの言葉は彼の心に重くのしかかった。
「秘密を守ってほしいなら、たまには会いに来てよ。」まりえからのメッセージは敦を追い詰めるように響いた。これ以上の関係が続けば、自分の人生が崩壊するのではないかという恐怖と、まりえへの抗いがたい魅力の間で揺れる敦。彼の苦悩は日に日に深まり、心の中で静かに壊れていくようだった。
一方で、みさきとの結婚準備は順調に進んでいた。みさきは敦の内心に全く気づいていない様子で、明るく未来を語っていた。敦はその笑顔を見るたび、罪悪感に苛まれながらも、まりえの存在を断ち切る方法を見つけられずにいた。
「俺は…どうしたら良いのだろうか…」
YouTube
現在準備中です。しばらくお待ちください。