「あなた、今までお世話になりました」その一言が、まるで冷たい刃物のように俺の心臓を貫いた。妻の微笑みが最後に焼き付いた光景となり、俺はその場に立ち尽くしていた。目頭が熱くなり、足は重くて一歩も動けなかった。
俺の名前は坂本隆一。今日、妻と離婚した。理由は夫婦交換サークルを利用したことにある。いや違う、たとえそのサークルに参加しなかったとしても、俺自身の問題だったのだ。
定年後、一日中顔を突き合わせる時間が増えるにつれ、俺たち夫婦の間には小さな不満が積もりに積もり、やがて大きな衝突となった。家中に張り詰める緊張感が漂い、些細なことで火花を散らす毎日が続いた。何をしても衝突し、ストレスが溜まる毎日。長年、家にいなかった人間が昼間からいるというだけで、妻にとっては鬱陶しい存在だったのだろう。だが、俺も42年間必死に働いてきた。そんな風に扱われると、余計に腹が立つのだった。
その閉塞感から脱することができたのは、友人が誘ってくれた夫婦交換サークルのおかげだった。性的な意味は含まない健全なサークルで、要は夫婦で一緒に飲み、他の夫婦とも交流することで新たな刺激を得る場だった。初めは良かった。妻と互いに欠点ばかり見えていたのが、他人との交流を通じて関係が劇的に改善した。始めはただの食事や飲み会だったが、座席を交換するルールがあり、それだけでもドキドキしたり嫉妬心でイライラしたり、感情が揺れ動いた。この刺激が俺たちの夫婦仲を改善させた。しかし、最終的に俺たちの関係を壊す原因となった。
ある日、友人夫婦から「坂本さん、今度旅行でもしませんか？もちろん夫婦交換して」と提案された。最初は断ったが、その日以降も幾度となく誘われ続けた。
その日も4人で飲みに行き、酒が回って気持ちが高揚していた。再び彼らからの提案があり、返答に躊躇している俺をよそに、妻はあっさりと「今からでもいいじゃない」と同意してしまった。その瞬間、胸に冷たい鉄の刃が突き刺さったようだった。完全に酔っ払った妻に驚きながらも、何とかその場をやり過ごした。しかし、妻がOKを出したことが頭に焼き付き、以降はそのことで頭がいっぱいになった。交換することを意識すると、相手の奥さん、真紀のことが気になり始めた。再三の誘いを受け、ついに俺たちは本当に交換することになった。
「本当にいいんだな？」妻は無言で頷いた。
その日以降、妻以外の人と過ごす自分、妻が他人に寝取られる、それだけで感情が揺れ動く。相手の奥さん、真紀は、こういう経験に慣れているのか若々しく、ハキハキした人だった。想像するだけで、心が締め付けられ、期待が膨らんだ。
朝、集合場所に着くと、挨拶もそこそこにお互いの車に乗り込んだ。妻はこちらに振り向くこともなく相手の助手席に入っていった。その光景に憤慨しながらも、俺も楽しもうと心に決めた。「今日はよろしくね」と真紀が言う。緊張していたが、彼女の気さくな雰囲気に次第にリラックスできた。
道中、観光地で昼食の時間になり、「お弁当とかあるの？」と問いかけると、「どこかで食べよ」と提案してくれた。その場で食事処を見つけお店に入った。「メニューはこれで良い？」真紀は軽く頷き、食事を共にした。俺は若い頃を思い出すような楽しい気分になれた。このまま旅館に行くのかと内心ドキドキしながらも、そうこうするうちに無事に旅館にたどり着いた。
露天風呂上がりの真紀を見ると、理性の抵抗もなく、そのまま朝を迎えていた。「おはようございます」真紀にコーヒーを入れてもらい、最高の朝だった。朝食を済ませ、旅館を後にした。
だが、帰りの車中では会話が少なく、真紀は眠ってしまっていた。彼女の家に着き、「着きましたよ」と声を掛けると、「すみません、寝てしまってましたね」と謝られた。「また行きましょうね」と声を掛けたが、彼女は微かな微笑みを浮かべ「ありがとうございました」と車を降りた。なんとなく違和感を感じながらも自宅に帰ると、妻は既に帰宅していた。
「おかえり、どうだった？」と尋ねられ、「おまえこそどうだったんだよ」と返す。「うん、楽しかったよ」と言われ、「俺も楽しかったよ」と返した。
旅行は無事に終了したと思っていたが、それ以降、妻との関係が変化し始めた。以前のように衝突することはなくなったが、4人で会うこともなくなった。妻が友達とおでかけすることが増え、家を空けることが多くなった。そんな日々が続いたある日、妻から「サインしてくれる？」と離婚届を出された。
突然の離婚届に「何言ってるんだ？」と驚きを隠せずに返すと、妻は真剣な眼差しで「他の人と比較して、あなたとは最後まで一緒にいられないってわかったの」と静かに言い放った。その言葉は、心に深い裂け目を残し、痛みがじわじわと広がっていくのを感じた。妻は俺以外の人を知ることで、もう一緒にいられないと感じたのだ。この年になって離婚か。よく聞く熟年離婚だ。きっかけは夫婦交換だった。拒否しようにも、お互いが納得して始めたことだ。結局、しぶしぶサインした。
妻は最後に「あなた、今までお世話になりました」と言い、柔らかな笑みを浮かべて去っていった。数日間、俺は放心状態だった。しばらくして、俺は真紀に連絡を取り、事情を説明して改めてまた旅行に行かないか誘った。
「隆一さん、はっきり言わないとわからないようですね！」
「女性は家政婦やあなたの便利な道具じゃないんですよ？」「あの旅行の日の私の顔を覚えていますか？」と一喝された。その自己中心的な考え方が出て行かれた理由なのだと説教された。その時、あの旅行帰りに真紀とほとんど言葉を交わさなかったことを思い出した。たった1日ですらそう思わせてしまっていたとは。俺は全てを失ってからようやく気付いたのだ。
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