「今日だけは、俺と夫婦になってくれませんか?」
俺は、自分でも驚くくらいの思い切りでその言葉を口にした。美沙さんの耳元でそう囁くと、彼女の肩がほんの少し震えたのがわかった。彼女の心臓の鼓動が感じられるほど近くにいたのに、その瞬間、俺の鼓動も同じくらい激しく動いていた。
美沙さんは俺の兄・孝明の妻であり、俺にとっても特別な存在だった。結婚してからの美沙さんは、家族に尽くし、二人の子供たちを大切に育てている。彼女のその献身的な姿に、俺はいつも感心し、そしてどこか嫉妬していた。なぜ、彼女が自分のものではないのかと。そんな思いが頭をもたげるたびに、自分を責め、どうにかして気持ちを抑え込んできた。
だが、今回の旅行でその気持ちが溢れてしまった。
俺たちは山奥にある小さな温泉旅館に来ていた。元々は家族旅行として計画されていたものだったが、出発直前に兄の孝明が急な仕事のトラブルで行けなくなり、俺が代わりに同行することになったのだ。兄の代わりに、家族と共に過ごすなんて、普通なら喜ぶべきことかもしれない。しかし、俺にとっては複雑な気持ちだった。家族を守るべき兄の役目を、自分が果たすことになるなんて、妙な皮肉だと思った。
「おじさんが来てくれるの?やったぁ!」
子供たちが無邪気に喜ぶ姿を見ていると、そんな感情は消し飛びそうになる。彼らは俺にとってもかけがえのない存在だ。何度も一緒に遊ばせてもらったし、俺を頼りにしてくれる姿が純粋に可愛く愛おしい。そんな彼らの期待に応えるべく、俺は今回も精一杯楽しむことにした。
旅館に到着すると、涼やかな風が俺たちを迎えてくれた。緑豊かな山間に広がる風景は、都会の喧騒から離れた別世界で、まるで時間がゆっくりと流れているかのようだった。子供たちは早速川で遊びたがり、俺も一緒に準備を始めた。川のせせらぎに耳を澄ませると、自然と心が安らいでいく。
「美沙さんも、川で一緒に遊びませんか?」
俺は思わず彼女を誘った。彼女が穏やかに微笑み、頷く姿に、胸が少し高鳴った。
「実は準備万端です」
そういう彼女はワンピースをゆっくりとたくりあげる。白い足が露わになり俺はドキッとした。彼女は水着を既に着ていたのだ。水着とはいえほとんど下着と変わらない。俺は自分でも赤面するのが分かるくらいアタフタしてしまった。ごまかす為に子供たちの手を引っ張り川まで走っていった。
川の冷たい水が足を包み込み、子供たちが無邪気に遊ぶ姿を見守りながら、俺たちは何度も目を合わせた。そのたびに、俺は心が揺さぶられるのを感じていた。
夜が訪れ、温泉に浸かる時間がやってきた。部屋にある温泉に俺と子供たちが一緒に入る。相手するのに疲れた俺は「ちょっと休憩な」と言い星空を見ながら黄昏ていた。するとその時、子どもたちが美沙さんを連れてきたのだ。一緒に入ると駄々をこね無理やり連れてきたみたいだ。体をタオルで巻いているが色白の体に俺は見とれてしまっていた。
「そんなに見ないでください」
「あ、あぁ、すいません。俺は出ますね」彼女の体を見た瞬間、俺はのぼせそうになり、慌てて風呂場から逃げるように出て行った。飛びきりのハプニングはあったが、温かい湯が疲れた体を癒し、日常の喧騒が遠く感じられた。風呂から上がると子供たちは疲れ切ったのか早々に眠りにつき、俺と美沙さんだけが残された。
「美沙さん、少し飲みますか?」
俺は勇気を振り絞って提案した。彼女は少し驚いたようだったが、頷いてくれた。温泉旅館の部屋でワインを開け、二人きりの静かな時間が流れた。俺たちは仕事や子供たちのこと、そして兄との思い出話を語り合った。だが、会話が途切れた瞬間、俺の胸に秘めた思いが抑えきれなくなった。
「美沙さん、今日だけは俺と夫婦になってくれませんか?」
その言葉を口にした瞬間、俺の心臓は爆発しそうだった。彼女がどう答えるか、息を飲んで待った。美沙さんは驚いた表情を浮かべていたが、やがて静かに頷いた。
「いいわ、今日だけね」
その言葉を聞いた瞬間、俺は喜びと罪悪感が入り混じった複雑な感情に襲われた。兄を裏切ることになるのに、俺の心はどうしても彼女を求めてしまう。それは、一瞬の安らぎなのか、それとも逃れられない誘惑なのか、答えは自分でも分からなかった。さらに横には眠っている子供たちがいる。どう言葉で表現して良いのかわからないくらいの興奮が体を襲っていた。それでも美沙さんと過ごすこの一夜は、どうしても手放せなかった。
浴衣姿の美沙さんが俺に近づき、二人はその夜、一夜限りの夫婦として過ごした。声を出せない状況ながら、彼女の温もりを感じ、俺はこの瞬間が永遠に続いて欲しいと願っていた。が、それが叶わないこともちゃんと理解していた。
翌朝、少し早く目が覚めた俺は、窓から見える山々の景色をぼんやりと眺めていた。心の中には、昨夜の出来事が鮮明に残っている。そんな俺を後ろから、美沙さんが静かに抱きしめてきた。
「昨夜はありがとう。美沙さんと過ごせて、本当に幸せでした」
俺の声は少し震えていた。彼女の答えを聞くのが怖かったが、美沙さんは優しく微笑んで答えてくれた。
「こちらこそ、ありがとう。あなたのおかげで、素敵な思い出ができました」
その言葉に、俺の心は少しだけ救われた。だが、それでも罪悪感は消えなかった。俺たちは元の生活に戻り、美沙さんとは普通に接するようになったが、あの日のことを思い出すたびに、心が揺れる。
あの旅行からもう一年が経つが、俺の胸には今でもあの一夜の記憶が焼き付いている。美沙さんは相変わらず兄の良き妻であり、子供たちの優しい母であり続けている。俺は、そんな彼女を遠くから見守りつつ、あの日のことを決して忘れることはないだろう。
しかし、これ以上彼女に迷惑をかけることはできない。俺は、彼女への思いを心の中に閉じ込め、自分にふさわしい誰かを見つけて、幸せな家庭を築こうと決意している。それが、俺ができる唯一の償いであり、彼女への最後の思いやりだと信じているから。