僕の名前は岡田重明、42歳で、どこにでもいるただのサラリーマンだ。ただ、人の心に入り込む催眠術師としての顔を持っている。そして、それを副業にしている。会社の同僚には内緒だが、この仕事の収入は本業を超えるほどだ。
催眠術と聞けば、多くの人は人の心を操る怪しげな技術を想像するだろう。だが、僕が行うのは「解放」のための催眠だ。誰かに囚われ、自分を見失った人が自分自身を取り戻すための手助け。依存という名の牢獄から解き放つことが、僕の役目だ。
ただ、本当のことを言えば、僕自身、この力が時にどれほど危険なものなのか、身をもって理解しているつもりだ。心の奥底に一度植え付けられた暗示は、傷のように深く、簡単には消えない。それが依存を断ち切るためであれ、あるいは別の理由であれ……催眠は、心に痕跡を残す。暗示をかけるたびに、その痕跡は相手だけでなく、施す側である僕自身の心にも薄い影を落としている気がしていた。
ある日、一人の女性を夫から解放してほしいという依頼が舞い込んできた。依頼主は彼女の両親だった。話によれば、彼女は夫に対して異常なほど依存しており、まるで洗脳されているかのようだという。しかも、その夫は横暴で、日常的に彼女を傷つけているらしい。暴力を振るわれているのに、それでも彼女は夫から離れようとせず、親の言葉すら届かないというのだ。
「わかりました。引き受けましょう」
僕は依頼を受け、いつものように彼女の心にそっと触れ、夫への依存を少しずつほどく暗示をかけた。こうした仕事は手慣れたもので、催眠にかかった人は目が覚めたように新たな人生を歩み始める。そして、その後もほとんどの場合、依存していた状態には戻らない。
今の僕は人助けのためだけにずっとこの力を使っている。それが僕の自負だ。催眠術という危うい力を用いるからこそ、僕は正しい目的のために使わなければならない、と自分に言い聞かせている。そう、自分のためにこの力を使ってはいけない……。
けれど、一度だけ、僕はその禁を破ってしまったことがある。彼女の名前は、ミナミ。今の僕の妻だ。
彼女はかつて、同じ職場で僕を支えてくれていた。気配りができて、いつも明るくて、周りを和ませる存在だった。些細なことでもすぐに気づき、そっとサポートしてくれる彼女の姿は、僕にとってかけがえのないものになっていった。彼女の何気ない微笑みや、優しさに触れるたびに、僕はどんどん惹かれていった。
彼女が疲れた僕に「お疲れさま」と微笑みかけるたび、僕の心に灯がともるような気がした。その何気ない優しさが、僕にとってはどれほど特別なものだったか。けれど、彼女にとって僕はあくまで「同僚」でしかなかった。何度か食事に誘っても、彼女は穏やかに距離を保ったままだった。その距離が、僕にはどうしようもなくもどかしかった。そして、いつしかそのもどかしさが、心の中で苦しくてたまらない「渇望」へと変わっていった。
そうして僕は、ついに決意してしまったのだ。彼女を手に入れるために、禁断の力を使うことを。
「ほんの少し、彼女の気持ちが僕に向いてくれればそれでいい」
そう自分に言い聞かせ、彼女が僕に興味を抱くように、ほんの小さな暗示を彼女の心に植え付けた。完全に彼女を支配しようなどとは思わなかった。だが一度でも心の扉を開けば、あとは自然に恋愛感情が芽生えるはずだと信じた。
結果は、思い通りだった。数週間後、ミナミは僕に対して微笑みを向け、他の誰でもない「僕」にだけ優しい言葉をかけてくれるようになった。そして、僕たちは交際を始め、やがて結婚した。
今、僕は彼女と幸せな日々を送っている。愛する妻と穏やかな日々を築いている。もちろん、あの時の暗示はすでに解いている。彼女の気持ちは今や本物で、彼女自身の心から僕を愛してくれているはずだ。……そのはずなのだが。
時折、ふとした瞬間に彼女が僕に向ける微笑みを見るたびに、胸の奥が冷たく締め付けられるのを感じる。あの微笑みは本当に彼女自身のものなのか? それとも、僕がかつて心に植え付けた暗示が今もまだ残っているのか?そんな疑念が、僕の中で膨らんでいく。
「何か考え事でもしているの?」
ミナミが不思議そうに僕を見つめている。その無垢な瞳に映る自分の姿が、なぜかひどく滑稽で、哀れなものに見えてしまう。
「いや、なんでもないよ。ただ……君がいてくれて、幸せだと思ってね」
僕は微笑んでごまかし、彼女の手を握りしめる。だが、その手の温もりがどこか遠く、蜃気楼のように揺らめいて、現実感が薄れていくのを感じる。彼女が本当に僕を愛してくれているのか、その手の温もりを信じたくても、胸の奥に残る冷たい影が消えることはない。
催眠術とは、恐ろしいものだ。他人の心に入り込むことは思った以上に容易い。そして、一度でもその力を使ってしまえば、相手が向ける笑顔も、かけてくれる言葉も、すべてが作り物に思えてしまう。相手だけではない。施した僕自身の心にも、痕跡のようなものがこびりついて離れないのだ。
今はもう二度と、自分の欲望のためにこの力を使わないと誓っている。そう、今は……。
けれど、僕が彼女を手に入れる「きっかけ」として使ったのが催眠術だったことは、もちろん彼女には内緒だ。
そうして僕は、今日も心に重く沈む秘密を抱えたまま生きている。彼女が僕に微笑むたび、その微笑みが真実なのか、あるいは僕が作り出した幻影なのか……。その答えを知る勇気など、僕には到底持てないだろう。