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取引先の妻

いつまでも若く禁断背徳

 両親が大切につけてくれた名前に反するとは思っていない。彼女との逢瀬は彼女を救うことだから。正しいのだ、と言い聞かせた。 俺は伊藤正太郎。正しいと書いて正太郎だ。両親に誠実に真面目に育って欲しい願いから付けられた名である。歳は42歳で、毎日妻と子を養うためにバリバリ働いている元気が取り柄だ。職は営業をしている。決められたお客様のところへ訪問し、商品を補充する。たまに、新商品が出たりすると、お客様に売り込みに行くこともある。

「こんにちはー!」

 俺が元気よく介護施設へ訪れたら、皆元気に挨拶を返してくれる。俺は一人一人の顔を見ながら挨拶をするのが楽しくて仕方ない。営業は俺の天職だった。

「おかえりなさい」

 会社から帰り、妻が出迎える。

「学は?」

 学とは今年4歳になる愛息子だ。

「もう寝ちゃってるわ」

「そっか。起こさないように顔だけ見るか」

 俺が遅くまで働いているせいで、学には寂しい思いをさせているのかもしれないと、あどけない寝顔を見ながら思った。

「どこか、旅行に連れて行ってやるのもいいんだけどな」

「じゃあ、新しくできたテーマパークへ連れて行ってあげましょうよ」

 妻が後ろから俺の背中にぴったりとくっついた。妻の温もりを感じて、心がじんわりと温かくなる。

「そうだな。予定を立てようか」

「ええ」

と昨日話をしていたところなのに、翌日職場でいきなり部長から切り出された。

「え?温泉旅館借り切って泊まりの出張、ですか?」「そうだ。営業の腕の見せ所だぞ。結構な人が来るらしい」

「ちなみにいつなんでしょう」

 聞いたら、家族でテーマパークへ行く日だった。

まだ妻はシフトが決まっていないはず。まだスケジュールを動かせるか…?

 日頃、仕事のせいで家族とあまり過ごせていないから、今回の計画を立てたのに、仕事で潰していいものか。妻にはなんて説明しよう。

「あら、そうなの?」

 妻は理解が速かった。

「じゃあ、他の日にしましょうか」

 妻はシフト制で働いているので、スケジュールが読みづらい。そんな中、期日を変更してくれるのが、とてもありがたかった。

「それにしても、旅館ねえ。学にお土産買ってきてね」

「子供が好きそうなものあるかな?」

「無い…かもね」 夫婦二人で笑いあった。

この幸せを守るために、俺は仕事をするんだ。

 旅館宿泊当日。駅でレンタカーを借りて、部長と二人で旅館へ向かった。

「今日はお酒で粗相しないでくださいよ、部長」

「あはは。君も言うねえ。そうなったら君に任せるから」

部長の酒癖の悪さは知っているので、今日は飲まないでおこうとこの時は思っていた。

到着したら、もう取引先の人々が集まっていた。そうそうたるメンバーだ。その中でひときわ目立つ人物がいた。まっすぐに伸びた黒髪を肩くらいで綺麗に揃えて、顔は卵型で顔のパーツが絵に描いたように整っている。30代くらいの女性だ。しかし、一体誰だろう。取引先の人の中にあんなに美しい女性は見たことはない。

「誰なんだろうな」部長が小声で話しかけてきた。

「大方、誰かの愛人だろうな」続けて言うと、部長は皆の後ろについて、旅館の中へ入って行った。

俺は一人取り残され、なんとなく彼女を見ていると、ふと目が合った。彼女が一礼したので、こちらもお辞儀をした。

これが彼女との初めての交流だった。

「では、今日もお疲れ様」

「乾杯」

皆がビールや日本酒を浴びるように飲む中、俺はオレンジジュースを飲んでいた。そこに取引先の太田さんがやってきた。

「なんだ。君飲まないのか」

「はい。面倒事になりそうな気がして……」

「はは、さては君の上司のことを言っているのかな? 大丈夫だよ。君も安心して飲みなさい。おい、千代」

「はい」か細い声が聞こえて、駐車場で会った美女が俺の隣にやって来た。

「この子は千代という。私の妻だが、なんせ歳が離れすぎて話が合わんでな。歳が近いのだから、君が相手をしてやってくれないか?」 太田さんは50代だから20ほど歳が離れているのか。俺は思わずじろじろと千代さんを見てしまった。

「あの……」

「あ、すみません。あまりに綺麗なものですから、つい」

「いえ」 口数の少なそうな人だと思った。何を話していいか分からず、俺はどぎまぎしていた。

「何を飲まれますか?」彼女が俺のコップに瓶ビールを注ごうとしている。慌ててグラスを持ち、「すみません」と彼女に注いでもらった。

「太田さんは飲まないんですか?」

「千代、でいいです。太田さん呼びだと、旦那と被りますから」

なるほど、この人は口数は少ないけれども、いろいろ考えている人なのだと、その一言で分かった。だから、俺は遠慮なく「千代さん」と呼ぶことにした。

「じゃあ、俺は正太郎でいいですよ」

「えっ?」 彼女にとっては予想してなかった返答のようで、戸惑っている。しまった、調子に乗りすぎたか。

「あの……」

「……正太郎さん」

 彼女がぽっと顔を赤くして、俺の名前を呼ぶ。こっちまで恥ずかしくなってきて、注がれたビールを一気飲みした。酔いが回ってきて、段々と緊張が解れてきたのか、千代さんに色々聞いてみた。

「千代さんは、今日はどうしてこちらに?」

「主人から、会わせたい人がいると言われまして」

「会わせたい人ですか」誰なんだろう。会わせたくて、半分仕事の場に女房を連れてくるのはよっぽどである。彼女の顔を見ると、少し俯き加減でぽぽぽと顔を赤くして自分の指を弄っている。

「もしかして、俺? なーんて」彼女は手を両頬に添えた。これは確定なのだろうか。俺まで顔の温度が上昇した。恥ずかしさを紛らわすために瓶ビールを掴んだ。すると、彼女も瓶ビールを持つ。

「私が注ぎます」

「いえ、自分でやります」瓶ビールを取り合っているうちに周りが騒がしくなった。周囲を見渡すと、取引先の方々が俺と千代さんの押し問答を見ている。「お? もう取り合いっこはやらんのかね?」一番年長の会長さんがほっほと笑い、皆に解散を命じた。二人取り残された千代さんと俺は目を合わせた。

「飲みなおしましょうか」

「はい」二人で酌をしながら、瓶ビール一本を飲み切った。

 夜も更け、宴会場を出た俺と千代さんは、少しふらつく足取りで廊下を歩いていた。周囲には他の客もいない静かな空間が広がっており、明かりの灯る旅館の廊下がなんとも風情を感じさせた。

「外、少し寒いですけど……どうですか?夜風に当たりに行きませんか?」

「いいですね」二人は旅館の庭に出た。月明かりが美しく庭を照らし、夜の冷たい空気が酔いを醒ますように心地よかった。俺は息を吐きながら夜空を見上げた。

「こうしていると、家族を連れてきたかったなぁと思いますね」

少し寂しげな俺に千代さんの腕が軽く触れた。

「千代さん?」

「正太郎さんは、家族思いなんですね」いやあと頭をかきながら照れる俺は体の温度が上昇するのを感じた。反対に、彼女は少し寒そうだった。

「寒いでしょう。お風呂に入るといいですよ。お酒飲んだ後ですけど」

「では、一緒に入りませんか?」

「へ!?」 俺は腹の底から叫ぶ。日頃の声の大きさがここで現われるとは。

「この温泉旅館、貸し切り温泉があるんです」

「そうなんですね。いえ、そうではなくて、何故俺と?」

「ふふ」彼女が急に妖艶な笑みを浮かべたので、恐怖を感じた俺は蛇に睨まれた蛙のように縮こまった。

「正太郎さんが素敵な人だから」

「は、はあ」完全に彼女のペースとなってしまった。このままだと一緒にお風呂に入らざるを得ない。

「入ってやりなさい」後ろの縁側から声がかかる。振り向いたら、太田さんが立っていた。

「今日、私は君に千代を会わせてやりたかったのだよ」

「何故でしょうか?」

「千代が君に惚れてしまったからだよ」

 取引先の事務員をしていた時に俺に一目ぼれをしたそうだ。

「千代は君に惚れたまま、私の妻になったんだよ」

「そう、だったんですか」まさか想いを寄せられているとは思わなかった。俺のことを好きなまま、他の人の妻になるとは、どのような気持ちなんだろう。

「だから、今日くらい相手してやってくれないか?」

「太田さんはそれでいいんですか?」

「私の気持ちは関係ない。千代と君の問題だからね」太田さんはその場を去って行った。

「嫌なら、はっきりと嫌と言ってください。それで私の気も晴れますから」

俺はしばらく黙った。今日だけは彼女の相手をしてもいい。しかし、本当にいいのだろうか。妻と子の顔が浮かぶ。彼女は俺の手を引いて、お風呂場に向かう。貸し切り温泉は誰も使っていなかった。ここまで来たら、男として決断しよう。彼女の想いに応えると。

「千代さん」

 強く圧のある言葉に千代は震えた。断られると思っているらしい。

「男として、ウジウジ考えるのは止めました。一緒にお風呂に入りましょう」彼女は今まで見たことがないくらいにぱっと顔を明るくした。

「はい」

 湯舟の中でお湯に揺られて俺は完全にくつろいでいた。光が月のように反射している。その光を両手で掬うと、クスリと笑う声が聞こえた。俺の隣には千代さんがぴったりとくっついている。肩と肩がぶつかり、息遣いが聞こえるほどに。

「この後、予定はありますか?」千代さんは小さく笑って、「あなたと」と答えた。俺はのぼせるかと思った。彼女が俺の体に触れてくる。それは徐々に大胆になっていく。期待していいのか。最近、妻ともご無沙汰である。たまにはいいだろう。彼女が中心に触れたとき、俺は雄叫びをあげた。

 翌朝、俺は千代さんに別れを告げ、旅館を後にした。家族の待つ自宅に帰る道中、俺は愛する妻と息子の顔を思い浮かべた。そして、今度こそ家族でテーマパークに行く計画をきっちりと立て直すことを誓ったのだった。それはそうとして、太田さんから定期的に連絡が入るようになった。

「今日、うちで晩御飯でもどうだ?」

「はい、是非」

「千代が寂しがっているぞ」俺たちは夫公認の仲になっていたのである。

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