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元妻~昭和の喫茶店~

昭和の香りが色濃く残るレトロな喫茶店の扉を押し開けた瞬間、正雄は一瞬、時間が逆行したかのような錯覚に陥った。店内に広がる昭和の空気、壁一面の写真やポスターに、正雄は懐かしさを感じた。照明の温かな光は時間を忘れさせ、レコードから流れる懐かしのメロディーは、かつてのつらい記憶が蘇ってきた。

学生時代、この喫茶店は正雄にとって第二の家だった。妻の裕子と共にこの店で働いていた。一緒に勉強やデートを重ね、最終的にはプロポーズをした場所でもある。卒業後は子供も生まれ毎週のようにモーニングを食べに来ていた。しかし、幸せの絶頂から一転、彼らの間に待ち受けていたのは息子の死という避けられない現実だった。息子は学校での虐めに苦しんでおり、多くのサインを出していたが、正雄も裕子もその叫びに気づくことができなかった。息子の死は、二人にとって取り返しのつかない悲劇となった。お互いを、そして自分自身を深く責めた。その悲しみは、二人の関係を根底から揺るがし、最終的には離婚という形で終わりを告げた。その後の離婚の印鑑も、この喫茶店で押した。この店には全て詰まっている。

ある日、マスターから裕子が来ると聞かされた時、正雄の心は少しの喜びと激しい動揺に溢れた。彼女に会いたい一方で、お互いの過去の傷が再び開くことへの恐れもあった。裕子が現れた時、彼らの間に流れるのは複雑な感情の波だった。「久しぶりね」と裕子の言葉に、「本当に久しぶりだな」と正雄は答えたが、その一言一言が、過去と現在、未来へと心を飛び交わせた。

「どうしてたの?」との裕子の言葉と、マスターの「いつもの、アメリカンでいいのかな」と気遣うマスターの声が、ぎこちない沈黙を優しく溶かし、二人の間に少しずつ会話の橋をかけた。懐かしいレコードと珈琲の香りが、嘘みたいに二人の会話に花を咲かせた。しばらくすると、マスターからの言葉が彼らを驚かせた。「ワシももう年だから、そろそろ引退しようと思うんだ。そこで、な。おまえさんたち二人で、この店を引き継いでくれんかの。」と。


この突然の提案に、正雄も裕子も言葉を失う。マスターの「お互いのこと、そろそろ過去を許して、新しいスタートを切ってみないか?」という言葉に、二人は過去の自分たちと向き合い始める。長い間、自分で自分を許せなかった。後悔の念の中で生きてきた。失われた時間の重みを感じながら、二人は静かに考え込んでいた。

この喫茶店で働くことが、本当に二人にとって正しい道なのか、それともただ過去にしがみついているだけなのか。しかし、深く考えれば考えるほど、彼はこの場所が彼ら自身の一部であることを認識し、失われた時間を取り戻すきっかけになればと思い始めた。

「裕子、ここで俺と一緒にまたやり直してくれないか?」正雄の言葉に、裕子は長い沈黙の後、ゆっくりと頷き、微笑んだ。その笑顔が、二人の新しい始まりを予感させた。その瞬間、二人の間に流れる空気が変わった。二人の決断は、過去の苦しみを乗り越え、新たな未来への扉を開く決意を固めたのだ。

店内を満たすレコードのメロディーは同じでも、二人の心はもう昔とは違う。過去を受け入れ、それを力に変えることで、新しい未来へと共に歩み出す準備ができていた。過去を受け入れ、それを乗り越えることで、新しい人生を共に歩む準備ができていた。この喫茶店での新たな日々は、かつて失われた時間を取り戻し、彼らの心に新しい章を刻むことになるだろう。

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