「もう限界!」その叫び声は、まるで空気を裂くようだった。4歳の娘、奈々の手を引きながら、僕は玄関のドアが閉まる音をただ呆然と聞いていた。妻の茜が、肩から小さな鞄を提げて、後ろも振り返らず家を出て行ったのは、それから数秒後のことだった。何が「限界」だったのかは、すぐにわかった。茜の心を壊してしまったのは、間違いなく僕だったのだ。家事、育児、そして彼女自身の仕事。すべての重圧を一人で背負わせていたことに、僕は気づいていなかった。いや、気づこうとしなかった。
そんなことが起きたのはたった数週間前のこと。僕は42歳の平凡な会社員。平凡な人生の中にひっそりと潜む「破綻」という言葉が、こんなにも急に、そして静かに訪れるものだとは思いもしなかった。家には僕と奈々だけが残された。妻のいない生活が始まり、娘は幼いながらもわがままも言わず、母親がいないことを感じ取っているようだった。「パパ、奈々が手伝うから大丈夫だよ」――そう言って、彼女は小さな手で洗濯物をたたんだり、テーブルを拭いてくたりしてくれる。その健気な姿を見るたび、胸が締め付けられる思いがする。なぜ茜の「限界」に気づいてやれなかったのか。なぜもっと早く、二人の重荷を分け合えなかったのか。
それから二週間が経った。家事と仕事をどうにか両立させながら、僕たちはぎりぎりの生活を続けていた。奈々の保育園の送り迎えを僕が帰る前までは母に頼っていたが、その母が先週から体調を崩し、ついに寝込んでしまったのだ。
「仕方ない、明日からは僕が送り迎えをするしかないな」自分にそう言い聞かせ、職場に許可を取った。翌朝、僕はいつもより早く起きて奈々の準備を整えた。妻がいなくなってから、奈々も少しずつ新しい生活に慣れてきたのか、朝の支度はスムーズだ。「パパ、これでいい?」と自分で髪を結ぼうとする姿に、微笑ましさと切なさが同時に込み上げてくる。小さな手を握り、二人で保育園へ向かう。玄関を出た瞬間、冬の空気が頬を刺し、奈々の吐く白い息が小さな雲のように広がっていった。彼女の小さな足音と僕の大きな足音が、朝の静けさをわずかに乱す。
保育園に到着すると、門の向こうから元気な声が響いた。「おはようございます!」と明るく挨拶してくれたのは、奈々の担任の優佳先生だった。肩にかかるほどの黒髪を後ろで一つに束ね、シンプルな服装が彼女の親しみやすい美しさを引き立てている。その笑顔は朝の冷たい空気を温めるようで、思わず気持ちが軽くなる。
「おはようございます。加藤さん、今日はお父さんなんですね」
「はい、母が体調を崩してしまって…これからしばらく僕が送り迎えをすることになりそうです」優佳先生は少し心配そうに眉を寄せ、「それは大変ですね。でも、奈々ちゃんはしっかり頑張っていますよ。毎日すごくいい子なんです」と励ますように笑った。その笑顔に、不思議と肩の力が抜けた気がした。
それからの数日間、娘の送り迎えは僕の密かな楽しみになった。保育園の門をくぐるたびに、優佳先生が奈々を笑顔で迎えてくれる。その姿を見ているうちに、彼女との会話が少しずつ増えていった。奈々が先生のことを好きでたまらない様子で、「『奈々ちゃんのお絵描き、すごい上手だよ』って言ってくれたの!」と嬉しそうに報告してくれるのも微笑ましい。そんなある日のこと。娘を迎えに行った僕は、園庭がいつもより騒がしいことに気づいた。よく見ると、優佳先生が園児たちと一緒に泥遊びをしている。スーツ姿の僕には少々衝撃的だったが、泥だらけになりながら笑う彼女の姿に、なぜか心が温かくなった。
「先生、今日はお疲れ様です」と声をかけると、彼女は驚いたように振り向き、「加藤さん!お迎え早いですね!」と泥だらけの笑顔を向けた。
「その格好、大丈夫ですか?」「子どもたちと一緒に楽しむのも、大事な仕事ですから!」
屈託なく笑う彼女を見て、僕は自然と尊敬の念を抱いた。この人は、どれほど大変な状況にあっても、子どもたちのために全力を尽くしている――そんな確信が心に残った。
母の体調が回復し、今度の週末奈々をお泊りで預かってくれることになった。「あんたも少しはゆっくりしなさいな」と。有難い母親だ。常に僕の味方でいてくれる。
週末、久しぶりに一人になった僕は、気晴らしも兼ねて飲みに出かけることにした。繁華街のスナックで酒を楽しみながら、一週間の疲れをゆっくりと解きほぐしていた。
「加藤さん?」突然、聞き覚えのある声が背後から聞こえた。振り返ると、そこには優佳先生が立っていた。普段の保育園での姿とは全く違い、華やかなドレスにきちんとしたメイクを施した彼女は、大人の女性の色気を纏っていた。「先生こそ、こんなところで?」僕は驚きながら問いかけた。
「実はスナックでアルバイトしてるんです。保育園だけじゃ生活が厳しくて…」と優佳先生は苦笑した。話をしているうちに、彼女は僕の隣に腰を下ろし、親しげに会話を続けた。
彼女が話す仕事の苦労や悩みを聞くうちに、僕の中で彼女に対する思いがさらに膨らんでいくのを感じた。そして、彼女がふと口にした。「もうすぐ上がるんですけど、良かったら飲み直しませんか?」その誘いに、彼女の魅力に飲み込まれ僕は一瞬迷いながらも頷いてしまった。
彼女の部屋は白を基調とした清潔感のある空間で、細かなインテリアも彼女らしい品の良さが感じられた。テーブルを囲みながら、二人で酒を飲みつついろいろな話をした。保育園のこと、スナックでの出来事、そして彼女が一人で生きることへの葛藤。
「私、誰かに頼るのが苦手で…」とポツリとこぼす彼女。その寂しげな表情と、二人だけのこの空間、僕の理性はすでにぐらついていた。
これ以上はだめだ。そう思い「そろそろ帰りますね」そう言った瞬間、
「帰らないで…もう少しだけ、ここにいてください」
と彼女が僕の背中にぎゅっとしがみついたのだ。彼女の声はかすかに震え、部屋に響くその言葉に、僕は胸の奥で何かが崩れる音を感じた。
「先生…」僕は思わず手を伸ばしそうになり、すんでのところで止まった。触れたらすべてが崩れてしまう――そんな予感があった。だが、彼女の伏せた瞳がふとこちらを向いた瞬間、僕はそれまで抑え込んでいた感情に飲み込みこまれてしまった。理性の壁が、静かに崩れていく瞬間だった。そしてその夜、僕たちは一線を越え、朝までお互いの寂しさを埋め合った。
次の日、茜から突然連絡があった。
「浩司、少し話せる?」久しぶりに聞く彼女の声に戸惑いつつも、僕は指定されたファミレスへ向かった。その場で、僕たちは再びお互いの想いを語り合った。
「あなたがすごく頑張ってくれてるのは、ちゃんとわかってる。でもね、私…家を出る前からずっと限界だったの。何度も頑張ろうとしたけど、どんどん自分が嫌いになっていったの。奈々の笑顔を見るたびに、“私はこの子の母親としてふさわしくない”って思い詰めてしまって…」
「茜…」
「戻りたい気持ちがないわけじゃない。奈々と一緒にいたい気持ちもある。でも、そのたびに“また同じことを繰り返すんじゃないか”って怖くなるの。ごめんなさい。」
窓の外に目を向けた彼女の表情は、諦めというよりも、自分を責めているように見えた。その言葉に、僕はかける言葉を見つけられなかった。ただ、自分が気づけなかった彼女の苦しみの深さに、胸がぎゅっと締め付けられるのを感じていた。
連休明けの朝、保育園の門に着くと、優佳先生がいつものように笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、加藤さん。奈々ちゃん、今日も元気ですね!」
その明るい声に、僕は自然と笑みを返した。だが、心の奥では、何かがざわついている。彼女の笑顔を見るたびに思い出す一昨日の記憶。彼女の寂しげな横顔、そして「帰らないで」と震えた声。僕は一瞬、足を止めそうになったが、奈々の小さな手の温もりがそれを引き止める。娘の顔を見る。奈々は僕のすべてだ。この小さな手を離してはいけない。茜との溝がどれだけ深くても、奈々にとって母親は唯一無二の存在だ。それでも、優佳先生の寂しげな笑顔と震えた声が、心の奥に影を落とす。あの夜の温もりを、僕は忘れることができるのだろうか。
「パパ、早く行こ!」奈々の明るい声に引き戻され、僕はもう一度歩き出した。進むべき道は一つしかない――そう自分に言い聞かせながらも、心の中で渦巻く感情が消えることはなかった。