「おい、やめろ!」思わず声を張り上げた瞬間、俺の心臓は早鐘のように鳴っていた。目の前には血だらけの顔で震える京子さん、そして大柄な男が荒々しく彼女を押しのけようとしていた。俺は足がすくみそうになるのを振り払うように一気に駆け出し、その男の背中に体当たりした。男が怒鳴りながら暴れる中、俺は必死で彼を押さえ込んだ。学生時代にラグビーをやっていたおかげで、こういう力仕事には自信があった。だけど、この時ばかりは全身に汗が噴き出していた。京子さんの恐怖に引きつった表情、助けを求める目が脳裏に焼き付いていた。
「動くな!」後から追いついた警察官が男に手錠をかけ、ようやく状況が落ち着いた。その場に座り込んだ俺は、荒い息を整えながら京子さんを見た。彼女は震える手で顔を覆い、泣いていた。あの日、京子さんと彼女の娘・愛ちゃんを助けたことが、俺の人生を大きく変えるきっかけになるとは思ってもいなかった。明夫は宅配便の請負業を始めたばかり。ある日、京子さんの住むマンションへ荷物を届けた際、インターホン越しに彼女の声を聞いた。
「少しお待ちください……」くぐもった声だったが、その中にどこか不安定な響きを感じた。やがて玄関先に現れた彼女は、どこか疲れた表情を浮かべた女性だった。
「ありがとうございます」と小さな声で礼を言う彼女に、明夫は「こちらこそ」と笑顔で答えた。それが初めての接触だった。数回目の配達で、玄関先に小さな女の子――愛ちゃんが現れた。彼女は明夫に興味津々で話しかけてきた。
「おじさん、あの車で来てるの?」「そうだよ。」「ふーん、全然音がしないんだね?」「あれは電気で動いてるからなんだよ」
愛ちゃんは痩せていて、どこか物静かな京子さんとは対照的に明るくすぐに話しかけてくる子だった。その無邪気さに惹かれる一方で、どこか物足りなさそうな寂しげな表情も見え隠れしていた。
ある日、荷物を届けた後、愛ちゃんが玄関先で小声で言った。「おじさん、また来てくれる?」
「もちろんだよ。また荷物が届いたらね」その言葉に、彼女はほっとしたような笑顔を見せた。その笑顔に、明夫の胸の奥に何か温かいものが広がった。
それ以降、明夫が荷物を届けるたびに愛ちゃんは玄関先に顔を出すようになり、「おじさん、また来てくれる?」と聞くのが口癖になった。明夫はそんな彼女を微笑ましく思いながらも、心の奥で何かが引っかかっていた。彼女が見せる一瞬の怯え、そして京子さんが見せる痣ややつれた表情――それらが積み重なり、胸騒ぎが大きくなっていた。
ある日、荷物を受け取った愛ちゃんが玄関の陰でこっそり明夫に紙を渡してきた。震える手で握りしめていたその紙には、赤い文字でこう書かれていた。
「助けて」その言葉を見た瞬間、俺は無視なんてできないと決意した。
俺はどうするべきか迷ったが、近くの交番に駆け込むことにした。交番で警察官に事情を説明し、紙を見せると彼の表情が険しく変わった。
「案内してもらえますか?」そう言われた瞬間、胸の奥にあった不安が現実味を帯びた。警察官と一緒に京子さんのマンションに向かい、インターホンを鳴らした。すると、出てきたのは粗暴そうな大柄な男だった。
「なんだよ、こんな時間に警察が。何の用だ?」威圧的な態度に俺は一瞬怯んだが、警察官は落ち着いて尋ねた。
「こちらのお宅で怪我をされた女性がいると通報を受けました。少し中を見せていただけますか?」
「はあ?そんなやついねえよ!」男はそう言い放ち、ドアを閉めようとした。
その時だった。「助けて!」奥から京子さんの声が聞こえた。男が振り返ると、京子さんが血だらけの顔でよろよろと現れた。俺は言葉を失った。彼女の姿はあまりにも痛々しく、全身が痣や傷だらけだった。
「おい、勝手に入るんじゃねえ!」男は警察官を押し返し、逃げようとした。その瞬間、俺の体が動いていた。「逃げるな!」全力で走り、男に飛びついた。バランスを崩した男を床に押し倒し、力の限り抑え込む。暴れる彼をなんとか制止しながら、俺は心の中で「ふざけんな」叫んでいた。
警察官が駆け寄り、男に手錠をかけた瞬間、ようやく俺の緊張は解けた。体中が震え、息が荒くなるのを感じながら、床に座り込む京子さんに目をやる。彼女は顔を覆い、声を上げて泣いていた。
その後、京子さんはすぐに病院へ搬送され、愛ちゃんも警察署で保護されることになった。しかし、愛ちゃんは俺の手を握りしめ、「おじさんと一緒にいたい!」と泣き続けた。彼女をそのまま一人にするなんてできなかった。
「もし問題なければ、僕の家で預かります。両親もいますから」俺の提案に、警察官たちは相談の末、同意してくれた。その夜、愛ちゃんを連れて自宅に戻ると、両親は驚いた表情を浮かべたが、すぐに事情を理解してくれた。
「今日はここで安心して眠りなさい」母が優しく声をかけると、愛ちゃんはようやくほっとした表情を見せた。温かい布団に包まれた彼女を見ながら、俺は心に強く誓った。
「こんなに小さい子にまで。ひどいことを…。」
翌朝、京子さんが警察官に付き添われて俺の家に来た。顔の腫れは少し引いていたが、痣や傷が残る姿に、俺は改めて胸が締め付けられた。愛ちゃんは玄関から駆け出し、京子さんにしがみついた。「ママ、大丈夫?もう怖いことないよね?」京子さんは涙を流しながら愛ちゃんを抱きしめ、「ごめんね、怖い思いをさせて」と何度も謝っていた。その光景を見ながら、俺の両親も目を潤ませていた。京子さんは深々と頭を下げて言った。
「本当にありがとうございました。私と娘を救ってくださって……」その言葉に、俺はただ「何かあったらいつでも言ってください」としか答えられなかった。
その後、京子さんは支援団体の保護の元シェルターに入り、夫との離婚手続きを進めるために、新しい生活の準備を始めた。シェルターは俺の家からほど近い場所で、彼女たちは少しずつ落ち着きを取り戻していった。そんなある日、京子さんが訪ねてきた。
「少しずつ働き始めようと思うんです。本当にお世話になりました」彼女の中にある強さを改めて感じた瞬間だった。
「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってください。僕にできることがあれば何でも力になります」そう答えると、京子さんは微笑んで「ありがとうございます」と言ってくれた。その笑顔が俺にとって何よりの支えだった。
彼女はスーパーでのアルバイトを始め、少しずつ自立への道を歩み始めた。そんな中、俺は休日ごとに京子さんと愛ちゃんを誘い、一緒に公園に行くようになった。愛ちゃんは元気を取り戻し、俺に「おじさん、逆上がりするから見てて!」と明るく声をかけてくる。京子さんも、公園で遊ぶ愛ちゃんを見ながら穏やかな笑顔を浮かべることが増えた。ある日、京子さんがふと呟いた。「前の夫は、愛とこんな風に遊んでくれることなんて一度もありませんでした。もし豊田さんみたいな人が夫だったら、どんなに幸せだったんだろう……」
彼女のその言葉に、俺の胸は高鳴った。しかし、俺は自分の気持ちを押し殺した。まだ彼女を支えるには早い、もっと自分がしっかりしなければと思ったからだ。そんな思いを抱えながらも、俺は京子さんと愛ちゃんとの時間を大切にし続けた。数か月後、俺はついに決心した。京子さんに自分の想いを伝えるタイミングが来たのだ。偶然、会社からもらった食事券を手に、思い切って彼女を誘った。
「京子さん、この間食事券をもらったんです。みんなで行きませんか?」一瞬驚いた顔をした彼女だったが、すぐに柔らかい笑顔を浮かべて答えてくれた。
「こんな素敵なお誘い、ありがとうございます」
その夜、俺たちはおしゃれなイタリアンレストランで食事を楽しんだ。明るい店内の雰囲気と美味しい料理に、京子さんの緊張も次第にほぐれていった。久しぶりに見る彼女と愛ちゃんの笑顔は、俺にとって何よりの癒しだった。食後のワインを飲みながら、俺は意を決して切り出した。
「京子さん、僕たちの出会いは決していいものではなかったかもしれません。でも、あなたと愛ちゃんに出会えたことは、僕の人生で一番の幸運だったと思っています」
京子さんは驚きつつも、静かに耳を傾けてくれた。
「あなたたちを支えていきたい。愛ちゃんの笑顔を守り、京子さんのこれからを応援したい。僕と結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」
「え?おじさんがパパになってくれるの?」
「そうだよ。ママが良いって言ってくれればね」そう俺が笑うと一瞬の沈黙の後、京子さんは涙を浮かべながら答えてくれた。
「私なんかでいいのなら…よろしくお願いします……」俺の真剣な言葉に、彼女は小さく頷いてくれた。
「えっと、やったー。パ、パパ」それから俺たちは交際を始め、徐々に家族としての絆を深めていった。休日には3人で出かけ、愛ちゃんの学校行事にも一緒に参加した。ある日の授業参観で、愛ちゃんが「私のパパ」という作文を発表した。
「パパは優しいです。ママと私を笑顔にしてくれる素敵な人です。だから…今度はママと私でパパを幸せにしたいと思っています」愛ちゃんの言葉に、俺も京子さんも涙を抑えることができなかった。
その後、俺と京子さんは結婚し、小さなマイホームを購入して新しい生活を始めた。京子さんは家庭に入り、俺は宅配便の仕事を続けながら家族を支えた。そして、京子さんは新しい命を授かり、愛ちゃんは待望のお姉さんになる日を心待ちにしていた。
「この家族を守ることが、俺の人生のすべてだ」そう心に誓い、俺は大切な人たちとともに新しい未来を歩み始めた。