智子さんは、俺が新しく転職した会社の上司になった人だった。その名を聞くだけで、社内の誰もがピリッと一瞬背筋を伸ばす。彼女の厳しい性格と完璧主義ぶりは有名で、陰では「鬼奴」と呼ばれていた。俺もその噂を聞いていたが、実際に彼女と話すと噂以上に仕事に厳しい人だった。あの冷たい視線、指摘の鋭さ、そして一切の妥協を許さない姿勢。正直、最初の頃は彼女に話しかけられるたび、胃がキリキリと痛むような思いだった。だが、転職したばかりの俺にとって、智子さんの評価はどうでも良かった。なぜなら、俺がこの会社に入った目的はただ一つ。息子の康太を育てるためだったからだ。智子さんは厳しいが、この会社の福利厚生は素晴らしい。子供のことにも柔軟に対応してくれる良い会社だった。
俺が妻の美咲を交通事故で亡くしてから、世界は一変した。あの日、美咲は息子の康太のお迎えに向かっていた。翌日が浩太の5歳の誕生日という日だった。が、その帰り道に美咲は暴走車に轢かれ、この世を去った。たった一瞬の出来事で、俺のすべてが壊れた。康太は母親を失い、俺は愛する妻を失った。俺は犯人を絶対に一生許さない。
ただ、どんだけ恨んでいても、二人での生活は待ってくれない。親族の助けはもちろんあったが、遠方であったため、それからの生活は地獄そのものだった。仕事と育児の両立に疲れ果て、夜中に一人で泣くこともあった。それでも康太の笑顔が俺を支えてくれた。だが、前職ではどうしても時間が足りず、俺は転職を決意した。新しい職場では、妻の死については誰にも話していない。余計な同情や気遣いを受けたくなかったし、何よりも康太を守ることだけを考えていた。
しかし、新しい職場でも結局は家事に手が回らないというのが現実だった。部屋は散らかり放題、食事は冷凍食品や総菜ばかり。康太には申し訳ないと思いながらも、俺一人では限界だった。そこで思い切って家事代行サービスを頼むことにしたのだ。
初めて家事代行のスタッフが来た日、玄関のチャイムが鳴った音に少し緊張しながらもドアを開けた。そこに立っていたのは、職場の鬼奴、智子さんだった。
「は、初めまして、松本尚子と申します。本日はよろしくお願いいたします。」
その声は智子さんとは違い、柔らかで優しい響きを持っていた。俺は一瞬、頭が混乱した。だが、彼女が智子さんの双子の妹だと聞き、納得した。尚子さんは智子さんとは全く異なる雰囲気を持ち、穏やかな笑顔を浮かべながら、テキパキと仕事を始めた。
部屋はみるみるうちに片付き、キッチンからは美味しそうな匂いが漂ってきた。その日の夕食には、尚子さんが作った肉じゃがが並び、康太は「美味しい!」と声を上げて喜んでいた。俺はその光景を見ながら、久しぶりに心が温かくなるのを感じた。
尚子さんは、家事代行の日以外にも「ついでだから」と作り置きの料理を持ってきてくれるようになった。その優しさに、俺は何度も「ありがとうございます。でも無理しないでくださいね」と言ったが、彼女は「作るのが好きなんです」と笑顔を浮かべるだけだった。
そんなある日、康太が保育園で熱を出し、早退することになった。息子までいなくなったらどうしようかと不安だったが、案外元気だった康太を見てほっとし、その日はゆっくり二人で過ごしていた。が、その夜に上司の智子さんから「渡したい書類がある」と電話があり、彼女が自宅を訪れることになった。
玄関を開けると、智子さんは手土産と手料理を持って立っていた。その場で康太が突然起きてきて、「尚ちゃん!」と叫びながら智子さんに駆け寄った。俺は慌てて「違うよ、智子さんだよ」と訂正したが、康太は「え?違うよ、尚ちゃんだよ!」と言い張った。智子さんは少し驚いた様子だったが、康太を抱き上げ、「いいのよ」と優しい笑顔を見せた。その瞬間、俺は胸の奥に引っかかるものを感じた。
そんなことがあった数日後、ふと智子さんのスマホの待ち受け画面が目に入った。そこに映るのは俺の息子、康太の写真だった。え?尚子さんから送ってもらったのか?などと思ったがその時の僕は何も触れることは出来なかった。
その夜家事代行の日、玄関先に立つ彼女を見た瞬間、胸の奥に引っかかる疑念が確信に変わった。俺は咄嗟に口を開いた。
「尚子さん…。いや、智子さんですよね?」
彼女は観念したように頷き、「バレちゃった」と静かに答えた。そして、尚子を演じていた理由を語り始めた。彼女は、普段から家事代行の副業をしていたそうだ。というかこのサービス自体が彼女が作った会社だそうだ。そんな時にたまたま人手が足りなくて自分が来てみたら、たまたま僕だったそうだ。
「それと、あなたのことが気になったのよ」と彼女は小さく笑った。「育児と仕事の狭間で必死に頑張るあなたを見て、私ができることはないかって……だから咄嗟に嘘ついてしまったの。ごめんなさい」
「でも、康太くんにはすぐバレちゃってたけどね」といたずらっぽく笑う彼女に、俺は感謝の気持ちでいっぱいになった。
智子さんが厳しい性格になったのは、幼少期の経験が大きいという。彼女は両親から期待されるばかりで褒められることが少なく、常に完璧を求められて育った。その結果、感情を表に出すことを苦手とし、自分を守るために冷たく振る舞う癖がついたという。だから自分の会社は優しさが溢れる会社にしたかったそうだ。
「こっちが本当の私なのよ。厳しいのは演じているだけだから」
「あなたが一生懸命康太くんを育てているのを見たら、私も頑張ろうって思えたのよ」
智子さんはそう語りながら、目を伏せた。その姿には、職場で見せる冷徹な上司の面影は一切なく、俺が初めて家に迎えた「尚子さん」の柔らかさだけがあった。
智子さんの話を聞きながら、俺の中でこれまでの彼女への印象が崩れていった。職場では冷たい視線で指摘を繰り返していた彼女が、こんなにも葛藤を抱え、必死に「自分らしさ」を求めていたとは想像もできなかった。そして、俺の家に来て、康太と接し、尚子としての時間を過ごす中で、彼女自身も救われていたのだと知った時、俺の胸は熱くなった。
それ以来、俺と智子さんの間には少しずつ変化が生まれ始めた。智子さんは職場では相変わらず厳しい上司だったが、家庭に来ると尚子として、時に穏やかな笑顔を見せてくれた。そんな彼女を見るたび、俺の胸に芽生えた感情が少しずつ大きくなっていくのを感じた。康太も彼女を慕っていて、「尚ちゃん!」と無邪気に呼ぶ姿を見ていると、家族が増えたような気持ちになった。だが、それが本物の家族ではないことを思い出すたびに、胸が少しだけ痛んだ。
ある日、智子さんが夕食を作りながら「浩太くん、最近すごく元気になったわね」「ええ、智子さんのおかげです」そう答えながら、俺は思わず目をそらした。
彼女が俺たちにとって大切な存在だと分かっていても、気持ちを言葉にするのは簡単ではなかった。
その時「ねえ、尚ちゃん、明日も来てくれるよね?」康太が智子さんに向かって無邪気に問いかけた。その瞳は希望に満ち溢れていて、断る余地なんてどこにも見当たらなかった。智子さんは少し困ったように笑いながら「お父さんがいいって言ってくれたらね」と答えた。すると康太がすぐに俺を振り返り、「お父さん、いいでしょ?ねっ!」と大きな声でねだる。俺は思わず笑いながら頷くしかなかった。「あぁ良いよ。」そして俺は康太に感謝した。