私の名前は清水舞香。夫を病気で亡くしてから、あっという間に10年が経った。
あの日の記憶は、今でも胸の奥に残っている。夫の手が次第に冷たくなり、私の手の中で彼の命が消えていく感覚。何度も何度も「まだ行かないで」と願ったけれど、どうすることもできなかった。あの時から、私の時間はどこかで止まったまま。心がぽっかりと空いたような日々が続いた。でも、娘の沙羅がいてくれたおかげで、私は一歩一歩進んでこられた気がする。あの小さな手にすがるようにして、生きることを続けてきた。
今、私は看護師として働きながら、沙羅を一人で育てている。毎日が忙しくて、娘と向き合う時間があまり取れないのが、いつも心に引っかかっていた。それでも、沙羅は私の背中を見てくれているのか、文句ひとつ言わずに成長してくれている。そんな娘の存在が、私にとっての光だった。
ただ、どうしても夜勤がある日は、沙羅を誰かに預けなくてはいけない。私の実家はもう母が他界し、父は…正直言って頼りにならない。だから、夫の両親、義両親にお願いすることがほとんどだった。義両親は優しくて、沙羅も懐いているし、私にとっても心の支えだった。
そんなある日、義両親から突然、思いがけない提案があった。
「舞香さん、どうかしらね…廉太郎と一緒に住んでみない?」
あまりにも突然の言葉に、私は一瞬言葉を失った。廉太郎、夫の弟と一緒に住む?その提案があまりにも予想外で、私は何と言えばいいのか分からなかった。ただ、義母は続けてこう言った。
「沙羅ちゃんも廉太郎が大好きでしょ?舞香さんも、彼がいればきっと安心するわよ。彼も手伝いたいって言ってるし。」
義母の言葉は優しいけれど、私の中にはすぐには消えない違和感が広がっていた。「廉太郎と一緒に住む…?」夫を愛していた私が、その弟と一緒に暮らすなんて、それは、夫への裏切りのように思えた。でも、沙羅が「廉太郎叔父さんと一緒にいたい!」と無邪気に言う姿を見ると、母としての私はその違和感を押し殺さざるを得なかった。娘が幸せなら、それが一番だと思う自分がいた。
廉太郎は公務員で、仕事も堅実。人柄も温厚で優しく、初めて会ったときから彼の優しさに救われていた部分がある。だから、彼と暮らすこと自体が不安なわけではない。むしろ、彼が家にいることで、日々の負担は確実に軽くなっていた。でも、どうしてか、廉太郎がそばにいるほどに、私の胸の中には奇妙な不安が芽生えてきた。彼が他の女性と何かあったらどうしよう、そんな考えが頭をよぎるようになったのだ。彼が優しければ優しいほど、私の中でその不安は大きくなっていった。
ある日、廉太郎が女性と長電話をしている日があった。やたらと楽しそうな声。一緒に暮らしているからと言って、別に付き合っているわけではない。ただの友達だよと彼は言うがどうしても心がもやもやして廉太郎に当たってしまった。それから数日間、顔を合わせても話しかけることが出来なかった。もし結婚することになっても他の女性の影が見える不安を抱えながらも、忙しい仕事に追われていたが病院の廊下を急いで歩くたびに、心の中では廉太郎への疑念が消えずに揺れていた。そんな私に、娘の沙羅がぽつりと何気なく言った言葉が心に突き刺さった。
「お母さん、間違った時は、ちゃんと謝らなきゃだめなんだよ。」
幼い娘が、私に向けてその言葉を口にしたとき、何とも言えない感情が胸を打った。私は何も言い返せず、ただ沙羅の顔を見つめるしかなかった。その瞬間、私は気づいた。私の中にあった疑念や不安は、過去の痛みや孤独から来ていたもので、廉太郎のせいではないのだと。私は、過去の痛みと向き合わずに、ただその影に怯えていただけだった。
翌日、私は廉太郎に向かって素直に謝った。「ごめんなさい」と言葉を絞り出すと、涙が止められなくなった。廉太郎は最初驚いていたが、すぐに私を受け入れてくれるような、優しい微笑みを浮かべた。その微笑みが、私の心を少しだけ軽くしてくれた。それから私たちの距離は少しずつ縮まり、やっと私は彼を「ただの義弟」ではなく、かけがえのない存在として受け入れられるようになっていた。
そして、それから数週間が経ったある夜。私が夜勤に出ていた時、思いもよらない事件が起きた。
その夜、沙羅が急に高熱を出したのだ。廉太郎は何度も私に電話をかけてくれたが、夜勤中の私はそれに気付くことができなかった。沙羅の体調が急激に悪化し、廉太郎はついに彼女を救急に連れて行くことを決めた。そして、その救急先は私が勤務する病院だったのだ。
受付からの緊急連絡が入ったとき、私の胸は一瞬で締め付けられた。「沙羅が…救急?」一瞬、目の前が真っ暗になり、足元が揺れるような感覚がした。私は息を詰まらせながら、何とか体を動かし、全力で救急室へ向かった。廊下の光がどこか無機質で、いつも見慣れた風景がやけに遠く感じた。全身に冷たい汗が噴き出して、心臓が早鐘のように打ち続けていた。
ようやく救急室にたどり着いたとき、廉太郎が娘を抱きかかえながら、心配そうに待っている姿が目に入った。その姿を見た瞬間、私は言葉を失った。彼がこんなにも必死になって、私と沙羅を支えてくれている。彼の表情には、兄を亡くした痛みを抱えながら、それでも前を向いて生きている決意が見えていた。胸が熱くなり、私はその場で涙が溢れて止まらなかった。
「この人は家族以上の存在だ…」心の底から、そう思った。
その後、沙羅は無事に処置を終え、病室から出てきた。彼女の顔に少し色が戻っているのを見て、私は安堵のあまり、思わず涙がこぼれた。廉太郎もそっと沙羅の小さな手を握り、優しく微笑んでいた。そんな彼の姿を見つめながら、私は心の中で一つの決心を固めた。「この人と一緒に、これからの人生を歩んでいこう」と。
数日後、私は廉太郎に気持ちを伝えた。最初は驚いたようだったが、彼は静かに微笑み、そっと私の手を取ってくれた。その瞬間、私は確信した。これが私たちにとっての新しい家族の形だと。そして、この選択が、沙羅にとっても幸せな未来につながると信じていた。
時は流れ、私たちは本当に家族としての一歩を踏み出し、平穏で温かな日々が続いていた。沙羅も、廉太郎を「パパ」と呼ぶようになり、家族としての絆は日に日に深まっていった。
そして、ある日、私は沙羅にそっと伝えた。
「沙羅、ねぇ…もうすぐ弟ができるかもしれないよ。」
その言葉を聞いた瞬間、沙羅の瞳が驚きと喜びで輝いた。「ほんと!?ママ、弟ができるの?」と、彼女は跳ねるように私に飛びついてきた。あの小さな手が、再び私の手を強く握りしめる。
「うん、そうだよ。沙羅に弟ができるんだよ。」私は微笑みながら、彼女の髪をそっと撫でた。
廉太郎も、少し照れくさそうに笑いながら、私たちを見守っていた。その視線には、これから迎える新しい命に対する期待と、家族としての絆をさらに強める未来への決意が見えた。
沙羅が弟とどんな時間を共有し、どんな姉になるのか、それを思うだけで、私の胸は温かい感情で満たされた。これから先、私たち家族には喜びと挑戦が待っているだろう。でも、今ならもう恐れることはない。この新しい命と共に、私たちはさらに強い絆で結ばれていくのだ。
私たちはこれから始まる新しい家族の形を想像しながら、静かに微笑み合った。