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ベランダに締め出されている美人妻

いつまでも若く純愛
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隣の部屋から、壁を揺らすような音が鳴り響いてきた。何かを叫びながら暴れているような物音。賃貸アパートとはいえ特段薄い壁という訳じゃない。それなのに部屋全体を震わせているようだった。ドンドン、ドンドン、と低く響く衝撃音が僕の胸をざわつかせる。
「里穂さん、大丈夫ですか?」僕が声を掛けると、彼女は膝を抱え、体を小さく丸めているのが見えた。答えはない。ただ、怯えたような目でこちらを見上げる。膝を抱きしめた腕は細く、肩は力なく落ちている。全身が小刻みに震え、その震えが彼女の中に押し込められた恐怖そのものを代弁しているようだった。彼女の瞳には涙が滲んでいた。その奥には深く沈んだ闇が見える。いや、闇というよりも、名もなき恐怖そのものが渦巻いていると言ったほうが近いかもしれない。再び壁を叩く音が響いた。ドンッ、とさっきよりも一段と強い音。彼女の肩が跳ね上がり、息を呑む音が聞こえた。僕は咄嗟に彼女の肩に手を伸ばした。冷たい感触が指先を伝い、彼女の震えがそのまま僕の体にまで伝わる。
「大丈夫、僕がいますから。」咄嗟に口をついて出た言葉だった。震える彼女の肩をそっと引き寄せる。壊れそうなほど細い肩が僕の腕の中にすっぽりと収まった。その体は冷たく、まるで氷のようだった。彼女の耳元に、もう一度低くささやく。
「大丈夫です。大丈夫…」その言葉に、彼女の肩がほんの少しだけ緩んだ気がした。だが、震えは止まらない。彼女は顔を僕の胸に埋め、嗚咽が静かに漏れる。涙が僕のシャツにしみ込み、その冷たさが肌にじわりと広がるのを感じた。僕はただ、震える彼女の背中をそっと撫で続けた。その震えはまるで彼女の中に閉じ込められた恐怖が、出口を求めて溢れ出しているようだった。それでも、彼女の恐怖を少しでも和らげられれば……ただ、それだけを祈っていた。

僕の名前は近藤健介、42歳だ。昼夜逆転の生活を送りながら、小さなラーメン屋を営んでいる。店を構えて15年。おかげさまで地元の常連さんに恵まれ、どうにかここまでやってきた。営業時間は夕方5時から深夜3時まで。閉店後には翌日の仕込みが待っている。そんな生活が15年も続けば、昼夜逆転の生活リズムにも慣れるものだ。この店があるからこそ、僕の人生は形を保っていられる。常連客たちとの些細な会話や、麺を茹でる湯気の香り。そんな日常が、僕にとってはかけがえのない居場所になっていた。そんな日々の中、僕には一人だけ気になる客がいた。閉店間際にひょっこりと現れる女性だった。彼女が店の暖簾をくぐるのは、いつも夜中の2時過ぎ。少し派手な化粧に艶やかな黒髪。夜の街に生きる人間特有の、どこか影を帯びた雰囲気が漂っていた。歳は35歳くらいだろうか。カウンターに座り、一杯のラーメンを注文して、無言で食べ、また無言で去っていく。注文も「醤油ラーメン、一つ」という決まり文句だけで、僕との間に会話らしい会話は一度もなかった。
「いらっしゃいませ。」僕がいつものように声を掛けても、彼女は小さく会釈するだけだ。目を合わせることもなく、湯気を見つめる横顔だけが印象に残る。
けれど、そんな彼女を見るたびに、僕はどうしようもない違和感を覚えていた。その横顔には、寂しさや悲しみだけでは言い表せない、得体の知れない何かが漂っていた。それが何なのか、僕にはわからなかった。ただ、気になるのだ。でも、客のプライバシーに踏み込むのは店主としてのルール違反だ。だから、僕はそっと見守るだけだった。

 そしてある日の朝、僕の生活は大きく変わる出来事があった。仕込みを終え、家に帰り、洗濯物を干そうとベランダに出たときだった。隣の部屋から「すいません……」とか細い声が聞こえた。恐る恐る身を乗り出し隣のベランダをのぞき込むと、そこにはあのラーメン屋に通ってきていた彼女が立っていた。薄手のネグリジェのような服を身にまとい、朝の冷たい空気の中、裸に近い恰好で身を震わせていた。その姿はあまりにか弱く、儚げで、まるで風が吹いたら消えてしまいそうだった。目は腫れて赤く、頬には涙の跡が残っている。
「ど、どうしたんですか?」僕は慌てて声を掛けた。彼女は一瞬迷うようにしてから、消え入りそうな声で呟いた。
「夫に締め出されて……」その言葉に、僕の胸がざわついた。隣にこんな状況の人が住んでいるなんて、夢にも思わなかった。僕は急いで部屋に戻り、毛布を掴んで彼女に差し出した。
「これを羽織ってください。中で温まって下さい。」彼女は一瞬警戒するような目を見せたが、やがて小さく頷くと、ゆっくりと歩み寄ってきた。ベランダから落ちないように手を添えこちらに渡る。その足取りは頼りなく、震える声で「ありがとう」と呟くのが聞こえた。その瞬間、彼女が足を踏み外し僕の方に倒れ込んできた。「イタタタタッ。大丈夫ですか」そういうと同時に瞬時に理解する。彼女の柔らかな体と香り、そして異常な程冷たい体。理解するのと同時に一瞬にして体が動いた。上下のスウェットを用意しストーブにあたらせる。そしてその間に僕は練習用の出汁を温め、スープを作ってあげた。
「これでも飲んであっためてください。」
「すいません」と言いながらも、歯がガチガチというくらい全身を震わせていた。こたつの温度を上げ、彼女にストーブを近づける。そして30分ほどしてようやく彼女の震えが止まる。
「すいません、本当に助かりました…」「どうしてそんなことになっていたんですか」と聞くと、彼女は下を向いてうつむく。
「もしかして旦那さんですか?」彼女の反応をみて確信する。僕は基本的に夜中家にいないからあまり気になってはいなかったが、たまの休みの日に隣から野太い怒鳴り声が聞こえることが多々あったのだ。
「暴力を受けてるんですね?」聞かなくてもわかる。彼女の体には無数の痣があったからだ。
「いつも僕のお店に来ていますよね」ここでようやくお隣さんも僕のことに気付いたみたいだった。そして、彼女は泣きだした。ひとしきり泣いた後、落ち着きを取り戻した彼女は、ようやくすべてを話してくれた。

彼女の名前は里穂さん。38歳だそうだ。日々、内縁の夫にDVを受け続けていること、生活費の為にお水で働かせられていること、今日も稼ぎが少なかったことでベランダに出して出かけたこと。全てを聞いた僕は怒りのあまり体が震えていた。

その日から、彼女を守るための生活が始まった。まずは、信頼できる人に協力を仰ぐことにした。僕の古い友人であり、公務員で福祉相談員をしている田中に事情を話すと、彼は快く力を貸してくれた。里穂さんが必要最低限の生活を送れるよう、衣類や生活用品を揃えてくれた。彼女が安心して暮らせる環境を整えるために、僕もできる限りのことをした。そして相談の結果、シェルターにはうつらずしばらくの間、彼女は僕の家で身を隠すことになった。最初のうちは、彼女は怯えた様子で静かに部屋の片隅に座っていることが多かった。僕が声を掛けても短い返事が返ってくるだけで、それ以上の会話はほとんどなかった。けれど、少しずつ、彼女の態度は変わっていった。ある日、僕が台所で夕食を作っていると、ふと後ろから彼女の声が聞こえた。
「何か手伝わせてください。」振り返ると、彼女がエプロンを握りしめて立っていた。その表情はまだどこか不安げだったが、少しだけ緩んだ笑顔がそこにあった。その日を境に、彼女は家事を手伝うようになり、僕たちの間に少しずつ信頼と絆が芽生え始めた。けれど、それでも彼女が完全に安堵できる日は来なかった。隣の部屋から暴れるあの物音がするたびに、彼女の顔に怯えの色が浮かぶ。その度に、胸が痛んだ。彼女を守るためには、もっと決定的な行動が必要だと感じた。

そんな生活が3か月も経った頃、僕は考え抜いた末にあることを決めていた。
「お店を畳もうと思うんです。だから…」その言葉に彼女の顔が引きつる。
「親父が腰を痛めちゃって、もう農業を辞めようかと言ってるんです。僕は長男だから、畑を継ごうかなと思って」泣きそうな顔で僕の話を聞いている彼女。

「だから…僕と一緒に田舎に来てくれませんか?」彼女は一瞬何を言っているのかわからないと驚いた後、涙を流しながら「はい…」と答えてくれた。そして翌日、友人にも相談し、この家からの脱出計画を立てた。
店を畳んだり荷物を少しずつ送ったり、これだけでも2カ月近くかかったが、この間に彼女は少しずつ笑顔で生活できるようになっていた。さすがに彼女をこの家から出す日は、テレビで見るような夜逃げをしているような感覚で人生一のドキドキ感を味わった。

そして現在、僕たちは田舎で穏やかに暮らしている。笑顔の増えた彼女を見ると、僕の選択は間違っていなかったと思う。それでも、彼女の遠くを見つめる横顔に漂う影を見るたび、いつかその影が消える日が来ることを祈らずにはいられない。

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