
「このパーティに参加してみないか?」
夫の言葉に、私の心は一瞬で凍りついた。目の前の夫が、まるで別人のように見えた。彼がこんな突拍子もないことを口にするなんて、信じられなかった。
「……何を言ってるの?」
私は驚きを隠せずに問い返した。夫は真面目でおとなしい人だ。少なくとも、私はそう思っていた。長年連れ添った夫婦なのに、彼が何を考えているのかまるでわからない。
私たちは郊外の一軒家で静かに暮らしている。娘たちが結婚し、家を出ていったのを機に、夫婦二人きりの時間が増えた。寂しさを感じることもあったが、それなりに穏やかで悪くない日々だった。
ただ――最近の夫の変化に、私は戸惑っていた。
求めてくる頻度が増えたのだ。もうすぐ五十歳になろうとしているのに、そんなに夫婦の営みが必要なのだろうか。私は正直、わからなくなっていた。若いころとは違う。気持ちはあるけれど、心と体が追いつかない。
そんな私に向かって「スワッピングパーティ」だなんて――。
現実離れした言葉に、思わず笑いがこみ上げそうになった。でも、夫の顔は真剣そのものだった。
「……冗談よね?」
私が探るように聞くと、夫はゆっくりと首を振った。その仕草に、笑いかけていた顔が引きつる。
「本気なの?」夫は静かにうなずいた。そのまなざしは真剣で、少し寂しげにも見えた。
何が彼をここまで追い詰めたのだろう――?
結婚して二十年以上が過ぎた。夫婦の会話は減り、昔ほど相手のことを気にかけなくなった。それでも、私はうまくやっているつもりだった。でも、もしかしたら夫には、違う景色が見えていたのかもしれない。
その夜、私は何度も夫の言葉を反芻した。
「夫婦を交換するの?」何のために? 夫は私に飽きたの? それとも、刺激を求めているの?
翌日、不安になった私は、思い切って友達に相談してみた。
「ねえ、うちの夫が、スワッピングパーティに行きたいって言い出したの」
軽く笑いながら話したつもりだったが、声が少し震えていた。友人たちは目を丸くした後、それぞれ言葉を選ぶように口を開いた。
「……まあ、そういうのに興味を持つ人もいるわよね」
「ていうか、今も普通に夫婦生活あるの?」私は言葉に詰まった。
「……ない、ほとんど」そう答えると、友人たちは複雑そうな顔をした。
「そっか。でも、うちはまだ普通にあるよ」
「うちも。まあ、減ったけどね」私は愕然とした。みんな、まだ夫とそういう関係を続けているの? 私だけが変なの?
夫に触れられることを、私は避けるようになっていた。彼の求めに応じられない自分が嫌だったし、申し訳ないとも思っていた。けれど、そんな私を見て、夫は寂しさを募らせていたのだろうか。
そして、数日後――
夫は再びあの話を持ち出してきた。今度は手にパンフレットを握りしめていた。
「一度でいいから、参加してほしい」私にそれを差し出しながら、夫は静かに言った。
私は躊躇しながら、それを受け取った。そこには、まるで映画のワンシーンのような華やかな写真が並んでいた。シャンデリアが輝き、上品な男女がシャンパンを片手に微笑んでいる。異世界のような光景だった。
「……私には無理よ」心の中では拒絶していた。けれど、夫の目を見た瞬間、言葉が喉の奥でつかえた。
このまま断ったら、夫との距離はさらに広がる気がした。
「……わかった。でも、一度だけよ」そう答えた自分に驚いた。なぜ受け入れたのかわからなかった。ただ、夫の気が済むなら、それでいいと思ったのかもしれない。
それから私は、無意識のうちに変わり始めた。
食事の量が減り、自然と運動するようになった。気づけば、体重は4キロ落ちていた。久しぶりに美容院にも行った。きれいになりたいという気持ちが、ふと湧いたのだ。
夫の期待に応えたかったのだろうか?
そんな自分が嫌だった。でも、少しだけ胸が高鳴る感覚もあった。
そして、パーティ当日――私は震える手でドアノブを握りしめた。
夫は私の肩に手を添え、小さく微笑んだ。
「大丈夫。何もしなくていい。ただ、見ているだけでいいんだ」
夫の優しい声が耳に届く。でも、私は怖くて仕方がなかった。
中に入ると、まるで異世界だった。豪奢なシャンデリア、赤いカーペット、優雅な音楽。スーツに身を包んだ男たちと、華やかなドレスを纏った女たち。どこか妖しげな空気が漂っていた。
私は、ここにいてはいけない。
そう思った瞬間、夫が見たこともないような積極性で、次々と人に声をかけ始めた。
「どうも、初めまして」彼の姿に、私は驚き、動揺した。
夫は気弱な人だったはず。でも、今の彼は違う。
そして、ついにある夫婦と会話が弾み、相手の奥さんが夫に手を伸ばした、その瞬間――
私の中で何かが弾けた。
「ダメ!!」気づけば、私は夫の手を強く引いていた。
心臓が高鳴り、涙が溢れそうになる。周囲の視線を感じながらも、私は夫を見つめた。
――私は、まだ夫を愛している。
その感情が、熱を帯びて込み上げてきた。
「ダメ!!」
自分の声が会場のざわめきにかき消されることはなかった。周囲の視線が一斉にこちらに集まるのがわかる。でも、そんなことはどうでもよかった。
私は夫の腕を強く引いた。
「帰る!」夫は驚いた顔をしていた。こんなに強く拒絶するとは思わなかったのかもしれない。でも、それ以上に驚いているのは私自身だった。
私は夫が他の女に触れられるのが耐えられなかった。
嫉妬なんて、とうに卒業したはずなのに。
「……ごめん」夫がぽつりとつぶやいた。その声は、申し訳なさと安堵が入り混じっていた。
会場を後にして、駐車場に向かう。夜風が頬を撫でる。私の心臓はまだ早鐘のように打ち鳴らされていた。
夫は何度も私に謝った。
「無理させたね。もうやめよう」私は夫の顔を見つめた。そこには、見慣れた優しい彼の表情があった。
「……ほんとに?」夫はうなずき、私の手をぎゅっと握った。その手のぬくもりに、思わず涙がこぼれそうになった。
「……帰ろうか」そう言った瞬間、私の目にある看板が映った。
ラブホテル。
「そこに入って」思わず口から出てしまった言葉に、夫は驚いて私を見た。
「え……?」夫は戸惑っていた。でも、私は真剣だった。
「お願い。……今すぐ、あなたと二人きりになりたい」
夫はしばらく黙ったあと、何も言わずにハンドルを切り、駐車場へと車を滑り込ませた。
部屋に入ると、夫はそっと私を抱き寄せた。
「……ほんとにいいの?」
「何言ってるの……」私は彼の胸に顔をうずめ、心の奥に秘めていた想いを吐き出した。
「私、あなたが好き……ずっと……ずっと大好きなの。誰にも渡したくない……っ」
夫の腕が、さらに強く私を抱きしめた。
「俺だって、お前が他の男になんて……絶対に無理だよ」彼の言葉に、涙があふれた。
私たちは、お互いの存在を確かめ合うように、何度も抱きしめ合った。
こんなにも夫を求める自分がいることに、驚いた。
ずっと忘れていた情熱が、まるで若い頃に戻ったかのように、溢れ出して止まらなかった。
――私はまだ、女だった。
彼の妻であり、彼の恋人だった。
それから私たちの関係は変わった。
夫は、まるで新婚のように私を求めるようになった。
私もまた、それに素直に応じるようになった。
週末には二人で出かけることが増えた。手をつなぐことも、特別なことではなくなった。
ある日、何気なく夫が言った。
「最近、お前がきれいになった気がする」
「そりゃあ、あなたのせいでダイエットしたし、美容院にも行ったから」
私は笑いながら言ったけれど、夫は真剣な目をしていた。
「違うよ。目が、すごく……生き生きしてる」その言葉が、胸に響いた。
――そうか、私はもう「女としての自信」を失っていないんだ。
夫婦は長く一緒にいると、愛情を疑うことがある。相手にとって自分はもう女じゃないのかもしれない、ただの家族になってしまったのかもしれない……そんな不安が、私たちを遠ざけていたのかもしれない。
でも、今ならはっきりわかる。私たちは、夫婦である前に恋人だった。
そして、それは今も変わっていない。私はそっと夫の手を握る。
「これからも、よろしくね」夫は優しく微笑んだ。
「当たり前だろ」そして、私たちはゆっくりと手をつないだまま歩き出した――。
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