薄明かりの中で目を覚ましたとき、僕はしばらく自分がどこにいるのか分からなかった。寝ぼけた頭で周囲を見回すと、柔らかなカーテン越しに差し込む朝の光と、どこか甘い香りに包まれた空間が目に入った。隣を見ると、明日香が眠っていた。肩まで掛けられたシーツの上に、その白い肌が浮かび上がっている。髪は乱れているのに、それさえも美しく感じるのは、僕が完全に彼女に溺れている証拠なんだろう。ふと、彼女の肩口がかすかに動く。まだ夢の中らしいその姿を見つめていると、昨夜のことが脳裏に蘇った。
「恵子には内緒ね」その言葉を聞いた瞬間、僕の理性はどこかに消え去っていた。あの時の彼女の声は、まるで耳元に忍び込む風のようだった。ひそやかで、心を揺さぶる魔法みたいな響き。僕は分かっていたんだ。本当は、一線を越えたら何もかもが終わるって。でも、彼女の瞳に捉えられた時点で、そんな考えはどうでもよくなっていた。
「本当にこれでいいのか……」自問自答しても、答えなんて出てこない。ベッドの端に座り、頭を抱える僕の背後で、彼女が小さく伸びをする音が聞こえた。その音が妙に耳に残る。
「おはようございます」振り返ると、彼女が眠そうな目を細めながら微笑んでいた。その微笑みに僕は言葉を失った。昨夜と変わらず、彼女の瞳は僕を飲み込むような輝きを放っている。
「……おはよう」ぎこちない返事をする僕に、彼女はくすりと笑うと、シーツを直しながら言った。
「昨日のこと、後悔してます?」
「後悔……してないよ」言葉に詰まった僕の様子を見て、彼女はまた微笑んだ。その笑顔には、不思議な余裕と、どこか切なさが混ざっていた。それから、僕は彼女の家を出た。朝の冷たい空気が肌を刺すようだったけど、それ以上に胸の奥に広がる罪悪感が僕を苦しめた。これが、僕と明日香が初めて一線を越えた夜だった。正直に言うと、それからの僕は毎日彼女のことばかり考えていた。会社に行っても、庭の手入れをしていても、家族と過ごしていても、気づけば彼女のことが頭に浮かんでいた。
最初に彼女に会ったのは、去年の夏。家庭菜園で汗を拭いながら、咲き始めた小さな花を眺めていた時だった。
「暑い中、大変ですね。これ、どうぞ」振り向くと、そこに明日香が立っていた。白いブラウスにデニム姿。見た目はシンプルなのに、まるで映画のワンシーンみたいに目を奪われた。彼女が差し出した麦茶のグラスを受け取るとき、指先がほんの一瞬触れ合った。その瞬間、僕は胸の奥がざわざわとするのを感じた。今思えば、あの時から僕は彼女に囚われていたんだと思う。隣に彼女が引っ越してきたのは数か月前。妻の恵子が、「高校時代の友達が近所に越してくるの」と話していたのを覚えている。明日香は今は独身で、どこか影を感じさせる雰囲気を持っていた。
「明日香って、可愛いよね」ある日、恵子が夕食の席でふと言った。その言葉に、僕は妙に引っかかるものを覚えた。
「昔から男の人を惹きつけるのよね。本人はそんなつもりないんだろうけど」その言葉が、どこか現実味を帯びて耳に残った。彼女と顔を合わすたびに、僕の中で何かが変わっていくのを感じた。彼女は小さな花を見て微笑みながら、ふとつぶやいた。
「本当に綺麗ですね」その声が妙に心に響いた。僕の家庭菜園が、こんなにも彼女の目に映えるものだなんて、考えたこともなかった。そして、ある日の夜。僕が庭でひとり花を手入れしていると、明日香がそっと声をかけてきた。
「戸田さん、今日夜一人ですよね?」その声には、どこかいつもとは違う響きがあった。妻が夜勤っていうことを知っているのだろう。僕は彼女の瞳に吸い込まれそうになりながら、ゆっくりと頷いた。その後、彼女の家の前に立っている自分に気づいたとき、僕はもう後戻りできないところにいたのかもしれない。
あの夜、明日香の家で交わした会話は、今でも鮮明に覚えている。彼女の部屋は、柔らかな間接照明に包まれていて、どこか落ち着いた香りが漂っていた。香水のような、それでいて少し甘い香り――彼女そのもののような空気感だった。彼女は僕にグラスを手渡し、静かにワインを注いだ。その手元を見ているだけで、心がざわざわと波打つ。
「琢磨さん、恵子とどうなんですか?」不意に投げかけられたその問いに、僕は一瞬動きを止めた。なぜそんなことを聞くのか、頭では分からないまま、言葉を探す。
「どうって言われても……」絞り出すように答えた僕を、彼女はじっと見つめていた。その瞳は、底が見えない湖のようで、僕の心の奥底を覗き込んでいるように感じた。
「じゃあ、琢磨さんは幸せですか?」僕自身? 僕が幸せかって?そんなこと、考えたこともなかった。家庭を守り、仕事を全うする。それが僕の役割だと思ってきた。だけど――
「分からないよ……正直、考えたこともないよ」そう答えた僕に、彼女は少し寂しそうに微笑んだ。その笑顔が胸に刺さる。
「……そうですよね。でも、私、分かるんです。琢磨さん、いろいろ我慢してるんじゃないんですか?」その言葉に、僕は完全に動けなくなった。心の奥に隠していたはずの感情を、彼女にすべて見透かされている気がした。
その夜、僕と彼女は一線を越えた。背徳感と興奮が入り混じる中で、僕はただ彼女の存在に溺れていった。明日香の瞳の奥には、何か得体の知れない引力がある。それは、僕の理性を一瞬で溶かしてしまうほどの力だった。朝が来て、家に帰った僕は、まるで罪人のような気分だった。恵子が夜勤から帰ってきたときに、僕はまともに彼女の顔を見られなかった。
「……お疲れ様」そんな言葉を投げかける自分が嫌だった。でも、もっと嫌だったのは、その言葉をかけながらも、明日香のことを考えている自分だった。
それからというもの、僕の生活は完全に狂い始めた。庭の手入れをしていると、明日香が顔を出す。そのたびに胸がざわつき、僕はどうしようもない気持ちになる。彼女の何気ない一言が、僕の心を揺さぶる。
「綺麗ですね、琢磨さんの野菜。きっと、琢磨さんが一生懸命手をかけているからなんでしょうね」その言葉が耳に残る。僕のことを褒める彼女の声が、どこか魔法のように心地よかった。そして同時に、妻の存在を思い出しては、罪悪感に襲われる日々が続いた。ある雨の日、彼女が突然、僕の車の前に立っていた。黒い傘を差し、その傘の縁から雨粒がぽたぽたと地面に落ちている。
「送ってもらえませんか?」そんな彼女の頼みを、断れるはずもなかった。僕は助手席に座る彼女を横目で見ながら、何かを話すべきか迷っていた。けれど、明日香のほうから話を切り出してきた。
「こうして二人きりになると……なんだかドキドキしますね。」彼女の声は低く甘く、言葉そのものよりも、その響きが僕の胸をかき乱した。冗談とも本気ともつかないその言葉に、僕はどう返せばいいのか分からなかった。だけど同時に、彼女の瞳にまた捉えられた瞬間、そんな疑問はどうでもよくなってしまった。
数日後、とうとう恵子が僕に口を開いた。
「明日香とは距離を置いてほしいの」僕の胸が一瞬、音を立てて崩れるような気がした。
「え?どうして?」なんとかそう返したものの、僕の声は震えていた。
「彼女はね、いつも周りを傷つけるのよ。」その言葉は、あまりにも正確で、あまりにも的を射ていた。僕は何も答えられ
ず、ただうつむくしかなかった。
その夜、ベランダで煙草をふかしながら、僕は隣の家を見た。明日香の家のカーテン越しに、彼女の影が見える。
気づけば彼女はカーテンを少し開け、僕を見つけて微笑んでいた。手を軽く振るその仕草に、また僕は心を奪われる。彼女の瞳――その奥にある得体の知れない魔性。
もう手遅れだった…