
夜の静寂を破るように、インターホンが鳴った。俺はソファで参考書を開いたまま、ぼんやりとその音を聞いた。
こんな時間に、誰だ?スマホの画面を確認すると、夜中の 11時57分。
「…まさか」心当たりは、一つしかなかった。ため息をつきながら玄関へ向かい、ドアのスコープを覗く。やっぱり——そこには、寧々がいた。伊藤寧々。二年前、生活費抑制の為にひょんなことから俺の部屋で一緒に暮らしていた女。が、ある日突然「出ていくね」と言い残して出て行った。それなのに、半年も経たないうちに「彼氏と喧嘩した」と言って俺の部屋を訪ねてきた。それが、今回で 三回目 だ。
——まったく、懲りないやつだな。俺は、少し間をおいてからドアを開けた。
「…また来たの」ドアの隙間から覗くと、寧々は寒そうに腕を抱えながら、申し訳なさそうに笑った。
「…うん。また来ちゃった」冷えた空気と一緒に、懐かしい甘い香りが鼻をくすぐる。
「また」ってなんだよ。 そんな皮肉が喉まで出かかったが、結局飲み込んだ。
寧々は、俺の顔をじっと見つめる。
「……入れてくれない?」俺は小さくため息をつきながら、ドアを開けた。
どうせ、俺はこいつを追い出せない。寧々がするりと部屋に入り、当たり前のようにソファに座る。
「…で? 今回は?」
「彼氏がさ、また浮気してたの」また、か。
呆れながら、俺は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。
「前も同じこと言ってたよな?」
「うん。でも今回は 確実に証拠がある」そう言いながら、寧々はスマホを取り出し、俺に画面を突きつけた。
「……見ちゃったのか?」
「だって、スマホ置きっぱなしだったんだもん」寧々は、ぷくっと頬を膨らませた。
「で、そいつとは別れるのか?」
「うーん…」
「そもそも、そんな男と暮らすなよ」
「それは……まぁ……」言葉を濁す寧々を見ながら、俺は何とも言えない気持ちになった。
——二年前、寧々と一緒にいたとき、金銭面では助けてもらっていた。寧々は働きながら税理士を目指していたし、俺も公認会計士の試験勉強をしながらバイトをしていた。「お互い夢を叶えたら、一緒に事務所を開こう」そんな会話を交わしたこともあった。——なのに、どうして俺たちはこうなったんだろうな。
「……ねぇ、泊めてくれるよね?」寧々が俺の顔を覗き込んでくる。結局、俺は断りきれずに寧々を泊めることになった。
——ただし、ベッドは別々だ。
「この時期は寒いから、床に寝るのはきついぞ」
「じゃあ、一緒のベッドでいいじゃん」何を当然のように言ってるんだこいつは。
「いや、さすがにそれはマズいだろ」
「なんで? 今さら照れることないでしょ」
「…そういう問題じゃない」俺が戸惑っていると、寧々は勝手知ったる様子で俺のタンスを開け、俺のTシャツを取り出して浴室へ向かった。
「おい、人の部屋なんだから勝手に……」言いかけたが、止めた。どうせ今さらだ。
風呂から上がった寧々が出てきたとき、俺は思わず目をそらした。
俺のTシャツを着た寧々は、まるでミニワンピースのような格好になっていた。
しかもノーブラなのか、シルエットがうっすらと浮かんでいる。
「だって、パジャマ持ってないし」さらっと言う寧々に、俺は溜め息をつくしかなかった。
「お前、明日は?」
「土曜だから休み」
「じゃあ、朝には出てくれよ。俺は仕事がある」
「えー、もっとゆっくり寝てたい」
「鍵、ポストに入れとてよ」そう言うと、寧々は「わかった」と小さく返事をした。ベッドに入ると、寧々が隣に滑り込んでくる気配がした。
「ねぇ、今年の試験、どうだった?」唐突な質問に、俺は少しだけ沈黙した。
「……まだ結果は出てないけど、1科目ちょっと自信ない」
「そっか……受かるといいね」寧々はそう言って、しばらく黙っていた。
——この時間が、何となく心地よかった。
寧々は俺の背中にそっと腕を回し、抱きついてきた。
「ねぇ……してもいいんだよ」囁くような声に、俺の喉がごくりと鳴る。
「ダメだよ。お前、彼氏いるんだろ」寧々が、俺の腕に顔をうずめる。
俺は、苦しいほどの葛藤を抱えながら、必死に理性を保った。
「……早く寝ろ」そう言って、俺は寧々に背を向けた。
翌朝、目が覚めると、隣には寧々がいた。俺のTシャツを着たまま、穏やかな寝息を立てている。…何をやってるんだ、俺は。
昨夜はギリギリのところで自制したが、正直かなり危なかった。このまま一緒にいれば、いつか理性のタガが外れるかもしれない。——それが怖かった。俺はそっとベッドを抜け出し、朝の準備を始めた。寧々はまだぐっすりと眠っている。
「……ったく、のんきなやつだな」小さく呟きながら、仕事に向かった。
昼休み。いつものように昼飯を済ませ、スマホを取り出す。
「……そろそろか」試験結果の発表日だった。
心臓がドクンと高鳴る。今の俺の人生を左右する重大な瞬間だ。
——いくぞ。画面を開き、試験結果を確認する。
「……えっ」思わず息を呑んだ。『合格』その二文字が、確かにそこにあった。
「……マジか……」手が震えた。
8年越しの夢だった。追い詰められるように勉強してきた。何度も挫折しそうになり、それでも諦めなかった。そして——俺は、やっと合格した。
「……受かった……!」小さく呟いた瞬間、隣の席の同僚が驚いた顔でこちらを見た。
「え? もしかして……!」「…受かりました…!」
「おおっ! おめでとう!!」職場の皆が拍手し、所長も笑いながら俺の肩を叩いた。
「よくやったな、沢村」「ありがとうございます……!」
「このままウチのエースになってくれ」俺は、夢にまで見た公認会計士の資格に合格した。
その日の帰り道、俺はスーツショップに立ち寄った。「合格祝いに、いいスーツを買おう」今までは安物で済ませていたが、今日は違う。店員に勧められるまま試着室でジャケットを羽織る。
「…悪くないな」鏡に映る自分の姿が、少しだけ誇らしく見えた。俺は変わった。二年前とは違う。俺は——前に進んでいる。
夜、家に帰ると、まだ寧々がいた。
「……なんでいるんだよ」
「待ってたんだよ」俺は呆れながら、新しいスーツをハンガーラックに掛ける。それを見た寧々が「えっ?」と驚いた顔をした。
「ちょっと、それ……どうしたの?」俺はスーツの襟を軽く整えながら、笑って言った。
「受かったよ。良いやつ買っちゃった」寧々の目が大きく見開かれる。
「…マジで?」
「ああ、マジで」寧々はしばらく俺の顔を見つめていた。
「やったじゃん!!」次の瞬間、俺に飛びついてきた。
「うおっ!?」「すごい、すごいよ!! ほんとにすごい!!」俺の背中をバンバン叩きながら、寧々は大げさなくらい喜んでくれた。
「お祝いしなきゃ! 何か食べに行こうよ!」
「いや、別にいいよ」
「ダメ! 今日はめでたい日なんだから!」
俺が断る暇もなく、寧々は「じゃあちょっと待ってて!」と部屋を飛び出していった。
30分後に寧々は袋を両手に抱え、戻ってきた。
「買ってきた!」袋の中を見ると、シャンパン、唐揚げ、ポテト、サラダ、そして——
「お前、ケーキまで買ってきたのか」
「だって、お祝いでしょ?」寧々は無邪気に笑った。久しぶりに、二人で並んで食べる。この光景が、なんだか懐かしくて、少しだけ胸が締めつけられた。シャンパンを開けて、軽く乾杯する。
「本当におめでとう」
「…ありがとな」しばらくの間、俺たちは無言でグラスを傾けた。
ふと、寧々が小さく息をついた。
「……ねぇ」
「ん?」
「奥さんと、やり直すの?」俺は思わず、グラスを持つ手を止めた。
「……は? 何言ってんだよ」寧々は、テーブルの端を指でなぞりながら、視線を落とす。
「だって……元々は、奥さんのために勉強してたんでしょ?」
俺は、彼女の言葉を聞いて、一瞬だけ言葉に詰まった。
過去の記憶が、頭の中に蘇る。公認会計士になると言い続けて5年落ち続けていた。今のままじゃ生活できない。そう言われ続けた。結局、最後には愛想をつかされ出ていった。元妻にとって、俺は「夢を追いかけるだけの男」でしかなかったのだ。
俺は、グラスをゆっくり置いた。
「やり直さないよ」寧々の目が、大きく揺れる。
「……本当に?」
「連絡なんか取っていないしね」
「……よかった」寧々は、ほっとしたように微笑んだ。
でも、俺は少しだけ苦笑しながら言った。
「でもさ…彼氏がいるお前に、こんなこと言っても意味ないよな」寧々の手が、小さく震えた。
そして、涙をぽろっと零しながら、小さな声で言った。
「……嘘。全部嘘なの」
俺は驚いたように、彼女を見つめた。寧々の声は震えていた。俺はグラスを置き、彼女をじっと見た。
「嘘って……どういうことだよ?」寧々は小さく唇を噛み、視線を落とした。
「彼氏なんて、最初からいなかった。喧嘩したとか、浮気されたとか……全部、嘘」
「……は?」思わず言葉がこぼれる。
「なんでそんな嘘をついたんだよ?」寧々は苦笑いしながら、涙を拭った。
「……だって……元奥さんの為に頑張ってるんだと思って……それが辛くて……」俺の心臓が、ドクンと鳴る。
「……お前……」寧々は震える手でグラスを握りしめたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私と一緒に暮らしてても、心のどこかで彼女のことを考えてるんじゃないかって……」
「違う」「……本当に?」「違うよ。俺は……」寧々は涙をこぼしながら、必死で言葉を紡ぐ。
「最初はね、ただ一緒に頑張りたかっただけなの。でも……一緒にいるうちに、本当に好きになっちゃって……」
俺は、何も言えなかった。寧々が涙を流しながら話す姿を見て、何かが胸の奥で軋むような感覚がした。
「でも夢が叶えば、また元奥さんのところに戻るんじゃないかって思ったら……怖くなったの」
寧々は嗚咽をこらえるように、小さく震えていた。
「でもやっぱり敦のことが好きだから、嘘をついて会いに来てた……」俺は、寧々の肩をそっと掴んだ。
「なんで……言わなかったんだよ……」寧々は、俺の胸に顔を埋めた。
「言えるわけないじゃん……だって、もし敦が本当に元奥さんのことを想ってたら……私なんて、邪魔でしかない……」
「そんなわけないだろ」寧々の涙が、俺のシャツに染み込んでいく。
俺は彼女を強く抱きしめた。
「バカか、お前は……」寧々は涙ぐんだまま、小さく頷いた。
「……バカだよね」俺は、大きく息を吐き、寧々の頭を撫でた。
「お前がいなくなって……俺もずっとモヤモヤしてたんだよ」
「……え?」「何かが欠けたような気がしてた。でも、俺はそれを認めたくなかった」
俺は、彼女の目を見つめた。
「もう、嘘はつくな」寧々は、唇を噛みながら、涙を拭った。
「……うん……」俺は彼女の肩を抱いたまま、そっと囁いた。
「今度こそ、ずっと一緒にいよう」寧々は、大きく目を見開き、そして、こくんと頷いた。
寧々は涙を浮かべたまま、俺を見つめていた。
「……本当に?」「本当に決まってるだろ」俺は、寧々の頭を優しく撫でながら、ゆっくりと笑った。
俺は寧々の手を握り、そっと引き寄せた。
「これからは、ちゃんとお前のことを大事にする」
「……うん…」寧々は、潤んだ瞳で俺を見上げた。俺たちは、そのまま静かに唇を重ねた。
———
翌朝。目が覚めると、隣には寧々がいた。昨日のことが夢じゃないことを確認して、俺は静かに息を吐く。寧々は俺の腕を枕にして、穏やかな寝息を立てていた。こんな朝が、また訪れるとは思わなかった。俺はそっと寧々の髪を撫でる。
「……ん……」寧々が微かに身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。
「……おはよ」
「おはよう」眠そうな目で俺を見つめ、照れくさそうに微笑む寧々。
「なんか、変な感じ」
「そうか?」
「うん……だって、またこうして敦の隣で目覚めるなんて……」
「俺は、こうなる気がしてたけどな」寧々は驚いたように俺を見る。
「ほんと?」
「ああ……多分、どこかでお前が戻ってくることを期待してたんだと思う」
「……バカ」寧々は恥ずかしそうに俺の胸に顔をうずめた。
俺は、その頭をそっと抱きしめる。
「これからどうする?」
「……んー」「お前、今の仕事は?」「辞める」「即答だな」
「だって……もう、戻る理由ないもん」寧々は、俺の胸元をぎゅっと掴む。
「今度こそ、本当に一緒にいたい」
「……うん」俺は迷いなく、寧々の手を握り返した。
———
数日後。俺たちは正式に一緒に暮らすことを決めた。寧々は職場に辞表を出し、俺の家に再び荷物を運び込んできた。
「ただいま!」
「おかえり」その言葉が、心の底から嬉しかった。寧々が帰ってきた。もう、一人じゃない。
「……なあ、寧々」「ん?」「結婚しよう」寧々の目が大きく見開かれる。
「え……?」「もう、曖昧な関係じゃなくて、ちゃんと夫婦になろう」
「……ほんとに?」「本気だよ」寧々の目が潤み、ぽろぽろと涙がこぼれる。
「……うん……うん……!」俺は、寧々を強く抱きしめた。
——もう、離さない。こうして、俺たちは新しい未来へと踏み出した。