
私の名前は高橋宏、42歳です。私は親友を二度も裏切ってしいました。
独身のまま40代を迎え、ただ仕事に打ち込む日々を過ごしていました。
唯一の心の支えは、大学時代からの親友・村井浩二でした。
浩二とは何でも語り合える、数少ない無二の存在でした。
互いの失敗も喜びも、すべて笑い話に変えながら乗り越えてきたのです。
浩二が結婚を決めたときも、私は心から祝福しました。
相手は八歳年下の愛子という女性で、落ち着いた物腰と控えめな笑顔が印象的な人でした。
愛子は決して自分を強く主張せず、浩二と並ぶ姿を見るたび、私は穏やかな家庭を築いたのだと安心していたのです。
ところが、私の人生は思いがけない方向に転がっていきました。
春の気配が濃くなったある日、浩二が海外赴任を命じられ、愛子はひとり日本に残ることになったのです。
たまには顔を見に行ってやってくれと浩二は気軽に頼んできました。
私も深く考えず、親友の頼みならと軽い気持ちで応じました。
浩二のために、少しでも愛子の寂しさを紛らわせればと思ったのです。
彼女もあくまで礼儀正しく接し、余計な感情を見せることはありませんでした。
私たちは他愛のない話題を選び、互いに意識しないふりをしていたのかもしれません。
でも、ある夏の気配が近づいた夜、店を出て並んで歩く道すがら、ふとした拍子に手が触れたのです。
ほんの一瞬の出来事から、二人の関係は静かに変わってしまいました。
数週間後、再び二人きりになった夜、私はとうとう彼女に手を伸ばしてしまったのです。罪悪感が胸を締めつけましたが、愛子の奥底にある寂しげな視線が、どうしても忘れられませんでした。私は理性を裏切り、再び彼女に手を伸ばしてしまったのです。
その後も、一度きりの過ちで終わらせるべきだったのに、自分の手で二度目の裏切りを選んでしまったのです。
何度も後悔しましたが、結局、彼女をまた求めずにはいられませんでした。
浩二が海外へ旅立った直後、私は愛子と定期的に食事を共にしました。親友の頼みを断る理由などなく、ただそれだけのつもりでした。
ある夏の気配が近づいた夜、店を出て並んで歩く道すがら、ふとした拍子に手が触れたのです。お酒が少し入っていたこともあり、お互い妙な沈黙が続きました。
そのあとは愛子の家で再び飲みながら、浩二に電話をかけたり、ゲームをしたり、たわいもない時間を私たちは過ごしました。
何かが変わったと自覚したのは、時計の針が深夜を回ったころのことです。部屋の灯りはぼんやりと温かく、湿った夜風がカーテンの隙間から入り込んできました。愛子はソファの端に座り、指先でグラスの縁を撫でていました。
ふとした瞬間、彼女の肩が小さく震えたように見え、私は無意識にその動きを目で追っていたのです。視線が合うと、愛子は何も言わずにゆっくりと目を伏せました。その仕草は、拒んでいるようでもあり、逆にどこか許しているようにも感じられたのです。
私の理性は必死に警鐘を鳴らしていました。
「やめろ」と頭の中で叫ぶ声が何度も響いていましたが、それ以上に胸の奥で疼くものが強くなっていきました。時計の針の音が大きく響いて、次第に自分を責める声のように思えてなりませんでした。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動だけが部屋の中に響いているようでした。
そしてその距離が、いつの間にか少しずつ縮まっていったのです。愛子の肩がわずかに揺れ、私は彼女を抱き寄せる手に力を込めました。
私たちは、決して越えてはいけない一線を静かに、しかし確実に越えてしまったのです。彼女の体に触れた瞬間、すべての音が遠のいていくような感覚に包まれました。何も言葉は交わさず、ただ、互いの息づかいだけを感じながら、自身の存在を確かめるかのように、ぬくもりだけを求めていました。自分が何をしているのか、本当はわかっていたはずです。けれど、もう止まることはできませんでした。異常なほどの興奮で、最後の理性がかすかに悲鳴を上げていたように思います。彼女も同じような感覚だったのだと思います。快楽に身を任せるという感じではなく、抑えられない衝動。そういう感じでした。一度だけの交わりでは満足できず、その晩3度も愛し合いました。
終わった後、部屋の中はひどく静かで、外からわずかに虫の声がわずかに響いていました。そのかすかな音でさえ、どこか胸を突き刺すように響いていたのです。夜が深まるにつれ、私は天井を見上げながら自分の浅い呼吸音に耳を済ませていました。
その音が、自分を責めているようにも聞こえ、妙に冷静な自分が、心の奥でじっと痛みを受け止めていました。
別れ際、玄関先でほんの一瞬だけ愛子と目が合いましたが、もうそのときには、私たちの間には取り返しのつかないものが生まれていました。
帰り道、私は必死に一度きりの過ちだと自分に言い聞かせ続けていました。
けれどこの関係が、簡単には終わらせることができないことを心の奥ではすでにわかっていたのです。
翌日、仕事に向かう電車の中で、窓の外に流れる景色を見つめながら思いました。
もうなかったことにしようと自分にそう言い聞かせても、胸の奥にはあのときのぬくもりがはっきりと残っていました。私は、なるべく仕事に集中しようとしました。しかし、ふとした拍子にペンを持つ手が止まり、忘れたはずの余韻が体の底から這い上がってくるのです。どうしても漲ってくるのです。その後もしばらく胸の内側がかき乱されているようでした。
私の中の彼女の存在が強くなっているのを感じたのです。けれど私は、その気持ちを胸の奥にそっと押し込めていました。
その後しばらくは、何事もなかったかのように日常が過ぎていきました。
浩二と連絡を取り、ときおり愛子にもメッセージを送り、必要最低限のやり取りが続いていました。
けれど、日常の景色は少しずつ変わって見え始めていたのです。会社帰りにふと立ち寄った公園のベンチで、私はあの夜のことを思い返しました。忘れようとするほど、彼女の柔らかな肌の感触が指先に鮮やかに蘇るのです。心の中で思い返すたび、余計に彼女の面影が強く焼き付いていくようでした。それと同時に、浩二の顔が頭をよぎり、胸の奥がひどくざわつきました。
親友として、これほどまでに裏切っている自分が信じられず、罪悪感が重くのしかかってくるのです。
何も知らずに無邪気な声で電話をかけてくる浩二の姿が思い出され、そのたびに私は心の奥で「もうやめろ」と自分に言い聞かせました。
それでも、どうしても愛子の存在が消えてくれなかったのです。
しばらくしたある日、浩二から「愛子が体調を崩したみたいだから見に行って欲しい」と連絡が入りました。
その短い文章を見たとき、私は胸の内が静かにざわめきました。本当は断るべきでしたが、理由を探す間もなく、気づけばスーパーで食材を買い込んでいたのです。
愛子の家へ向かう道すがら、私は何度も立ち止まりそうになりました。自分でも情けなくなるほど、心の中で罪悪感と期待がせめぎ合っていたのです。体調を崩した彼女を見舞うのは、浩二に頼まれたから、当然の行動だと自分に言い聞かせました。
けれど、足取りは重く、それでいて妙な高揚感が胸の奥に潜んでいるのを感じていました。
何を考えているのか自分に問いかけながらも、答えはすでにわかっていました。本来ならふたりで会うべきではないはずの人なのです。
理性は「もうこれ以上は駄目だ」と命じているのに、足はすでに家の前まで来てしまっていました。自分の中の弱さと向き合いながら、私はそっと呼吸を整えました。そして、チャイムを押す直前、もう一度だけ心の奥でつぶやいたのです。
「これで最後にしよう」
その言葉が、どこまで本気だったのか、自分でもよくわかりませんでした。背中に汗がにじみ、冷たい風が頬をかすめても、心臓の音だけが鮮明に響いていたのです。家の中は、時計の秒針が淡々と動いている音だけが小さく響いていました。カーテンが閉じられた薄暗い室内は、空気が重たく感じられました。愛子は布団に横たわり、かすかに頭を動かして私を迎えたのです。私は無言で買ってきた食材を冷蔵庫に収め、お粥を作り始めました。鍋の中で米が煮える音を聞きながら、あの夜の記憶が脳裏をかすめていました。
押し込めたはずの感情が、じわじわと這い上がってきたのです。
台所の棚には、3人で行った旅行の写真と、私が土産に渡したキーホルダーが並べて飾られていました。
それを見るたびに、胸の奥がひどくざわつき、後ろめたさを感じずにはいられませんでした。
私は目を閉じ、小さく深呼吸して、何とか落ち着こうとしました。
お粥が出来上がると愛子はゆっくりと体を起こし、無言のままお粥を受け取りました。
顔色は優れないはずなのに、その表情にはどこか安堵がにじんでいるように見え、私は心の奥に不思議な高鳴りを感じました。
しばらくして、帰ろうと立ち上がったとき、ふいに袖を掴まれました。その手は冷たく、かすかに震えていましたが、決して弱々しいだけではない力が込められていたのです。袖を掴むその手と、自分の心臓の音だけが、部屋の空気を支配していました。
このまま手をほどいて帰るべきだ、と理性はそう繰り返しました。けれど、袖に伝わる微かな熱が、深く沈めてきた欲望と罪の意識をが胸の奥から溢れ出してきたのです。私は何度も心の中でダメだと唱えていました。
それでも、気づけば自分の手がそっと彼女の手に重なり、そしてゆっくりとそのまま引き寄せてしまっていたのです。
触れた瞬間、部屋の中の音がすべて遠のいていく感覚に包まれました。愛子もまた何も言わず、ただそっと体を預けてきたのです。
重苦しい沈黙が続き、時間がねじれていくように感じられました。私はただ、すぐそばにあるぬくもりを感じながら、頭の中が真っ白になっていきました。やがて理性が少しずつ戻り始めると、今度は罪悪感が静かに浮かび上がってきたのです。
私たちはどちらからともなくそっと距離を取り、再び言葉を失ったまま、沈黙の中に沈んでいきました。
どこか夢を見ているような感覚が消えず、意識だけがぼんやりと漂っていました。外は深い夜のまま、現実感のないまま時がゆっくりと過ぎていくように思えたのです。
春が終わろうとした日、浩二から「夏に一時帰国する」という連絡が入りました。親友が戻るという現実が、これまで曖昧だった輪郭を一気にくっきりと浮かび上がらせました。「もうやめなくては」と思うたびに、なぜか私は愛子に会いたくなっていました。
会えばまた罪を重ねてしまうとわかっていても、気持ちを抑えきれなかったのです。愛子もまた、何かを飲み込むように目を伏せることが増えていきました。いつかは終わる関係だということを、心のどこかでは覚悟していたのです。
静けさの奥で、確実に終わりへの足音が近づいていたのを感じていました。
夏の訪れとともに、浩二の帰国が目前に迫ってきました。何も知らない親友は、無邪気な声で楽しそうに話し、その言葉が胸を鈍く締め付けました。「これで最後にしよう」愛子と会うたびに胸の奥でつぶやきました。
けれど、互いに寂しくなれば愛子と交わる日々はもう簡単に離せるものではなくなっていました。理性が何度も訴えても、その声を無視する自分がいました。きっと、愛子も同じ気持ちなのだと信じていたのです。浩二は日本での業務もあるため、しばらく日本に滞在することが決まりました。思わぬ長期滞在の知らせに、私は胸の奥で言いようのないざわつきを感じていました。
「これで本当に終わる」そう思いながらも心の奥底で、終わりを拒む気持ちが残っていたのです。
夏の間、私たちは三人で何度も食事を共にしました。
懐かしい居酒屋の個室で向かい合い、浩二は変わらない笑顔で冗談を飛ばし、愛子も微笑んで応えていました。
まるで何もなかったかのような時間が流れましたが、ふとした沈黙の奥に見えない壁のようなものが感じられました。
これ以上を望んではいけないという思いが互いの胸に深く刻まれていたのです。
愛子とふたりきりになることは一度もなく、それが最後の理性の境界線でもありました。
季節は少しずつ進み、夏が終わる頃、浩二から家への誘いの連絡が入りました。
私は現実を見るのが怖くて、本当は行きたくありませんでした。あの家の扉を見た瞬間、押し込めてきた感情がまたあふれ出てしまう気がしたのです。
けれど断る理由を見つけることもできず、ただ黙ってその誘いを受け入れました。夕方、静かな街並みを歩きながら私は懐かしい家の前に立ちました。玄関の扉が開くと、そこには変わらない浩二の笑顔と、その隣に立つ愛子の姿がありました。愛子の表情は以前よりもどこか柔らかく、穏やかさをまとっていました。
食事の最中、浩二はあふれんばかりの笑顔とともに、愛子に新しい命が宿っていることを告げたのです。私は何度も浩二の言葉を頭の中で反芻しましたが、うまく意味を結ばず、ただ繰り返すことしかできませんでした。そのとき、浩二と愛子の視線が彼女のお腹に向かうのを見て、はっきりとわかったのです。心臓が一瞬止まったように感じました。
胸の奥で何かが静かに崩れていく感覚があり、深い場所でざわざわと波紋が広がっていきました。
次の瞬間、理性では抑えようのないひとつの幻想が頭をかすめました。もし、この子が俺の子なら…。そんなきたない感情が思い浮かんでしまいました。すぐに打ち消そうとしたものの、心の奥底に潜んでいた愚かで恐ろしい感情が、確かに姿を現してしまったのです。
ただ、お腹をさする彼女は、どこか未来を既に決めたような表情をしていました。その柔らかいながらも決意に満ちた瞳が、もう私が踏み込むべき場所などどこにも残されていないことを物語っていました。罪を重ねてきたふたりに、ようやく訪れた明確な別れの瞬間だったのです。私たちが積み重ねてきた罪は、ここで幕を閉じたのだと感じました。
浩二が再び海外へ旅立つとき、空港で別れる際、「また愛子をよろしく頼むわな」と声をかけられましたが、私はうなずくだけでした。
どんな顔をして向き合えばいいのか、自分でもわからなかったのです。ただ、結局会うのが怖くて、連絡を取ることさえできませんでした。彼女の決意を壊してはいけない、その決意だけを胸に日々過ごしていました。
春が近づくころ、浩二から「帰国する」と連絡が届き、愛子の出産も間近だと告げられました。
帰国後、何度か自宅へ招かれました。赤ちゃんが生まれた後も、私は「今度は俺が九州に転勤になった」などとうそをつき断りつづけました。幸せそうにしている二人を怖くて、どうしても会う勇気が出ませんでした。笑顔で会える日がいつか来ればいいと願いながらも、私はしばらく距離を置き続けていたのです。
気づけば丸一年が経っていました。
忙しさに追われ、あの夏の記憶も少しずつ遠ざかっていきました。それでも完全には消えず、心の片隅で静かにくすぶり続けていたのです。
ある休日の午後、私は駅で改札を抜けようとした瞬間、人混みの中に見覚えのある気配を感じました。
思わず立ち止まり、目を凝らすと、そこには浩二と愛子がいたのです。そしてふたりの間にはベビーカーもありました。
私は驚きで胸が一瞬詰まりましたが、すぐに小さな笑みを浮かべました。ふたりもこちらに気づき、驚きながらも笑顔で近づいてきたのです。ベビーカーを押す愛子の顔は、以前と変わらない面影を残しながらも、どこか柔らかく、母としての落ち着きを感じさせました。
視線を下ろすと、ベビーカーの中で赤ん坊が静かに眠っていました。ふたりによく似た、澄んだ顔立ちでとてもかわいい女の子でした。
わずかな時間の再会でしたが、不思議と胸の奥は静かでした。
あれほど恐れていたはずの瞬間なのに、私は落ち着いてその場に立っていられたのです。愛子と目が合ったとき、彼女はそっと笑いました。言葉はなかったものの、その微笑みがすべてを物語っているように思えたのです。もう、自分が踏み入るべき場所などどこにもない。
それが、すべてなのだと、自然に思えました。浩二たちと別れるとき、ふとベビーカーのそばで光るものが目に留まりました。
それは、私が以前お土産であげたあのキーホルダーだったのです。その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった気がしました。
あの夏、私はたしかにこの人を愛したのです。
その記憶は、これからも胸の奥に静かにしまって生きていくと決めました。
私は深く息を吸い込み、ゆっくりと歩き出しました。
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